第5章 三日目①
十月八日。真柴の夢の三日目の朝だった。
ネットカフェを出たのは七時前だった。陸は結局、明け方に一時間だけ眠った。俺は一度も目を閉じなかった。眠気は今日も来なかった。
ブロードウェイのシャッターはまだほとんど下りていた。通路の奥から箒の音と話し声が聞こえてくる。
「今朝はねえ、空を飛ぶ夢」
「いいじゃない、それ。吉夢よ」
占い屋の引き戸は閉まっていた。張り紙はない。それでも中に灯りがついているのが、磨りガラス越しに分かった。
引き戸を叩くと、しばらくして内側から鍵の開く音がした。
真柴は一昨日の朝と同じ黒いセーターを着ていた。袖口が伸びて、指の先まで隠れている。その袖の上から、左手の指が右の手首を何度もつまんでいた。目の縁が赤い。隈はもう顔の一部のようになっていた。
「……黒瀬さん」
声に驚きはなかった。まだ俺が生きていることを確かめるような声だった。
「訊きたいことがある。夢のことだ」
真柴は少し迷ってから引き戸を大きく開けた。陸のほうを見て、何か言いかけて、やめた。今日は占いではない。だから「お一人ずつ」ではないのだろう。
畳二枚ほどの店に三人で入った。卓の上の湯呑みには茶が半分残っていて、表面に薄い膜が張っていた。真柴は椅子に座らなかった。卓の向こうに立ったまま、背中を壁につけた。
「座らないのか」
「座ると、眠ってしまうので」
真柴はそれだけ言って目を伏せた。眠れば次の誰かの夢を見る。この男はそれを避けて、二晩を立ったまま越えてきたのだろう。
俺は卓の手前に座り、陸は引き戸の脇に立った。
「思い出せる限り、細かく話してほしい」
俺は手帳を開いた。
「一昨日は、区境で俺が倒れていて、久世が見下ろしていた、と聞いた。それ以外に見えたものを全部」
「……全部、ですか」
「一つずつでいい。俺が訊く」
真柴は壁にもたれたまま目を閉じた。夢は目覚めても消えない、とあの文章には書いてあった。この男は二晩、それを抱えたまま朝を迎えている。
「まず、場所だ。区境だと言った。どんな場所だった」
「坂でした」
目を閉じたまま真柴が言った。
「アスファルトの坂です。わりと急な。両側に、古い塀と、新しいマンションが見えました。坂の途中に、横断歩道があって」
「線は」
「斜めに、坂を下りていました。道の真ん中を、斜めに。……地面に、金属の小さな板が埋めこまれていたと思います。字が書いてあったけれど、読めませんでした」
手帳の上でペンが止まった。
坂を斜めに下りていく線。道に埋めこまれた金属のプレート。途中の横断歩道。
俺はその坂を知っていた。一年間、毎朝のように通い、一周忌の朝に花を置いた坂だ。
「……豊島と、文京だ」
声に出したのは自分に聞かせるためだった。
真柴が目を開けた。俺の顔を見て、何かを悟ったようにまた目を閉じた。
「次。俺は、どう倒れていた」
「仰向けでした。頭が坂の上のほうで……いえ、下のほうだったかもしれません。ごめんなさい、そこは」
「いい。目は」
「目?」
「開いていたか、閉じていたか」
真柴の眉がわずかに寄った。夢の中を指でたどるような顔だった。
「……開いていました。見上げていた。久世さんを」
「血は」
「見ていません。……見えなかった、のだと思います。暗くはなかったのに」
手帳に書く。仰向け。目は開いている。血は見えない。
「久世は、どこに立っていた」
「黒瀬さんの、すぐそばです。少し坂の上側。黒瀬さんをまたぐように、というほどではなくて、足のあたりに」
「手は」
袖の上で手首をつまんでいた真柴の指が、ぴくりと止まった。
「……伸びていました。右手が。黒瀬さんのほうへ」
「届いていたか」
沈黙があった。
引き戸の脇で陸が身じろぎする気配がした。通路の向こうで箒の音が止まり、また始まった。
「届いて、いませんでした」
真柴は自分でも初めて気づいたような声で言った。
「指の先と、黒瀬さんの胸のあいだが、空いていました。手のひら一つ分くらい。……伸ばしているのに、届いていなかった。おかしいですね。どうして、そこを忘れていたんだろう」
ペンを持つ手が少しだけ重くなった。
「足元は」
「足元?」
「久世の足元だ。何でもいい」
真柴は長いあいだ黙っていた。目の奥で何かを拾い上げるような間だった。
「……砂利が」
ぽつりと言った。
