011 港町の台所をひらく
吹雪の夜を越えた翌朝、広場には昨日より落ち着いた顔が増えていた。
それなのに、鍋の中身は相変わらず心許ない。
大倉に魚はある。根菜も豆も、前よりずっと守れている。けれど町じゅうの家々では、小さな鍋に少しずつ火をかけ、少しずつ薪を減らし、少しずつ手間を無駄にしていた。
つまり、食べられるものは増えたのに、食卓はまだ痩せている。
「……惜しい」
わたしが広場の端で呟くと、横を歩いていたニナが首を傾げた。
「またその顔してる。今度は何が惜しいの?」
「物資じゃなくて、台所です」
「台所?」
赤札の箱から出した干し魚を見せる。
「これ、三十人分のスープにできます。でも三十軒がそれぞれ火を起こしたら、薪が先に尽きます」
「ああ……」
「食べられることと、ちゃんと食卓に乗ることは別なんです」
言葉にした瞬間、頭の中で線が繋がった。
倉庫、診療所、燻製小屋。次に必要なのは、その間を埋める場所だ。
わたしはその足で、広場の裏手にある古い共同炊事場へ向かった。
扉は重く、かまどには煤がこびりつき、長いことまともに使われていないのが一目で分かる。けれど屋根は生きているし、風も防げる。大鍋を三つ置けるだけの広さもあった。
「ここ、まだ使えます」
わたしが言うと、後ろからついてきたカイル様が室内を見回した。
「誰も回せんから閉めていた。炊事番は家の鍋を守るので精いっぱいだ」
「だから逆です。家の鍋を守るために、ここを回します」
そこへ、燻製小屋の前で腕を組んでいた男が入ってきた。第七話の時に札のことで食ってかかってきた、あの不機嫌な職人だ。
「また厄介なことを言い出したな、管理官」
「燻製小屋の方」
「バルト・エルンだ。毎回その呼び方をされると、俺の小屋まで設備みたいだ」
名前を教えてくれたのは進歩だ。
でも顔は完全に面倒事を見る職人の顔だった。
「共同炊事場を開けても、誰が刻んで煮るんだ。魚を燻すだけでも手が足りねえのに」
「全部を一人でやるから足りないんです」
「は?」
「切る人、煮る人、配る人、薪を見る人。役を分けます」
わたしは炭筆を取り出し、古びた机に大きく書いた。
『白札は台所へ』
「白札は加工用です。燻製小屋へ行く前の魚も、すぐ煮ていい根菜も、柔らかくしたい豆も、ここへ集める。台所で下ごしらえをすれば、家に持ち帰る時には火が半分済んでいます」
「それなら診療所の粥も、ここでまとめて炊ける」
ニナがすぐに乗ってくる。
「ええ。病人用、子ども用、働き手用で鍋を分けましょう」
バルトはなお渋い顔のままだったが、カイル様が短く言った。
「兵士を二人回す。鍋を運び、床を直させる」
「カイル様」
「どうせ倉庫の前で立っているより、火の番を覚えさせたほうが役に立つ」
そこから先は早かった。
ヨナスさんが眠っていた大鍋を引っ張り出し、ニコが白札の箱を集めて走り回る。広場の女たちは最初こそ半信半疑だったけれど、刻んだ根菜を一度に鍋へ入れられると分かると、次々に袖をまくった。
「うちの豆、昨日から水に戻してあるよ」
「こっちは塩抜きした魚がある」
「だったら第二鍋へ。豆は先に煮崩して、魚はあとから」
気づけば、わたしは台所の真ん中で指示を飛ばしていた。
家ごとの小さな手間が、一箇所へ集まると流れになる。前世の物流倉庫でもそうだった。入荷口を一本にすると、現場は急に静かになるのだ。
夕方、共同炊事場から最初の鍋が広場へ運ばれた。
干し魚と根菜の濃いスープ。豆を潰してとろみをつけた粥。診療所向けには、ニナが塩気を抑えた柔らかい鍋を別に用意している。
「あったか……」
「家でやるより、ちゃんと味がする」
湯気に包まれた声を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけほどけた。
守るだけでは足りない。出して、煮て、配って、ようやく人の顔色が変わる。
木椀を受け取ったバルトが、黙ってひと口すすった。
それから、いかにも負けを認めたくない顔で言う。
「……悪くねえ」
「褒め言葉として受け取ります」
「まだだ。燻製小屋の火まで回って、ようやく半分だ」
その言い方が、少しだけ面白かった。
怒っているようでいて、もう完全に関わるつもりの声だったからだ。
広場には、昨日までより長く湯気が残っていた。
冬を越える備えが、ようやく今日の食卓へ降りてきたのだ。
なら次は、その湯気を明日にも残す。
台所が開いたなら、次は加工の番だった。




