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第5話 感情は本物だった

朱里は繰り返した。


「はい」


空調の音が再開した。


低い一定音が、戻ってきた。


朱里は椅子の背もたれに背中が当たるのを感じた。いつの間にか、後ろに引いていた。


今回は、四人だった。


凪が窓際に立っていた。ふくが朱里の隣に座っていた。追加の椅子を持ち込んでいた。


蒼一郎が座っていた。同じ姿勢で。


三人分の体温が部屋の温度を微かに上げていた。空調がそれを一定に保とうとする低い音が、少し大きく感じられた。


「続きをお聞きしたい」と朱里は言った。「感情の連鎖伝播、というのは」


「おっしゃっていることは、よく理解しています」


蒼一郎が口を開いた。いつもと同じ声で。いつもと同じ速度で。


「感情税制度の設計目的は、感情の管理ではありません」


朱里は聞いていた。


「感情の連鎖伝播モデルを完成させることです」


蒼一郎の手が、自分の左手首を覆った。書類には触れていなかった。


「人間の感情は、個人の内部に留まりません。ある個人の感情が、隣接する他者の感情指数に影響を与える。その伝播の経路と強度と範囲を、正確にモデル化すること。それが、この制度の本来の目的です」


「……」


「リンカクは、感情の課税装置であると同時に、感情の観測装置です。全市民が装着することで、感情の伝播を人口規模で観測できる。感情申告局は、データの収集拠点です。モグラ横丁は——」


「モグラ横丁は」


「リンカクの電波が届かない場所でのみ発生する感情のパターンがありました。制御されていない状態での、感情の連鎖。それが、最も純粋なデータでした」


朱里は凪を見た。凪は動かなかった。


ふくを見た。ふくは下を向いていた。


「緋山さんの感情的抵抗の全履歴は、そのモデルに必要なデータを供給し続けていました」


「……」


「緋山さんが怒るたびに。抵抗するたびに。感情共鳴が発生するたびに。それが、制度が必要としていたものでした」


朱里は口を開いた。


「じゃあ私がずっと怒ってきたのは」


止まった。


「全部、あなたたちが必要としていたものを」


止まった。


「勝手に差し出し続けてきただけ?」


蒼一郎が答えなかった。


数秒。


空調の音だけが続いた。


朱里の視線が落ちた。デスクの上の、蒼一郎の手首に。長袖の袖口が、手首を覆っていた。


「御堂さんは」


朱里は言った。静かに。怒りではなかった。


「手術を受けましたか」


蒼一郎が答えなかった。


空調の音だけが続いた。


凪とふくが、沈黙の中にいた。


空調の音が続いていた。


蒼一郎の無応答が、続いていた。


凪が口を開いた。


「……朱里の感情は、本物だった」


平坦な声だった。繰り返さなかった。止まらなかった。完全な文章が流れた。


「データになっても、本物だったことは変わらない」


沈黙があった。


凪の手が、静止していた。


ふくが、笑った。


泣きながら。


「あ、でも待って——」


声が震えていた。笑いと涙が混ざっていた。


「私の証言、ちゃんと使われてたじゃん」


沈黙があった。


朱里は蒼一郎を見た。


これまでの場面では、蒼一郎の言葉や書類に視線が向いていた。今回は、蒼一郎の顔を見ていた。


手首が冷たかった。発熱がなかった。


感情の嵐の後の静けさが、手首にあった。


手が少し開いた。


「私は」


5秒の沈黙があった。


「やめない」


蒼一郎が、書類を一枚、デスクの端に置いた。


7秒の沈黙があった。


「……緋山さんは」


蒼一郎が言った。いつもと同じ敬語体で。しかし、口癖がなかった。条文への言及がなかった。結論が感情を無視した方向に着地しなかった。


「なぜそう思えるのですか」


朱里は答えなかった。


答えが言葉にならなかった。


二人の沈黙が重なった。


空調の音が、続いていた。

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