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【やり直し】王区 ~東京二十三区には二十三人の王が居る~  作者: 白川 透
第一部

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第4章 越境の法②

残りは二つだった。


一つは、いくつ持てるのか。越えて戻り、手のひらに久世の力を入れたまま、二分と経たないうちにもう一度豊島へ踏み出す。


手触りが入れ替わった。


温度は同じだった。一周忌の坂から知っている、あの懐かしい温かさ。だが指先に集まってこない。まぶたの裏が少し重くなる。一昨日、一瞬だけ感じたものだ。中野から豊島へ越えたのだから、これは中野の王の力だ。真柴の。


陸がまた自分の手の甲をつねった。「いってえ」と言いながら差し出された手首に触れる。指先には何も引っかからなかった。外れろと思っても何も起きない。陸の痛みはそのままで、指も白くならない。二分前なら外せたはずのものだった。


「……消えた?」


「入れ替わった。持てるのは一つだけだ」


「待って。じゃあ今あんたの中にあるのって、占い屋の兄ちゃんの……夢、見ちゃうの?」


「眠くならない」


「あ、そっか。じゃあ宝の持ち腐れだ」


陸は笑った。俺は笑わなかった。眠りの中でしか働かない力を、眠気の来ない体で借りている。十分のうちに眠れるとも思えない。使えないものを使えないまま手に持っている。それが少しだけ気味が悪かった。


もう一つは電車だった。


区境から三十分歩いて中野駅に着いたのは、十時を過ぎたころだった。手のひらの力はとうに時間切れで、何も残っていない。改札を通り、中央線のホームに立つ。最後に足で踏んでいる区は中野だ。


電車が動き出す。陸は地図アプリの青い点を見つめていた。


「……今、越えた。新宿」


何も来なかった。新宿駅のホームに降りても、階段を下りて改札を出ても、駅前の歩道を踏んでも、手のひらは冷たいままだった。


「来ない」


「乗り物はだめ、ってことか」


「一周忌の帰りも、電車では何も来なかった。足で越えないと、越えたことにならないらしい」


手帳に書く。電車で越えても借りられない。


その下にもう一行書きかけて、手が止まった。電車で通り過ぎただけの区は、「最後に足で踏んだ区」に数えられるのか。ここで降りて新宿を踏んでしまった以上、それは確かめられない。手帳の端に小さく書く。通過は滞在にならない、たぶん。未確認。


今、最後に足で踏んでいるのは新宿だ。ホームも、改札の床も、この歩道も、新宿の地面だった。


手帳を見下ろした。朝は白紙に近かったページが、ほとんど埋まっていた。


陸が俺の右手をちらりと見た。朝に白くなった三本の指は、もう元の色に戻っていた。


「十分。それがあんたの持ち時間だ」


十分のうちに、素肌に触れて一度。離して、触れ直してもう一度。久世の前でそれができるかどうかだ。


新宿の王の顔を一度見ておけ、と言い出したのは陸だった。区境の実験を続けるなら、いずれ新宿の線も踏む。そのとき手に来るのがどんな力なのか、知らないまま借りるわけにはいかない。それに陸は、野良を狩っているという王の配信を前から気にしていた。懸賞金をかけているのは東の王だという噂だが、狩りを見世物にしているのは新宿の王だ。


新宿駅の周りを歩いて区境の鋲をいくつか探し、駅の地下で昼をすませてから東口へ出た。二時を過ぎたころだった。


広場は人で埋まっていた。平日の午後にしては多すぎた。誰も歩いていない。全員が同じ方向を見上げて立ち止まっている。


駅前のビルの壁一面に大型ビジョンがあった。画面の上の帯に大きな文字が流れている。


〈本日の主役:神崎〉


その下で男が走っていた。


カメラは男の背中を斜め上から追っている。看板の文字に見覚えがあった。歌舞伎町の奥。この広場から歩いて十分もかからない場所だ。


追われているのは作業ズボンの若い男だった。片方の靴が脱げていて、靴下のままアスファルトを蹴っている。何度も振り返る。その顔が画面いっぱいに映った。


追っている男は画面の端から現れた。


白いスーツだった。襟元を大きく開けて、首から金の鎖を下げている。走っているようには見えなかった。歩いているように見えた。それなのに、靴下の男との距離が一歩ごとに縮んでいく。


広場がどっと沸いた。


「出た出た出た」


「今日の野良、足速いじゃん」


「でも無理でしょ、神崎さんだよ」


画面の右側に文字が滝のように流れていた。〈かっけえ〉〈今日もキレてる〉〈野良ざまあ〉〈あと何分?〉。そのあいだに金額のついた文字が挟まる。〈¥5,000〉〈¥10,000〉。色のついた枠に囲まれて、ひときわ大きく表示される名前があった。


〈SUMERAGI¥500,000〉


「またSUMERAGIだ」


「毎回いるよな、こいつ」


陸が俺の隣で小さく言った。


「あれ、毎回いるんだよ。いつもいちばんでかい額。誰も正体を知らない」


画面の中で白いスーツが靴下の男の襟を掴んだ。男の体が紙のように宙に浮き、そのままビルの壁に叩きつけられる。カメラが寄る。男は壁を背にずり落ち、それでも這って逃げようとした。