「小さな石が、流れていました。久世さんの靴の下から、坂の下のほうへ。さらさらと。音はしなかったけれど、流れているのが見えました。それだけです」
「俺の手は。俺は、何をしていた」
「黒瀬さんの手は……」
真柴は首を横に振った。
「見えませんでした。久世さんの影になっていて」
手帳に書く。右手、届いていない。手のひら一つ分。足元、砂利が坂の下へ流れる。俺の手、見えない。
最後にもう一つだけ訊いた。
「真柴さん。あんたは、俺が死ぬところを見たのか」
真柴の顔がこわばった。
「……見て、いません」
「なら、どうして殺されると言った」
「だって」
真柴の声が初めて揺れた。
「久世さんが、あなたを見下ろしていたんです。倒れたあなたを。手を伸ばして。……それ以外に、何があるんですか。あの人に倒されて、見下ろされて、それで生きている人を、僕は知りません」
この街の誰に訊いても、同じ答えが返ってくるだろう。一周忌の朝、俺もあの坂で、似た構図のまま殺されかけた。
それでも、夢の中に俺の死はなかった。
あったのは、届いていない手と、流れていく砂利だけだった。
「……逃げてください」
店を出ようとしたとき、真柴が言った。
「遠くへ。今日中に、どこか、坂のないところへ。避けられないかもしれない。でも、何もしないよりは」
俺は振り返った。
真柴は壁から背中を離していた。黒いセーターの袖から出た指が、卓の縁を強く掴んでいる。爪の先が白かった。
この男に言えることはあった。
あんたの夢に俺の死はない。あんたは見たものを、いちばん怖いほうへ読んでいるだけだ。だから今夜は眠っていい。
言えば、この男の顔に少しだけ色が戻るかもしれない。
言わなかった。
問いの形でなら、もう伝えている。死ぬところは見ていない、と真柴は自分で言った。それでも真柴は、殺される、という読みを手放していない。久世への怖れが、それを許さないのだろう。手放させるには、俺の口から言い切るしかない。届いていないあの手が、俺に残された隙間だということを。
言い切れば、この男は次に、俺がその隙間をどう使うつもりなのかを考えるだろう。夢の坂へ、今夜にでも自分から行こうとしていることに、いずれ気づく。気づけば、きっと止めようとする。警察か、誰かに知らせるかもしれない。どれも起きると決まったことではない。それでも、止められるわけにはいかなかった。
この男を安心させる言葉より、自分の段取りのほうを選んだ。言わなかった理由は、結局それだけだった。
「考えておく」
それだけ言って引き戸を閉めた。
通路に出て十歩も行かないうちに、陸が俺の前に回りこんだ。
「なあ」
低い声だった。一昨日の夕方、区境で聞いた声と同じだった。
「今の、聞いたよな。手は届いてない。血も見てない。死ぬとこも見てない。……あんたが死ぬなんて、どこにも出てこないじゃないか」
俺は答えなかった。
「一昨日のは、まだ分かったよ。あいつが起こしてるかもしれないって話をあいつに言えば、あいつは二度と眠れなくなる。それは分かった。夢の続きを聞き出したかったのも、分かる。でも、もう聞いただろ。全部。……今のは違うだろ」
陸の声が少しだけ大きくなった。通路の向こうで、シャッターを上げかけた店主がこちらを見た。
「あんたが死なないかもしれないって言ってやれば、あいつは助かるんだぞ。それだけで。起こしてるかどうかなんて話、しなくていい。夢の中身をそのまま返すだけでいいんだよ。あんた、助ける方法を持ってて、黙ってるんだぞ」
陸は俺の目をまっすぐ見ていた。
「あいつ、今夜も眠れないぞ」
それにも答えなかった。
答えるかわりに手帳を閉じた。死ぬところは、見ていない。真柴は自分でそう言った。
陸はしばらく俺の前に立っていた。それから、何も言わずに道を空けた。
ブロードウェイを抜けると、朝の光がアーケードの床に斜めに差していた。商店街のどこかで、誰かがまた夢の話をしている。
俺は自分の右手を見下ろした。真柴の夢の中で、久世の手は俺の胸の上で止まっていた。手のひら一つ分の隙間を残して。
届いていない。
陸とは中野駅の前で別れた。
「ちょっと、頭冷やす」
陸はそれだけ言って、北口のほうへ歩いていった。振り返らなかった。俺も呼び止めなかった。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




