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第3話 感情割引と裁量の余地

「あ、でも待って——横丁の入口に新しい屋台できてたの見た? なんか揚げ物系らしくて、朝から行列できてたんだけど?」


ふくが声のトーンを上げた。


「そんなの考えてもしょうがない」と朱里は言った。「今は蒼一郎との次の対話をどうするかの方が先でしょ」


凪の視線がふくに向いた。約1秒後に。


「揚げ物系ってどんなの?」とふくが続けた。「私、揚げ物には目がないんだけど、あそこの横丁の揚げ物って大体外れないじゃん、なんでだろ」


「油がいいんじゃないの」


「確かに! 油って大事だよね、人生において」


朱里は申告書類の数字を横目で見た。ふくの借金の分割払い計算。数字が増えていた。


「……ふく、今週の申告締め切り」


「明後日! まずい、計算終わってない」


ふくが書類を引き寄せた。


凪が朱里の方を向いた。


「次の面談では、何を聞くつもりか」


「条例の適用根拠を直接聞く。統計的有意差の算出方法」


「それは、おそらく開示されない」


「わかってる。でもやってみないとわからない」


凪は何も言わなかった。


「……黙認している理由が、ひとつしかないとは限らない」


声が低かった。ふくの計算の声に埋もれた。


朱里は「え?」と聞き返そうとした。


「あ、でも待って——私の計算、先月より3000円増えてる。なんで? 感情税って雪だるまになるの?」


「なるよ」


「えー、きつい」


凪の台詞は、もうそこになかった。


屋台エリアの昼の雑音が、いつものように続いていた。


同じ椅子。同じ蛍光灯。同じ空調の音。


デスク上の書類の束が、前回より厚くなっていた。


朱里は迷わず椅子に座った。前に乗り出した。腰が浮いた。


「お待ちしておりました」


蒼一郎が言った。同じ声で。同じ速度で。


「今日は統計的有意差の算出方法を聞きたい」


「おっしゃっていることは、よく理解しています。感情共鳴連帯課税条例の適用における統計的有意差の定義は、施行規則第三条第二項に詳細が規定されており、具体的には申告者の感情指数の変動が、隣接する申告者の感情指数に対して0.05未満の有意水準で相関が確認された場合を指します。なお、この算出においては——」


「その算出方法を、私が確認できますか」


「施行規則の条文は、申告局の窓口にて閲覧可能です」


「条文を読んでも、私のケースで具体的にどう算出されたかは分からないですよね」


蒼一郎が書類に視線を落とした。


「個別のケースにおける算出の詳細は、個人情報の観点から開示が難しい部分もございます」


「個人情報って、私自身のケースですよね」


「隣接申告者の情報が含まれるため」


手首が熱くなった。前回より少し遅かった。


空調の音が、わずかに変わった。すぐに戻った。


「……なぜ私だけが、こんなに長引くんですか」


「おっしゃっていることは、よく理解しています」


「してない」


「緋山さんのケースは、条例の運用実績が少ない類型に該当します。そのため、確認に時間を要しています」


「運用実績が少ない類型って」


「感情共鳴の強度と伝播範囲が、通常の申告ケースと異なる特性を示しています」


朱里は少し間を置いた。


「通常と異なる特性って、何がどう違うんですか」


「現在、確認中です」


「確認中」


「はい」


朱里は椅子の背もたれを感じた。いつの間にか前傾が緩んでいた。


「……わかりました。また来ます」


「はい。お待ちしております」


廊下に出た。壁に背を預けた。手首のリンカクが冷えていった。発熱が収まる感覚。


天井を見上げた。


空調の音が続いていた。


長椅子に座った。


屋台エリアから少し離れた場所。遠くの調理音が低く届いていた。夕方に向けて照明が少しずつ明るくなっていた。


凪が端に座っていた。壁に背を預けて、やや引いた位置で。ふくが中央で身を乗り出していた。


「で、どうだった」とふくが聞いた。


「同じ。条文を読んで終わり」


「えー、また?」


「また」


「御堂さんってなんか話すの丁寧だよね。なんか、礼儀正しすぎて怖い」


「礼儀正しいのに何も変わらない」


「それが一番きついやつじゃん」


凪が口を開いた。


「今週の横丁の申告代行件数は、先週比で1.3倍になっている。感情税の滞納率も上がっている」


「また分析してる」とふくが言った。


「それとは別に——朱里の感情が高ぶった後、周囲の申告数値が上昇する傾向がある。統計的な偶然とは考えにくい」


「凪ってほんと、何でも数字で見るよね」


朱里は少し笑った。


「私のことも統計にしないでよ」


「……」


凪が止まった。繰り返さなかった。ただ止まった。


「あー、でも確かに朱里ちゃんが怒るとなんか場の空気変わる気がする」とふくが言った。「気のせいかな。あ、でも待って、それって私が朱里ちゃんに感染されてるってこと? ウケる」


「ウケない」


「ウケるって! 感情って感染するんだ、知らなかった」


「感染じゃないでしょ」


「でも凪の言ってること、あながち間違いじゃないかもね。朱里ちゃんってなんか、感情が大きいから」


「大きい」


「うん。なんか、存在感が強いっていうか。怒ってるとき特に」


朱里は長椅子の背もたれに少し体重をかけた。


「……次の面談、どうしようかな」


「条文を変えることはできないから、運用の裁量に訴えるしかないんじゃないか」と凪が言った。


「裁量」


「担当官に、個別判断の余地があるかどうかを確認する」


「あるのかな、そんな余地」


「わからない。しかし、確認しなければわからない」


朱里はしばらく考えた。


「……そうだね」


「あ、そうだ計算しなきゃ」とふくが立ち上がった。「屋台カウンター借りていい? 今週の分割払い、まだ終わってないんだよね」


三人は移動した。


屋台カウンターの木が、調理の熱でほんの少し温かかった。


夕方から夜への移行時間帯。照明が明るくなっていた。調理音、会話、遠くで誰かが歌っている声。モグラ横丁の最も賑やかな時間。


ふくが申告通知書を広げた。指で数字を追い始めた。


鼻歌が止まった。


「なんか最近、数値が変なんだよね」


「変って」


「自分でも理由わかんないんだけど。感情の量は変わってないと思うのに、数値が上がってる気がして」


「……」


ふくが申告書類を見た。指が数字の上をゆっくり動いていた。


「ハハ、まあいいか」


0.5秒。


笑いが来た。

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