第4章 越境の法③
中野駅の北口にあるネットカフェの三階だった。
フラット席の二人用ブース。靴を脱いで上がると、足の裏に合成皮革のマットがひんやりと張りついた。壁の向こうから誰かのいびきが聞こえている。
俺がここにいる理由は簡単だった。眠れない。豊島へ帰っても、朝にはまた中野へ歩いて来る。それなら初めからここにいたほうがいい。
陸がここにいる理由は本人が言わなかった。「家、親うるさいんだよね」とだけ言って、勝手に二人用のブースを取った。昼間の配信を見たあとで、一人で家に帰りたくないのだろう。懸賞金のサイトに自分の顔が載っているのだから。
夜の十時を過ぎても、陸はモニターの前にいた。画面にはいくつもの配信の一覧が並んでいる。縮小された画像のどれにも白いスーツが映っていた。ここまで開いたどれの題名にも、同じ文字があった。
〈本日の主役:神崎〉
「……遅くなったこと、前にもあったのかなってさ」
陸は画面から目を離さずに言った。
「もし前にもあったなら、弱点だろ。弱点があるなら知っておきたいじゃん。俺、懸賞金かかってるし」
歩道橋の上での陸の問いを、俺は「偶然だろ」で流したままだ。陸もそれ以上は訊いてこなかった。そのかわりに、一年分の配信を古いほうから順に開き始めた。
倍速で流しながら、ときどき止めてメモアプリに何かを打ちこむ。日付。題名。同時接続数。追われた野良のだいたいの特徴。陸のメモは俺の手帳よりもずっと細かかった。
「考察が好きなんだよ。映画とか、細かいとこが気になると一晩中見返しちゃうやつ」
陸はそう言って、少し照れたように笑った。
「でさ。分かったことが一つ。神崎は、人が増えるほど強くなる」
陸は二つの配信を並べて再生した。左は半年前の配信で、同時接続数は三万。白いスーツは速かったが、まだ人間の速さだった。右は先月の配信で、同時接続数は十二万。白いスーツは、今日大型ビジョンで見たのと同じように、歩いているのに距離が消えていく。
「同じ配信の中でもそうなんだよ。人が集まってくると、だんだん速くなる。配信が切れたあと、通行人が撮った動画だと、普通の男の歩き方に戻ってる。見られてると強い。見られてないと、普通。……だから配信するんだな、あいつ」
「今日のは」
「……それがさ、合わないんだよな」
陸は今日の配信のアーカイブを開いた。画面の端の数字は十四万。少しも減っていない。それなのに白いスーツは足をもつれさせ、ただの苛立った男の早足になっていた。
「見てる人は減ってない。むしろ増えてる。なのに、途中からしばらく、遅い。……前にもあったか探してるけど、今のところない。人がいるのに遅くなった回は、一つも」
俺は右手を膝の上に置いたままにしていた。
手帳を開いて、明日やることを書く。朝一番で真柴に会う。昨日訊きそびれたことを訊く。夢の中で俺はどんな風に倒れていたのか。久世はどんな風に見下ろしていたのか。「殺される」と、あいつは何を見て言ったのか。
地図アプリで、豊島の周りの線を一本ずつ辿る。文京、新宿、中野、練馬、板橋、北。久世が来るなら、そのどれかの上だ。どれかは分からない。分からないなら、こちらで選ぶしかない。
指が一本の線の上で止まった。豊島と文京のあいだ。斜めに坂を下りていく線。
澪がいなくなった線だった。
日付が変わり、十月八日になった。真柴の夢の、三日目だ。
「……なあ」
陸の声がした。さっきまでと少し違う声だった。陸は一つの配信を止めたまま、画面を見つめていた。
半年前の日付だった。縮小画像には、白いスーツと、上半身裸の大柄な男が映っている。男の拳にはテープが巻かれていた。
題名が違った。
〈本日の主役:挑戦者犬飼〉
「これだけ、主役が神崎じゃないんだよ」
陸は再生を押した。
元ボクサーの野良だ、と実況の声が紹介していた。懸賞金のかかった野良が神崎と殴り合い、勝てば懸賞金を取り消す。そういう興行だったらしい。男は自分から名乗り出たのだと、実況が笑いながら言った。
最初の数分は予想どおりだった。男は一方的に殴られ、地面に転がった。コメント欄が笑いで埋まった。
同時接続数が五万を超えたあたりだった。
男が、立ち上がった。
立ち上がり方がおかしかった。膝も手も使わずに、地面から弾かれたように立っていた。そのまま一歩踏み込んだ。画面の中の距離が消えた。神崎が後ろへ吹き飛んだ。
コメント欄が一瞬止まり、それから滝のように流れ出した。〈は?〉〈なに今の〉〈犬飼つええ〉。同時接続数が跳ね上がった。八万。十万。数字が増えるたびに、男の拳は速くなった。神崎はずっと受けていた。白いスーツが泥と血で汚れていく。
十五分ほどで配信は終わった。画面が暗転する直前、白いスーツがカメラに手を伸ばしていた。「時間切れ」という文字が、最後に一枚だけ表示された。
「で、これなんだけど」
陸は配信のあとの数日分の、匿名掲示板の書き込みを開いた。
〈犬飼、配信終わったあとその場で倒れて救急車らしい〉
〈犬飼まだ目覚まさないってよ。二日目〉
〈犬飼起きたって。三日寝てたらしい。医者は疲労だって。疲労で三日寝るってどんだけだよ〉
〈神崎、あれから挑戦者企画やってないよな〉
「主役が神崎じゃないのは、一年でこの一回だけ。で、神崎がほとんど強くなってないっぽいのも、この回。それで、挑戦者があとで倒れたのも……」
陸はそこで言葉を切った。頭の中で何かを並べようとして、並べきれないような顔だった。
「……でも、今日のとは違うんだよな。今日のは、強かった神崎が途中から遅くなった。こっちは、最初から神崎が強くなってない感じ。別の話だ。それに犬飼も野良だし。元からああいう力だったって線もある」
陸はメモアプリに、今日の日付と半年前の日付を別々の行に打ちこんだ。一つの行にはまとめなかった。
俺は画面の止まった題名を見ていた。
本日の主役。
ただの煽り文句にしか見えない。俺には何も分からなかった。ただ、分からないものをそのままにしておくのは嫌だった。手帳の端に「犬飼」とだけ書いた。
陸はもう一度頭から再生していた。男が地面から弾かれるように立ち上がるところで止める。巻き戻す。また止める。
「この回だけ、なんか変なんだよな」
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




