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第4話 感情の伝播

「感情税あるあるじゃん」と朱里は言った。「借金増えると数値も不安定になるって聞いたことある」


「あ、そうなの? なんか安心した。じゃあ私だけじゃないんだ」


「そう」


「よかった。じゃあ計算続けよ」


ふくが鼻歌を再開した。今度は指を使わずに、暗算で。


屋台の主人が「今日のおすすめ入ったよ」と声をかけてきた。


「あ、マジで?」とふくが顔を上げた。笑った。遅延なく。


気のせいか、と朱里は思った。


凪がカウンターの端に立っていた。ふくと朱里の会話を聞いているようで、聞いていないようで。視線は屋台の煙の方向に向いていた。


「今週のおすすめって何ですか」とふくが主人に聞いた。


主人が答えた。ふくが「それ絶対食べる」と言った。


朱里はカウンターに肘をついた。いつものがたつきを感じた。


夜が来ようとしていた。


周囲が引いていた。


気づいたら、そうなっていた。屋台エリアの人通りが、三人の周囲だけ薄くなっていた。誰かが距離を取った。また誰かが。声を落とした。足を止めた。


朱里は感じていた。手首が熱かった。


「抑えてる」


朱里は言った。自分に言い聞かせるように。


「抑えてるのに」


手首が光った。薄く。青白く。


ふくのリンカクが光った。数値が跳ね上がった。


「朱里ちゃん、ちょっと落ち着いて」とふくが言った。「深呼吸とか」


「してる。してるけど、なんで——」


手首が熱くなった。また。


「また、熱い」


抑えようとした。


熱くなった。


「ふく、ごめん、私ちょっと」


台詞が出なかった。


凪が、少し横に動いた。


ふくが何かを言いかけた。


口が動いた。


声は出なかった。


ふくの手が、手首に触れた。


笑おうとしていた。


口の端が少し上がりかけて、止まった。


暖かい電球の光の下で、それが完全に見えた。


モグラ横丁の雑音が、少し遠のいた。


朱里は立っていた。


手首が熱かった。


冷やしたかった。消したかった。感じることをやめたかった。


やめたくなかった。


台詞が出なかった。


錆びた鉄扉の前に、凪が腰掛けていた。


旧来の階段の一段目。コンクリートが冷たかった。


屋台の多くが店じまいを始めていた。遠くの音が低く届くだけだった。照明が最も弱い場所。屋台エリアの光が、遠くに見えた。


ふくがトイレに行った。


朱里は立っていた。


「座るか」


凪が言った。


「……いい」


錆びた鉄の匂いが鼻の奥にあった。古い埃。屋台の油の匂いは届かなかった。


「ふくの数値は、今週の申告で処理できる範囲だ」


「それは、」


「朱里のせいではない、という意味ではない。ただ、今週の分は対処できる」


朱里は鉄扉を見た。錆が浮いていた。閉ざされていた。


「……私が感情を持ってるから、ふくが傷つく」


「感情共鳴のメカニズムが、まだ解明されていない」


「解明されてなくても、結果は変わらない」


凪は何も言わなかった。


一拍。二拍。


「これは、私だけの話として聞いてほしい」


朱里は凪を見た。


凪の声は平坦なままだった。しかし、繰り返さなかった。止まらなかった。完全な文章が流れた。


「三年前に、感情切除手術を受けた。しかし、手術は完全には機能しなかった。感情の輪郭だけが残っている。何かを感じているはずだという空白感が、消えない」


凪の手が、ゆっくりと動いた。膝の方向へ。


朱里は凪の声を聞いていた。


「フラットとして生きることも、カラーに戻ることも、できない。どちらでもない状態が、三年続いている」


「……そっか」


朱里は言った。それしか出なかった。


「凪、ずっとそれを一人で」


「誰かに言う必要がなかった。今も、必要があるかどうかわからない。ただ」


凪が止まった。


「感情共鳴は、抑圧によって増幅する傾向がある。受容すると、安定する。観察から導いた仮説だ。証明はできていない」


「……受容」


「感情を消そうとするのではなく、感じていることを認める。それだけで、数値の変動が抑えられる可能性がある」


朱里は鉄扉を見た。また。


「なんで、今それを」


「朱里が止まっているから」


長い沈黙があった。


遠くの屋台の音が低く届いていた。


「……蒼一郎に、もう一回会いに行く」


朱里は言った。言いかけなかった。完全な文章だった。


凪が朱里の言葉を繰り返さなかった。一拍の後。


「……わかった」


それだけだった。


錆びた鉄扉の前の静けさが、続いていた。


地上への階段の方向から、自然光が差し込んでいた。


旧改札の枠が残っていた。改札機は撤去されて、枠だけ。その向こうに、白い光があった。


朱里・ふく・凪の三人が、出口付近に立っていた。帰り際の会話だった。


「……コアって本当にあるの?」


ふくが言った。


0.5秒の間があった。それからふくが問いを発した。


「なんか地下に巨大な施設があるって聞いたんだけど、別の人は衛星だって言ってたし」


「あるとすれば、収集したデータを何かに使っているはずだ」と凪が言った。


「そんなの考えてもしょうがない」


朱里はコートを取った。


「コアのことを、直接聞く」


「え、どこ行くの」とふくが言った。


「御堂に」


「え、誰に」


「御堂蒼一郎に」


ふくが少し間を置いた。


「……気をつけてね」


凪は何も言わなかった。


朱里は旧改札の枠を通り過ぎた。


手首のリンカクが、微かに反応し始めた。電波が届き始める境界線。皮膚の下で、小さな振動。


階段を上り始めた。


地上の光が、近づいていた。


同じ椅子。同じ蛍光灯。同じ空調の音。


デスク上の書類が、整理されていた。前回より少なかった。


蒼一郎が座っていた。同じ姿勢で。


「なぜモグラ横丁を黙認し続けたんですか」


朱里は言った。座らなかった。立ったまま言った。


「リンカクの電波が届かない場所を、なぜ国は放置してるんですか」


「感情の発露が制度の管理外になる場所を、なぜ黙認してるんですか」


「理由があるはずです」


「教えてください」


蒼一郎の視線が、わずかに下に落ちた。


デスクの書類の方向へ。


空調の音が止まった。


0.5秒。


さらに。


さらに。


「あそこでしか発生しない感情のパターンがあったからです」


朱里は次の言葉を探した。


出なかった。


「感情の連鎖伝播です。モグラ横丁には、その初期観測記録が存在しました」


朱里の視線が、部屋の中を流れた。


壁の条文集。黒と紺の背表紙。白い背表紙の文字が、見えた。


「……初期観測記録」

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