第3章 予兆③
日が傾くころ、俺たちは中野の北東へ向かって歩いていた。
どこへ行くと決めたわけではなかった。ただ、足が昨日の区境のほうへ向いていた。陸は何も訊かずについてきた。白菜は結局買わなかった。
住宅街の道は夕方の匂いがした。どこかの家で魚を焼いている。自転車の籠に買い物袋を載せた女が、俺たちを追い越していく。
「なあ」
陸がずっと黙っていた口を開いた。
「おっちゃん、片づけながら言ってたんだけどさ。占い屋の兄ちゃん、ガキの頃、あの看板の下だけは絶対に通らなかったんだって。落ちてきそうで怖いって。わざわざ向かいの店の前まで回って、遠回りして帰ってたって」
「……そうか」
「それが当たっちゃうんだから、皮肉だよな」
陸はそう言って、足元の小石を蹴った。小石は側溝の蓋に当たって、乾いた音を立てた。
俺は手帳を開いた。自転車。階段。釣り堀。窓ガラス。腕時計屋。八百屋の看板。
一年で一度も外れていない。よく当たる予言者というだけなら、まだいい。引っかかっていたのは当たり方だった。
姪は自転車に乗らなかった。父親は階段に近づかなかった。避けた分だけ道筋が変わり、それでも最後は夢に見えた絵へ戻ってくる。出来事のほうが無理をして、絵に合わせにきている。伝えれば避けられるかもしれない、と真柴は言った。その言い方と、この当たり方は噛み合わない。
そして、今日の雷だ。
雲のない空から雷は落ちない。落ちたとしても、隣の通りに聞こえないはずがない。あれは天気ではなかった。看板を落とすためだけに、あの一区画にだけ落ちた何かだった。
仕事で何百本も線を引いてきた。地面の上の線はどれも、誰かが決めて、誰かが打ちこんだものだった。最初から地面にあった線など一本もない。
誰かが引いている。
「陸」
「ん」
「お前、言ってたな。王の説明には、嘘が一つあるって」
陸は足を止めた。夕陽が陸の顔の半分だけを赤くしていた。
「……言ったけど」
「真柴の頭の中の文章は、『夢に見る』だった。嘘が一つなら、いちばん怪しいのはそこだ」
俺は手帳を閉じた。
「あいつは、見ているんじゃない。起こしているんだと思う」
陸はしばらく何も言わなかった。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……夢に見たことを、三日以内に、起こす」
「それなら外れない。避けても、別の形で来る」
決め手はなかった。この目で見たのは一つの事故だけだ。不自然な事故を不自然なまま見ている、ということもありうる。嘘が「夢に見る」のところにあるとも、まだ決まっていない。
それでも、一年分の話と今日の雷を並べると、いちばん筋が通るのはそれだった。杭が見つからない場所では、いちばん筋の通る線を仮に引いて、そこから確かめていく。俺はその線に賭けることにした。
真柴の言葉を頭の中で並べ直す。区境だった。黒瀬さんが倒れていた。仰向けに。それを、久世さんが見下ろしていた。
三日以内に、あなたは久世さんに殺されます。
最後の一文だけが、ほかと手触りが違った。区境。倒れた俺。見下ろす久世。そこまではあいつが見たものの話だった。殺される、のところだけ、何を見てそう言ったのかをあいつは話していない。訊く前に、あいつは店に鍵をかけた。
「言ってやれよ」
陸が言った。
「今から戻って、本人に。あんたが当ててるんじゃない、あんたが起こしてるのかもしれないって。そしたら、あいつだって、何か――」
「言わない」
「なんで」
陸の声が大きくなった。通りの向こうで犬を散歩させていた男がこちらを振り返った。
俺は朝の真柴を思い出していた。黒いセーターの上に何も羽織らず、自分の体を抱えて立っていた男。色のない唇。何日分も沈んだ隈。眠るのを怖がっているように見えた。
「言えば、あいつは二度と眠れなくなる」
