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【やり直し】王区 ~東京二十三区には二十三人の王が居る~  作者: 白川 透
第一部

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第5章 三日目②

豊島の部屋へ戻ることにした。


理由は一つあった。仕事用の鞄だ。一周忌の朝から、部屋の隅に口を開けたまま置いてある。中に測量の道具が入っている。巻尺。下げ振り。赤と白に塗り分けられた境界杭。


あの坂に立つのは今夜になるかもしれない。手ぶらでは行けない。何を持っていけば足りるのかは分からなかった。分からないから、使い慣れたものを持っていきたかった。


中野から豊島へは歩いて越えた。区境で手のひらに温度が来た。まぶたが重くなる、真柴の手触りだった。使い道はない。十分もすれば消えた。それでも、線を越えるたびに何かが来ることに、体はもう慣れはじめていた。


*


部屋の近くの通りに、工事中のビルがあった。


七階建てくらいの骨組みに、灰色のシートがかけられている。外側には鉄パイプの足場が組まれ、ところどころで板が渡されていた。入口の仮囲いに施工会社の看板が貼ってある。〈工事中断のお知らせ〉。日付は半年前だった。


この一年、何度も前を通った。足場の板が風で鳴るのを、夜中に聞いたこともある。


その足場の下に男が立っていた。


黒いコートだった。


足が止まった。止まったのはほんの一瞬だった。それでも、その一瞬で十分だった。男がこちらを向いた。


久世冬真はまるでずっとそこにいたような顔をしていた。待っていたのか、たまたま通りかかったのか、分からない。分からないことが何より怖かった。


ここは豊島だ。


頭の中でそれだけがはっきりしていた。


ここは豊島で、俺の手の中にはもう何もない。中野から越えたときの真柴の手触りは、とうに消えている。久世の力を借りるには豊島を出なければならない。いちばん近い区境まで、歩いて十五分。走っても五分はかかる。


久世の足が地面を蹴った。


俺は背を向けて走った。


まっすぐ走れば追いつかれる。一周忌の朝、坂で思い知らされた。あの男は止まらない。止まらない相手から、まっすぐ逃げても意味がない。


仮囲いの切れ目が見えた。鉄板と鉄板のあいだに、人ひとりが横向きに通れるほどの隙間がある。考える前に体をねじこんでいた。コートの肩が鉄板の縁に引っかかって裂けた。


中は静かだった。剥き出しのコンクリートの床に砂埃が積もっている。積まれたままの資材。錆びた一輪車。シートの隙間から細い光が何本も差しこんでいた。


背後で鉄板が鳴った。


振り返ると、久世が隙間を通り抜けてくるところだった。横向きにもならず、肩で鉄板を押し広げている。鉄板が悲鳴のような音を立てて歪んだ。


俺は足場の階段を駆け上がった。


鉄パイプの手すり。踏み板の継ぎ目。二階。三階。踏み板が一段ごとにたわんで鳴る。長いあいだ誰も上っていないように見えた。固定の金具がいくつか外れているのが見えた。


四階まで上がったところで、踏み板の先が途切れていた。


板が一枚抜け落ちている。その先にもう一枚、斜めに傾いだ板がかろうじて引っかかっていた。下を見ると、三階の踏み板が薄暗い中にぼんやり浮かんでいる。


足音が階段を上がってくる。速さは少しも落ちていなかった。


俺は傾いだ板の手前で振り返った。


久世が四階の踏み板に足をかけた。


足場全体がぎしりと鳴った。踏み板の下で金具が擦れる音がした。どこかでボルトが一つ、乾いた音を立てて床へ落ちていった。


ここで止まれば、この男にも分かるはずだ。この足場は二人分の重さを支えきれない。


久世は止まらなかった。


一歩ごとに足場が揺れた。揺れているのに歩幅が変わらない。足元を確かめもしない。一周忌の朝、坂で俺に向かってきたときと同じ歩き方だった。


止まれる場所で、止まらない。


この男はそういうふうにできているのだと思った。


逃げ場はなかった。背後には傾いだ板と、その下の暗がりしかない。前からは久世が来る。


喉の奥がひきつれていた。心臓が肋骨の内側を叩いている。膝が自分の膝ではないように震えていた。痛みは来ないのに、怖さだけはちゃんとそこにあった。


死ぬ。


ここで、この男に触れられて、何かを外されて、突き落とされて、死ぬ。


真柴の夢は坂の上だった。ここではない。そう思おうとした。だが、夢に見なかったことが起きないとは、誰も言っていない。


久世の手が伸びた。


素手だった。俺は腕で払おうとした。払えなかった。冷たい指が俺の首筋に触れた。襟の内側、素肌の上に、まっすぐ。


指先が何かを探るように、ほんの一瞬だけ止まった。


それから、抜けた。


喉の奥のひきつれが消えた。


心臓はまだ速く打っている。膝もまだ少し震えている。それなのに、その震えがどこにもつながっていなかった。体が何かに備えているのは分かる。何に備えているのかが分からない。


