第6章 手放さないもの①
陸は四十分で来た。
電話はそのあいだ一度も切れなかった。電車の走る音。改札の音。陸の荒い息。ときどき「まだいるか」と訊かれ、そのたびに「いる」と答えた。それ以外はほとんど話さなかった。
自販機の前に立つ俺を見つけると、陸は走るのをやめた。最後の十メートルを歩いてきて、俺の前で止まった。手にドラッグストアの袋を提げていた。
「……背中、見せろ」
体を半分ひねった。陸が息を吸う音がした。
「病院だ」
「行けば、どうしてこうなったかを訊かれる。足場が崩れたことも、もう誰かが通報しているかもしれない。今日は、それで終わる」
「終わっていいだろ」
「今日は、まだやることがある。部屋に鞄を取りに行く。話はそれからだ」
陸の目が細くなった。
「あいつ、あんたの部屋の近くにいたんだぞ」
「だから、お前に訊いてる」
陸が黙った。
「電話で言っただろう。俺がおかしなことを始めたら止めてくれ、と。部屋へ戻るのが危ないことは分かる。分かっても、足は少しも重くならない。だから、重さの分はお前が決めてくれ」
陸はしばらく俺の顔を見ていた。それから通りの先へ目をやった。工事現場の方角だった。灰色のシートの上に、外れた鉄パイプが何本か、空へ斜めに突き出していた。サイレンはまだ聞こえない。
「……鞄って、何が入ってんの」
「仕事の道具だ」
「要るのか、それ」
「要る」
陸は長く息を吐いた。
「五分。俺が先に上がる。ドアの前に誰かいたら、そのまま引き返す。入ったら鍵とチェーン。窓は俺が見てる。……それでいいなら」
「それでいい」
*
部屋の前には誰もいなかった。
陸が先に階段を上がり、廊下の端から端まで見てから俺を手招きした。鍵を開ける。チェーンをかける。陸は靴を脱ぐ前に窓へ行き、カーテンの端を指一本ぶんだけ開けた。
部屋は三日前に出たときのままだった。机の上の湯呑み。床に積んだ図面の筒。部屋の隅で口を開けたままの仕事用の鞄。
陸はドラッグストアの袋を窓際の床にあけた。消毒液。ガーゼ。包帯。テープ。おにぎりが三つと、ペットボトルの水が二本。
「脱げ。後ろ向け。五分で巻く」
「いい。どうせ」
「どうせ痛くないから放っとく、って顔すんな」
陸の声は思ったより低かった。
黙ってシャツを脱いだ。左腕が肩より上へ上がらないので、陸が袖を引き抜いた。背中の布は乾いた血で板のように固まっていて、剥がすときに小さな音がした。
背中に冷たいものが触れた。消毒液の冷たさは分かる。濡れたガーゼが肌に貼りつく感触も分かる。痛みだけが来ない。陸が何度もガーゼを替えているのが、背中に触れる指の重さで分かった。
「……肩甲骨の下。こんくらい切れてる」
陸は自分の指を二本並べて見せた。
「縫うやつだぞ、これ」
「明日行く」
「明日って」
陸は何か言いかけてやめた。テープを千切る音だけがしばらく部屋に響いていた。
包帯の端をテープで留めてから、陸はカーテンの隙間から一度下の通りを見た。それから、巻いたばかりの包帯を見た。もう薄く赤く滲んでいた。
「……五分って言ったの、取り消す」
「出ないのか」
「その背中で外を歩き回るほうが、よっぽど危ない。外の道であいつと鉢合わせするより、出口が分かってる部屋のほうがまだましだ。俺は窓から離れない。下に誰か立ったら、話の途中でも非常階段から出る。……日が落ちるまでだ。それでいいなら」
「それでいい」
陸は窓際に座り直し、スマートフォンを横にして窓枠に立てかけた。
「電車の中で見つけた。区の公式のチャンネル。区王の会見のアーカイブが全部残ってる。いちばん古いのから見てった」
「会見なら、何本かは見た」
顔を覚えるためだった。俺の見た回では、久世はほとんど口を開かなかった。区の職員が告知を読み上げる横で、黙って立っているだけの男だった。
「最初のほうは見てないだろ。再生数、二千ちょっとしかない」
陸は画面の日付を指で叩いた。去年の十一月。澪がいなくなってひと月ほどあとだ。
「この頃は、まだ自分で喋ってたんだよ。……三分四十秒のとこから」
再生が始まった。区役所の会議室のような部屋だった。長机にマイクが一本。記者らしい人影が数えるほどしかいない。久世は長机の向こうに座っていた。今日、足場の下に立っていたのと同じ黒いコートだった。
画面の外から誰かが訊いた。
〈豊島区王として、ご自身の力について、ご説明いただけますか〉
久世は少しのあいだ黙っていた。
〈説明は、俺が考えたものじゃない〉
低い声だった。足場の上で自分に言い聞かせていた声と同じだった。