一年分の事故が全部、自分のしたことになる。姪の膝も、父親の足も、八百屋の看板も。それを知って、それでも眠れる人間は多くない。俺には眠気が来ない。眠れないことが今のところは苦にならない。あいつはそうではない。
陸は口を開きかけて閉じた。少しだけ肩から力が抜けたのが分かった。
「……それは、まあ、分かるけど」
「それに」
言わなくてもいいことだった。言わなければ、陸は今のまま納得しただろう。それでも口から出ていた。
「使えるかもしれない」
陸の顔から表情が消えた。
「……は?」
「あいつが起こすなら、区境のどこかで、三日以内に、久世が俺の前に来る。いつ来るか分からない相手が、来ると決まった。場所の見当もつく。区境だ」
俺は自分の右手を見た。白くない、ただの指だった。
「待ち伏せされるより、待ち伏せするほうがいい」
「待てよ」
陸が一歩詰めてきた。
「朝、あいつの隣に座ってたとき、触ろうかと思ったんだよ。袖でもいいから。一分で夢がどこまで見えるかは分かんないけどさ。でもやめた。あんな顔してるやつの一分なんか、勝手に見たくなかった。……あんたのは読んだくせにな。分かってるよ」
俺は何も言わなかった。言うつもりだったことを、先に言われた。
「なのにあんたは、あいつの怖がってる夢を勝手に当てにするっていうんだろ。あいつ、今も一人で、店に鍵かけて震えてんだぞ。自分のせいで人が死ぬかもって。それを、本人に何も言わないで、相談もしないで、利用すんのかよ」
「そうだ」
言えば、あいつは自分の夢を口にすることさえ怖がるだろう。殺されると読んだ根拠も、夢の細かいところも、俺はまだ聞き出していない。聞き出す前に門の内側へ戻られたら、手がかりはそこで切れる。俺が欲しいのは、あいつの夢の続きだった。あいつの気持ちを軽くすることではなかった。
陸は何か言おうとした。言葉が見つからないようだった。拳を握って、ほどいて、また握った。
「……あんた、そういうやつだったのかよ」
俺は答えなかった。
そういうやつだったのかどうか、自分でも分からなかった。一年前の俺なら、たぶんこうは言わなかった。だが一年前の俺は、王の前に立つ方法を一つも持っていなかった。
今は持っている。使えるものは全部使う。そうしなければ、澪には届かない。
*
区境は昨日と同じ場所にあった。
電柱の根元の境界鋲。アスファルトの継ぎ目。舗装の色の違い。向こうが豊島で、こちらが中野。
陸は少し離れたところで立ち止まっていた。ついてくるのをやめたわけではない。ただ、今は隣に並びたくないのだろう。
俺は線の手前に立って、斜めに走る継ぎ目を見下ろした。
久世が来るとしても、今の俺では勝てない。
借りた力が何分もつのか知らない。二つ同時に持てるのかも、電車で越えたら本当に何も来ないのかも、知らない。分かっているのは、一度触れて一度らしいということだけだ。知らないまま王の前に立てば、一周忌の朝と同じことになる。
確かめるには、俺一人では足りない。線を踏む俺とは別に、時計を見ている目がいる。俺がそのとき何を感じたのかを、あとから読み取れる手もいる。
明日、確かめる。線を、片端から踏んで。
「……明日も来るからな」
背中のほうで陸が言った。振り返ると、陸は目を逸らした。
「あんたのやり方は、気に入らない。でも、あんたが死んだら俺の用心棒がいなくなる。懸賞金つきの野良が一人で歩けると思うかよ。用心棒がどこまで使えるのか、俺だって知っときたい。……それに、あいつの夢があんたの死ぬとこで終わるの、なんか嫌だ」
真柴の夢の中で俺はこういう線の上に倒れていた。
それが三日以内に起きるのかどうか、確かめるすべはない。だから起きるものとして動く。どの線の上で倒れるのかは、こちらが選ぶ。
その先がどうなるのかを、あいつはまだ話していない。
三日。俺に残された時間か、久世に残された時間か。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