俺は自分の首から離れていく久世の手を見ていた。人差し指が根元から白くなっていく。


一本だった。触れられたのは一度。白くなった指も一本。


今、分かる変化は一つだった。


久世は俺の顔を見ていた。決めたことを決めたとおりにやる人間の目で。次の手がもう俺の肩へ向かって動き出していた。突き落とすつもりなのだと分かった。


分かったのに、少しも怖くなかった。


俺は一歩前に出た。


久世のほうへ。


逃げなければならない、と頭は言っていた。ここで死ねば、澪のことは何も分からなくなる。それは分かっていた。背後は落ちるだけだ。逃げ道があるとすれば、あの男の脇の、まだ板の残っている側しかない。そこまで考える頭は動いている。それなのに、急ぐ気持ちがどこからも湧いてこなかった。背後の暗がりも、目の前の男も、四階の高さも、足場の軋みも、首筋に残る冷たさも、全部ただの事実として並んでいるだけだった。いつもの俺なら、あの男のほうへ踏み出す一歩は出なかっただろう。


もう一歩、前に出た。


久世の足が止まった。


ほんの一瞬だった。揺れる踏み板の上で、久世は膝をわずかに折り、重心を落として、その場に踏みとどまっていた。肩へ伸びかけていた手も宙で止まっている。止まらない男が、止まっていた。目の奥で何かがわずかに揺れたのが見えた。怒りでも、憎しみでもない。初めて見る種類の揺れだった。


坂を駆け下りてくる王の前で、人は割れる。逃げる。悲鳴も上げずに道を空ける。自分のほうへ歩いてくる人間を、この男は知らないのかもしれない。


久世の唇が動いた。


「――止まらない」


俺に向けた言葉ではなかった。自分に言い聞かせる声だった。


久世は踏みこんだ。止まった一瞬を取り返すように、さっきよりも深く。四階の踏み板に全部の体重を乗せて。


足場が悲鳴を上げた。


久世の足元の踏み板が金具ごと外れた。板が傾き、久世の体が斜めに落ちていく。伸ばされた手が俺の胸の前を通り過ぎた。届かなかった。


俺の足元も傾いでいた。踏み板の端が持ち上がり、反対の端が建物の側へ落ちていく。俺は傾いた板の上を背中から滑った。鉄パイプの手すりに左肩がぶつかり、腕が跳ね上がり、それでも止まらずに骨組みの内側、三階のコンクリートの床へ転がりこんだ。


息が肺から押し出された。痛みはなかった。


建物の外側で足場が崩れ続けていた。鉄パイプが外れ、板が落ち、砂埃が細い光の筋の中で渦を巻く。外れたパイプと板が三階の床の縁に斜めに折り重なって、格子のように塞がっていった。


その向こう側、骨組みの反対の端で、何か重いものが落ちる音がした。


崩れた資材の向こうで、金属のこすれる音がした。格子の板が一枚、内側へ向かってずれる。動かしている者がいる。久世だろう。あの男は止まらない。


だが、格子のどこかがずれるたびに、上からまた別の板がずり落ちてきた。足場全体がまだ崩れ続けている。俺と久世のあいだの格子は、崩れるたびに厚くなっていった。


反対側を見た。三階の床の奥、骨組みの内側に、下の階へ降りる仮設の梯子が残っていた。


左手で手すりを掴もうとして、腕が肩の高さまで上がらないことに気づいた。痛みはない。ただ、上がらない。右手だけで梯子を掴み、半分滑るように下りた。


一階まで下り、隣の建物との隙間を抜けて裏通りへ出た。背後で足場がもう一度、大きな音を立てて崩れた。


振り返らなかった。角を二つ曲がってから、ようやく足を止めた。


追ってくる足音はなかった。崩れた足場の中であの男がまだ資材をどけているのか、もう別の道へ回ったのか、分からない。分からないまま、俺は電柱の陰に立っていた。


コートの肩が裂けていた。背中のどこかが濡れていた。右手で触ると指が赤かった。痛みはない。それはもう知っている。左腕は肩より上へは上がらないままだった。


膝はもう震えていなかった。


さっきまで、あれほど震えていたのに。四階の踏み板の上で喉がひきつれて、心臓が肋骨を叩いて、死ぬと思った。そのことは思い出せる。だが、あのときの怖さはもうどこにもない。写真で見た他人の顔のように、遠い。


