第4章 越境の法①
十月七日。期限まで、あと二日。
朝の七時に、昨日の夕方と同じ区境に立っていた。同じ電柱。同じ境界鋲。継ぎ目の両側で舗装の色がわずかに違う。
陸は七時を十五分過ぎて来た。片手にコンビニの袋、もう片方の手に炭酸飲料のペットボトル。新しいスニーカーを履いていて、歩き方が少しおかしかった。
「遅れた。靴擦れした。昨日あんたに付き合って歩きすぎたから新しいの買ったら、これがまた合わなくて」
陸はそう言ってから、ペットボトルを半分ほど一気に飲んだ。
昨日の夕方のことは、どちらも口にしなかった。陸は来た。それで十分だった。
「で、何すんの」
「線の規則を確かめる」
俺は手帳を開いた。夜のうちにファミレスの窓際で書いたページだ。頭の中の文章は、たった一行しかない。
区境を越えた直後、直前に滞在していた区王の能力の複製を、一時的に使用できる。
「『滞在』は何で決まる。『一時的』は何分だ。二つの区の力を同時に持てるのか。電車で越えたらどうなる」
「……あんた、それ全部今日やる気?」
「明後日までに、全部要る」
陸は少し黙ってからスマートフォンを出し、ストップウォッチの画面を開いた。
「じゃあ時間は俺が計る。あんた、数字見てないと自分の感覚だけで決めそうだし」
その言い方は昨日までと同じだった。そう思うことにした。
始める前に、一つだけ言っておくことがあった。
「俺の力で消したものが、あとで戻るかどうかは分からない。久世に消された俺の痛みは、まだ戻っていない」
陸は少し黙った。
「……じゃあ、消えて困らないもんからやろうぜ。しゃっくりとか、戻ってこないほうがいいだろ」
線を越えて両足で豊島に立ち、それから中野へ戻る。手のひらに温度が満ちて、指先へ集まっていく。一周忌の朝に知った、久世の力の手触りだ。
「来た」
「はい、ゼロ」
陸の親指が画面を叩いた。その直後、陸の喉がひっくと鳴った。炭酸を一気に飲んだせいだろう。俺と陸は顔を見合わせた。
「……ちょうどいいだろ」
「ちょうどよくねえよ」
三分待った。しゃっくりはそのあいだに七回出た。陸は口を手で押さえながら、恨めしそうに画面を見ていた。
「三分」
陸の手首の素肌に触れる。指先に糸の端がいくつも触れる。どれが何かは分からない。だから、今目の前で起きているものを思い浮かべた。喉のひっかかり。
外れろ。
人差し指が根元から白くなった。陸は口を開けたまま待ち、しばらくして首を傾げた。
「……止まった」
手帳に書く。三分、可。
そこから先は時間を延ばして同じことを繰り返した。試すたびに線を越え直し、陸がストップウォッチを押し直す。
七分は陸の靴擦れで試した。消すのはその靴擦れの痛みだけだ、と言うと、陸は少し考えてから「この靴擦れの分だけな。それ以上はなし」とうなずいた。中指が白くなった。
陸は踵に体重をかけて目を丸くした。靴擦れはそのままなのに痛くない、変な感じだ、と言った。傷はあるのに痛みだけがない。こいつが今味わっているのは、俺が一周忌の朝から抱えているのと同じものだった。
治るまで気をつけて歩け、痛まないと悪くなっても気づかない、と言うと、陸は自分の踵を見下ろして、小さく「はい」と言った。
九分は口内炎の痛みだった。前からあった口内炎に、おにぎりの米粒が当たったらしい。九分が近づくと手のひらの温度が少し薄くなった気がしたが、確かではなかった。薬指が白くなった。
白い指が三本並んだ手を、陸は黙って見ていた。
十一分は、何も起きなかった。
消すものはもう残っていなかった。陸は自分の手の甲を指して、「十一分になったら、ここつねる。そしたら消して」と言った。
八分を過ぎたあたりで、温度がまた少し薄くなった気がした。やはり確かではない。九分。十分。十分を少し過ぎたところで、今度ははっきりと手のひらから何かが抜けていった。水が引くような抜け方だった。音もなく手のひらの縁から温度がこぼれ、気づいたときにはただの自分の手に戻っていた。
「――今、消えた」
「今?」
陸が画面を見た。十分二十秒。
「今って、いつ。消えてから言うまでに、何秒かかった?」
答えられなかった。消えたと思ってから口にするまでのあいだが、自分でも測れない。
十一分。陸が自分の手の甲を爪で強くつねり、「いっ……てえ」と顔をしかめた。差し出された手首にすぐ触れる。外れろ。何も起きなかった。陸はまだ痛いと言った。指は白くならなかった。
「……境目、どこだよ」
陸はしばらく画面とにらみ合っていた。それから、何かを決めたように俺を見た。
「もう一回やろう。今度は、越えた瞬間と消えた瞬間を両方押さえる。越えるところは俺が動画で撮る。動画には時刻が残るから。あんたは自分のスマホの時計を、秒まで出して見てて。消えたと思ったら、すぐ俺があんたに触って直前の一分を読む。消えたとき時計が何秒だったか、あんたの目に映ってるはずだから」
「一日に三回だったな」
「今日はまだ一回も使ってない。一昨日、鍵谷に一回使ったきり。三回もあるんだぞ。けちる理由がない」
俺は自分のスマートフォンに秒まで出る時計を表示させ、目の前に掲げた。陸がもう一台を俺の足元に向ける。そのまま線を越えて、戻る。温度が来る。俺は時計だけを見続けた。
八時十九分十秒。二十秒。三十秒。
温度がこぼれた。
「今だ」
陸の指が俺の手首の内側に触れた。頭の中を指でめくられたような感覚があった。路地でぶつかったときと同じだ。今度は目眩のせいにはしなかった。
陸はしばらく目を閉じていた。目を開けると撮った動画を巻き戻し、俺の足が鋲の上を越えるところで止めた。それから手帳を引き寄せ、何かを書きつけた。
「動画だと、あんたの足が線を越えたのは八時九分三十一秒。あんたの目に映ってた時計は、八時十九分三十一秒のところで『あ』って思ってる。『今だ』って言ったのは三十五秒。四秒、遅れてる」
陸は書いた字を見下ろした。
「つまり十分。越えてから、ぴったり十分で消える」
手帳に書く。最長十分。越えた瞬間から数える。
陸は手帳を俺に返してから、スマートフォンの画面をもう一度見た。眉が少しだけ寄った。
「……あれ」
「どうした」
「いや。……さっき何話してたっけ。あんたに触る前」
「十分の境目を確かめるって話だ」
「ああ、そう、それ。そうだった」
陸は笑った。寝不足の朝によくある、ちょっとした物忘れのような笑い方だった。
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