〈ある夜、頭の中に文章が来た。いちばん上に名前があった。《欠落》。そのあとを、そのまま言う〉
久世は手元の紙も見ずに言った。
触れた相手から、その者が手放せるものを一つだけ消し去る。素手で一度触れるたびに、使えるのは一度きり。消したものは、自分が死ぬまで戻らない。使うたびに指が一本白くなり、一時間で戻る。
陸が画面を止めた。
「……これ」
手帳を開き、久世の言葉を一語ずつ書き写した。書き写しながら、自分の文章が頭に来た朝のことを思い出していた。あれもこういう文章だった。誰の声でもない声で言い切る。
《欠落》。
一周忌の朝から何度も受けて、何度も借りてきた力に、ようやく名前がついた。
戻らない、というところで陸が手帳を覗きこんだ。
「この『自分が死ぬまで』の自分って、どっちだ。消されたほうか、消したほうか」
「普通に読めば、使った側だ。久世が死ぬまで、ということになる」
「じゃあ、あいつが死んだら、あんたの痛みも眠気も……」
「そう読める。確かめようはない」
陸は何か言いかけてやめた。俺もそれ以上は言わなかった。戻るかもしれないものを当てにして動くつもりはなかった。当てにすれば、あの男を殺すことが目的になる。
「続きがある」
陸がまた再生を押した。
〈手放せるもの、とは、具体的には〉
〈切り離せるものだ〉
久世は即答した。
〈痛み。眠り。声。重さ。体から切り離せるものなら、外せる。外したものは、戻らない〉
〈止める手段は、ありますか。区民がその力に〉
〈ない〉
短い沈黙があった。久世はカメラのほうを見ていた。
〈俺は、止まらない。ためらいは捨てた。踏みとどまるものも、もう持っていない。……要らないものがあるなら、俺に言え。外してやる〉
会見はそこで終わった。
「たぶん、これが元」
陸が言った。
「『いらない』って口に出すなってやつ。言ったら、あいつが外しに来る。噂の出どころ、これだと思う。書き込みも探したけど、全文を書いてるやつはいなかった。みんな噂のほうしか知らない」
手帳の新しいページに線を一本引いた。左に久世の言った文章。右に、俺がこの体で知っていることを書いていく。
「一つだけ、ってとこから」
右手を開いて見せた。
「一周忌の朝、手首を掴まれた。一度だ。白くなった指も一本だった。それで、痛みと眠気が抜けた」
「二回触られたんじゃなくて?」
「一度だ。それは見ていた」
陸は眉を寄せて俺の右手を見ていた。
「あんたが使ったときは」
「一度触れて、一度。お前の足の痺れは、触れ直さないと消えなかった」
「だよな。覚えてる。……じゃあ、『一度触れるたびに一度きり』は合ってるんだ」
「合ってる。合ってないのは、一度で消せる数のほうだ」
書く。一度の発動で二つ。白い指が数えているのは、触れて使った回数だ。外したものの数ではない。俺が借りたときに一つずつしか外れなかったのは、一つずつしか思い浮かべなかったからかもしれない。そこまでは分からない。分かるのは、久世の手が一度で二つを持っていったことだけだ。
「一つだけ、が嘘だ」
「でも、あいつ、本気で言ってるっぽいぞ。紙も見ないで」
「本人も知らないのかもしれない」
陸は止まった画面の久世を見た。
「……自分の力なのに?」
「俺も、自分の文章の意味を、まだ全部は知らない」
陸は何も言い返さなかった。
「次。手放せるもの」
久世は、切り離せるもの、と言った。体から切り離せるものなら外せる、と。
「一周忌の朝、路地の奥の門で錠前を試した。借りた力で『閉まっている』を外そうとした。外れなかった。指先に何もかからなかった」
「錠って、切り離せそうじゃん。閉まってるのを外すだけだろ」
「あいつの読み方なら、外れていい」
「でも、物だからじゃね?『触れた相手から』って書いてあるし。相手って、人のことだろ」
陸の言うとおりだった。錠の一件だけでは、どちらとも言えない。
書く。錠、外れず。物だからか、別の理由か、不明。
「なら、人のほうだ」
指を折った。
「痛み。眠気。死ぬのが怖いってこと。俺から抜けた三つだ」
「……うん」
「三つとも、この一年、俺がどうでもいいと思っていたものだ。眠れない夜も、眠ろうとしなかった。体の調子が悪くても放っておいた。久世の門の前には何度も立った。追い返されるだけでは済まない相手かもしれないと分かっていて、やめなかった。死にたいと思ったことはない。ただ、惜しむ理由が見つからなかった」
陸の顔から表情が抜けた。しばらく何も言わなかった。
