第2話 モグラ横丁の凪
「感じることをやめたくない、と思ってるか」
朱里は凪を見た。
「……え」
「課税を避けるために感情を抑制する選択肢がある。しかし」
「……感じることを」
凪が繰り返した。
0.7秒の間があった。
「……異議申し立ての成功率は、過去の事例から見ると低い。それでも進めるか」
ふくが「凪ってほんと感情ないね」と笑った。
「……そう、かもしれない」
凪が答えた。
朱里はその返答を聞いた。かもしれない、という留保を。
「進める」と朱里は言った。「やめる理由がない」
ふくが「じゃあ明日の申告締め切りまでに——あ、でも待って、今週の私の締め切りも明後日だった、まずい」と言い始めた。
凪は何かを言いかけて、止まった。
声が出かかって、止まった。
ふくが「凪ってほんと感情ないね、反応薄い」と笑い飛ばした。
凪は「……いつもここにいる」と言った。
屋台エリアの雑音が、柱の陰に低く届いていた。
廊下を歩く職員たちのリンカクは、どれも光っていなかった。フラットだから当然だ、と朱里は思った。
別館の二階。小さな応接室。縦長の部屋に、蒼一郎の執務デスクと来訪者用の椅子が二脚。窓はすりガラスで、外が見えなかった。壁には条文集が整然と並んでいた。黒と紺の背表紙が整然と並んでいた。その中に、白い背表紙が一冊だけあった。
空調の低い音だけが、部屋を満たしていた。
御堂蒼一郎が立ち上がった。
「緋山朱里さん。お待ちしておりました。どうぞ、おかけください」
声は穏やかだった。感情の起伏がなかった。
朱里は椅子に座った。前に乗り出した。腰が椅子から少し浮いた。
「連帯課税の件です」
「はい。拝見しております」
蒼一郎が書類を一枚、手に取った。朱里は数字を見た。自分の名前が印字されていた。
「この課税は、不当です」
「おっしゃっていることは、よく理解しています」
朱里は少し間を置いた。
「……理解してるなら」
「しかしながら、隣接申告者の感情指数が統計的有意差をもって変動した事実は、条例の適用要件を満たしています。緋山さんの感情が真正であることと、課税が適法であることは、矛盾しません」
「矛盾します」
「……どのような点で、そのようにお考えでしょうか」
蒼一郎の手が、書類を一枚、裏返した。
「私は感情税を払いながら怒ってたんです。制度の中で、ちゃんと。それなのに隣の人の分まで払えって、それはもう感情を持ってること自体が——」
「おっしゃっていることは、よく理解しています」
手首が熱くなった。
「してないでしょ」
「感情を持ち続けることへの緋山さんの意志は、十分に伝わっています。しかしながら、条例の適用においては——」
「条文を読まないでください」
「——感情の発露が他者の感情指数に影響を与えた事実が確認された場合、発露元への連帯課税は適法です。これは感情を持つことへの罰則ではなく、感情の伝播という現象への課税です」
朱里は黙った。
「感情の伝播」
「はい」
「私が怒ったから、隣の人が影響を受けたって、それが証明されてるんですか」
「統計的有意差をもって確認されています」
「統計的有意差って」
「具体的な数値は通知書に記載の通りです」
朱里は通知書を見た。数字の列。パーセンテージ。
「御堂さんって、感情申告したことないんですか。リンカクつけてますよね、一応」
蒼一郎のリンカクは、一度も音を立てなかった。
「もちろんです。ただ、数値が動く機会が少ないというだけのことです」
「そりゃそうですよね、フラットですもんね」
朱里は少し笑った。笑えなかった。皮肉の形をした何かが口から出ただけだった。
「数値が動かないなら、私たちが怒ったり泣いたりしてることも、まあ、関係ない話ですよね」
「おっしゃっていることは、よく理解しています」
「……してないでしょ」
朱里は立ち上がった。
扉に向かった。手をかけた。振り返った。
何かを言おうとした。
「……いや、なんでも」
「何かございましたか」
「ないです」
扉を閉めた。
廊下に空調の音が続いていた。
晴れていた。
セレーンの白い外壁が、午前の光を跳ね返していた。高級住宅街の角地。ガラス窓が大きかった。
「あの人だけ笑ってないじゃん」
ふくが言った。歩きながら、横目で。
朱里は視線を向けた。一瞬だけ。
待合室の中が見えた。全員が穏やかに微笑んでいた。白い椅子。白い壁。造花。その中で一人だけ、壁を見ていた。横顔。微笑まない横顔。
「手術前は笑えないんじゃないの。緊張するでしょ、あそこ」
歩き続けた。アスファルトが足の裏に硬く伝わった。
「あー、そっか。なんか怖いね、あそこ」
「あ、音止まった」
ふくが立ち止まりかけた。
「……あ、また鳴ってる。気のせいかな」
朱里は振り返らなかった。セレーンはもう後ろにあった。
「行ったことある?」
「ない。行きたくもない」
「私も。でもなんか、予約数ヶ月待ちって聞いた。それだけ需要があるってことだよね」
「そうでしょ」
「朱里ちゃんは考えたことない? フラットになること」
朱里は少し間を置いた。
「ない」
「即答」
「考える必要がない」
ふくが「そっかー」と言った。それ以上は聞かなかった。
歩道が続いていた。
「あそこ入ったことある人って、どんな感じなんだろうね」
「知りたくないかな、個人的には」
ふくが笑った。
二人は歩き続けた。モグラ横丁への道を。
いつものテーブルに戻った。
ふくの申告書類の走り書きが、テーブルの上にあった。数字が途中で止まっていた。
凪が立っていた。テーブルには着かず、柱に背を預けた立ち位置で。
「セレーン通った」とふくが言った。「なんか怖かった、あそこ。みんな笑ってるのに」
「手術前は緊張するんじゃないか」と凪が言った。
「あ、朱里ちゃんも同じこと言ってた。そうなのかな」
朱里は椅子に座った。テーブルのがたつきを肘で確認した。いつもの感触。
「ところでさ」とふくが言った。「コアって本当にあるの? なんか地下に巨大な施設があるって聞いたんだけど、別の人は衛星だって言ってたし、どっちが本当なんだろ」
凪が少し間を置いた。
「あるとすれば、収集したデータを何かに使っているはずだ。黙認の理由が、ひとつしかないとは——」