広場がまた沸いた。


俺の右手はいつのまにか握りこまれていた。


隣の女子大生らしい二人連れが、スマートフォンで大型ビジョンを撮っていた。その手前で、スーツ姿の男が缶コーヒーを飲みながら画面を見上げている。会社の昼休みの延長のような顔だった。ベビーカーを押した母親が、子どもに画面を指差して見せていた。


「ほら、王様」


子どもはきゃっきゃと手を叩いた。


誰も目を逸らさなかった。誰もおかしいと言わなかった。王が人を追い詰めている。それを昼の広場で何百人もが見上げている。


一周忌の坂で通勤の人たちは誰も悲鳴を上げなかった。誰かが小さく「王様だ」と言って、それで全部説明がついた。


ここでは、説明すらいらなかった。


「……見てられないなら、行こうぜ」


陸が俺の袖を引いた。陸の顔も白かった。


「あの野良、知ってるのか」


「知らない。でも、懸賞金のサイトに載ってた顔だと思う」


陸はスマートフォンで同じ配信を開いた。大型ビジョンと陸の手の中の小さな画面が、同じ男を映していた。


「逃げきれよ。……頼むから」


陸の声は画面には届かない。


俺の手も届かない。歌舞伎町まで走っても間に合わない。間に合ったところで、今の俺の手の中には借りている力が何もない。それが分かっていてここで見上げ続けるのは、広場の連中と同じことだった。


俺は画面に背を向けた。靴下の男の顔は、背中の側に置いてきた。


*


中野へは歩いて戻ることにした。電車には乗らなかった。足で越えなければ意味がない。今日一日で、それは体に染みこんでいた。


青梅街道を西へ歩く。陸は歩きながらずっと画面を見ていた。ときどき小さく息を呑み、ときどき小さく息を吐く。配信は終わらなかった。靴下の男はまだ逃げていた。逃げきれてはいなかった。神崎がわざと逃がしているように見えた。


「遊んでやがる」


陸が吐き捨てるように言った。


画面の端の数字が目に入った。同時接続数。十万を超えていた。数字が増えるたびに、白いスーツが少しずつ速くなっていく気がした。


区境は街道をまたぐ歩道橋の上にあった。階段を上がると、橋の真ん中あたりの床に金属の鋲が打ちこまれていた。新宿と中野。足元の線は橋の上でも変わらない。車が下を絶え間なく流れていた。


俺は線の手前で足を止めた。


電車で新宿へ入ってから、一度も線を越えていない。最後に足で踏んだ区は新宿だ。この線を越えれば新宿の王の力が来る。あの白いスーツの力が。


使うつもりはなかった。ただ、知っておきたかった。王の力にどんな手触りがあるのか。


線を越える。右足が中野の側を踏み、左足が続く。


手のひらに温度が流れこんできた。懐かしい、同じ温かさだった。


だが、手触りがまるで違った。指先に集まるのでも、まぶたが重くなるのでもない。肌の表面がざわついた。たくさんの目にいっぺんに見られているような。見られれば見られるほど、それが力に変わっていくような、曖昧な手応えだった。


誰に、どう見られれば、何が起きるのか。そこまでは分からない。分からないものを、ここで試す気にはなれなかった。


「来た?」


陸が画面から顔を上げずに訊いた。


「来た」


「何に使えんの、それ」


「見られると、何かになる。それ以上は分からない」


陸はもう俺の話を聞いていなかった。画面に顔を近づけていた。


「……あ」


俺も陸の手元を覗きこんだ。


白いスーツが足をもつれさせていた。


ほんの一瞬だった。靴下の男の背中に伸ばしかけた手が空を切った。神崎は舌打ちし、体勢を立て直してまた歩き出す。だが歩き方が違っていた。一歩ごとに距離が消えていくような、さっきまでの歩き方ではない。ただの苛立った男の早足だった。


靴下の男が角を曲がった。カメラが追う。神崎が追う。追いつかない。


画面の右側の文字の流れが乱れた。〈どうした〉〈神崎さん?〉〈調子悪い?〉〈ラグ?〉。


「……今、あいつ遅くなかったか?」


陸が言った。


「偶然だろ」


俺はそう答えて手のひらを見た。肌のざわつきがまだそこにある。何に使えるのか分からない力を、何もしないまま持っている。俺がしているのは、それだけだった。


陸は何か言いたそうに一度だけ俺の顔を見て、それから画面に目を戻した。


画面の中で靴下の男が地下道の入口に飛びこんだ。階段を転げるように下りていく。カメラを持った取り巻きが階段の上で足を止めた。人波が地下道から溢れ出してきて、カメラの視界を塞いだ。


神崎が階段の上に着いた。下を覗きこみ、それからカメラのほうを振り返った。


笑っていた。口元だけで。目は少しも笑っていなかった。


「――今日は、ここまで」


神崎はカメラに向かって言った。


「逃げ足の速い野良に、拍手。次は、もっと面白いの用意しとくよ」


配信はすぐには切れなかった。神崎は画面の外の誰かに短く何か吐き捨て、それからまた口元だけで笑ってみせた。


文字の流れがまた速くなった。〈神回〉〈逃げきった!〉〈野良つえー〉〈神崎さん手加減した?〉。その中に、色のついた枠が一つだけ混じっていた。


〈SUMERAGI¥1,000,000〉


何に対する額なのか、俺には分からなかった。


俺は歩道橋の手すりから手を離し、中野の側の階段を下りた。陸は黙ってついてきた。住宅街に入ってしばらくしたころ、肌のざわつきはいつのまにか消えていた。

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