抜けたのは、死への恐怖だった。


俺は指を折って数えた。


痛み。眠気。死ぬのが怖いということ。


分かっているのは、三つだ。


三つに共通するものがあるとすれば、何だろう。考えて、心当たりに行き着いた。澪がいなくなってから、眠れない夜を眠ろうともせずにやり過ごしてきた。体の不調は放っておいた。久世の屋敷の門の前にも、何度も立った。追い返されるだけでは済まない相手かもしれないと分かっていて、行くのをやめなかった。死にたいと思ったことはない。ただ、自分の体や命を惜しむ理由も、この一年は見つけられなかった。


どうでもいいと思っていたものから抜かれていくのかもしれない。たぶん、だ。確かめる方法はまだない。


あの男の力を借りたとき、指先に触れた糸の端を思い出した。つまめば外れるもの。外れそうになっているもの。俺の中でいちばん外れそうになっていたのは、たぶん、俺が自分でもう要らないと思っていたものだ。


あの男は四階の足場の上で、一度だけ止まった。止まって、それから止まらないと自分に言い聞かせて、崩れると分かっている板の上に踏みこんだ。


俺は止まらなかった。頭は止まれと言っていた。止まるべき場面で足を止めさせるはずの怖さが、来なかった。


どちらがまともなのか、分からなかった。


背中の濡れた場所にもう一度触れた。指先には、ぬるりとした血の感触だけがあった。痛みは来ない。死ぬことへの怖さも来ない。


死ぬのは怖くない。それでも、怖くない自分が危ういことだけは分かる。分かるのに、それを急いで直そうとする気持ちも湧いてこない。


怖くなかった。それが、いちばん怖かった。


右手でスマートフォンを出した。


画面の血を袖で拭い、履歴のいちばん上にある名前を押す。ここを離れるべきなのは分かっている。あの男がどの道へ回ったのかも分からない。分かっていても、急ぐ気になれない。四階の上で、俺は自分からあの男へ一歩出た。次に同じ場面が来たら、俺はたぶんまた出る。その判断を、もう自分だけでは信用できなかった。


呼び出し音が五回鳴った。


「……何」


陸の声は朝と同じ低さだった。


「久世に会った」


電話の向こうが静かになった。


「部屋の近くの工事現場だ。足場が崩れて、離れた。今は裏通りにいる。左腕が上がらない。背中が切れてる。痛みはない」


「……触られたのか」


「首に。一度。指は一本白くなった」


「何、取られた」


答えようとして、一瞬言葉を選んだ。選ぶ必要はなかった。


「死ぬのが、怖くなくなった」


陸は何も言わなかった。息を吸う音だけが聞こえた。


「ここを離れなきゃいけないのは分かってる。どっちへ行けばいいかも分かる。でも、急ぐ気にならない。足場の上で、あいつのほうへ自分から一歩出た。次もたぶん出る。……だから電話した。俺がおかしなことを始めたら、止めてくれ」


「どこ」


陸の声が変わっていた。朝の低さとは別の、短い声だった。


通りの名前と、目の前の自販機の色を伝えた。


「そこにいろ。……って言って、聞くのか、今のあんた」


「聞く。決めたことなら、まだ守れる」


「……なら、そこにいろ。くそ」


電話の向こうで物音がした。靴を履く音かもしれなかった。


「なあ。あいつの力の文章、あんた知ってる?頭の中にあるやつ」


「知らない。触られると何かが抜ける。白い指が一本ずつ増える。それしか知らない」


「俺も知らない。でも、あいつ、王になってすぐの会見で、自分の力の説明を全部読み上げたことがあるって聞いたことある。録画、どっかに残ってるはずだ。探しながら行く」


「怒ってるんじゃなかったのか」


「怒ってるよ」


陸は即座に言った。


「怒ってる。でも、死ぬのが怖くないやつを一人で道に立たせとくほうが、もっと嫌だ。……切るなよ。着くまで、切るな」


電話の向こうで、陸が走りだす音がした。

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