「……続けろよ」
「お前のほうも同じだ。口の『閉じている』。足の痺れ。しゃっくり。靴擦れの痛み。口内炎。どれも、お前が要らないと思っていたものだった」
陸は自分の踵を見下ろした。
「要らないに決まってんだろ、あんなの」
「だから外れた。……のかもしれない」
書く。外れたものは、どれも持ち主が要らないと思っていたもの。書いてから、その一行を見下ろした。
久世は、切り離せるもの、と読んだ。俺は、持ち主が手放してもいいと思っているもの、と読む。錠のことは、どちらの読み方でも決めきれない。痛みも眠気もしゃっくりも、体から切り離せるものだと言われれば、それで説明はつく。どちらの読みでも、今ある事実は全部収まってしまう。
それでも、俺から抜けた三つが三つとも、この一年、俺が自分で投げ出してきたものだったことを、偶然だとは思えなかった。
「……決まり、ではない。たぶん、だ」
「たぶんで十分だろ。朝のあんたより、ずっと根拠ある」
陸はそう言って少しだけ笑った。笑い方がぎこちなかった。
最後にもう一つだけ書いた。
ためらいは捨てた。踏みとどまるものも、もう持っていない。
会見で久世はそう言った。今日、足場の上で、あの男の足は一度だけ止まった。揺れる踏み板の上で膝を折り、重心を落として、その場に踏みとどまった。それから、止まらないと自分に言い聞かせて、崩れると分かっている板の上に踏みこんだ。
捨てたと言っている。それでも、一度は止まった。
体を止める力は、まだあの男の中に残っているのかもしれない。持っていながら、自分で要らないと決めているのかもしれない。
その先は、手帳には書かなかった。
「で、どうすんの」
陸が訊いた。
「真柴の夢の期限は、明日だろ。待ってりゃ、そのうちあいつのほうから来るんじゃないのか」
「来させる」
陸の顔がこわばった。
「待っていれば、あいつは今日みたいに、自分で場所を選んで来る。豊島の真ん中で来られたら、俺には何も借りられない。今夜なら、場所も、時間も、お前がどこに立つかも、こっちで決められる」
「どこで」
「坂だ。真柴の夢の坂。久世の屋敷はあの坂の上にある。俺があの坂に立てば、あいつは出てくる」
「出てきて、どうすんだよ」
「豊島から文京へ、線を越える。《欠落》を借りる」
陸は口を開けたまま俺を見た。
「……あいつの力を借りて、あいつに使うのか」
「触れられれば」
「十分しかないんだぞ」
「だから、お前に数えてほしい」
地図アプリの坂を指で示した。斜めに下りていく線。坂の途中の横断歩道。
「線は坂を斜めに横切ってる。越えたあとは文京の側を外れない。豊島を踏み直したら、手の中のものは消える。それは俺が自分で気をつける。お前は坂の上で、時間だけ見ていてくれ。昨日の朝、試したときと同じだ」
「……何を消すんだよ。あいつから」
「あいつが、自分で要らないと言ったものだ」
陸の目が、手帳の最後の一行へ落ちた。それ以上は訊かなかった。
何を外せるのかは、指先からは分からない。借りるたびにそうだった。分かるのは、外せるものがそこにあるという手触りまでだ。だから、狙うものは先に決めておく。この目で見たものから。
陸はしばらく黙っていた。カーテンの隙間から一度下の通りを見て、それから俺の背中の包帯に目をやった。
「なあ。今、怖くないんだろ」
「ああ」
「だから行くんじゃないのか。怖くないから、平気で行けるんじゃないのか。……それ、足場と同じだろ。止めてくれって、あんたが言ったんだぞ。今、止めてんだよ、俺」
陸の声が少しだけ震えていた。
答えを探した。
怖くないのは本当だった。死ぬことを思い浮かべても喉はひきつれない。膝も震えない。足場の上で、体を後ろへ引き戻すものはどこにもなかった。
だが、あのときも頭は逃げろと言っていた。ここで死ねば、澪のことは何も分からなくなる、と。
それは怖さとは別のところから来ていた。怖さが抜けても、そちらは抜けていない。抜けていないから、陸に電話をかけた。
「怖くないのは、抜かれたからだ。抜かれたものは、もう俺には選べない」
陸は黙って聞いていた。
「でも、何を手放してもいいと思うかは、まだ俺が決められる。……決められるはずだ」
この一年、俺は自分の命をどうでもいいものとして扱ってきた。だから久世はそこから抜いていけたのかもしれない。痛みを、眠りを、怖さを。命のまわりにあるものを一つずつ。
抜かれるがままにしていたのは、俺だった。
「澪に何があったのか、まだ何も分かっていない。あの夜、坂で何が起きたのか。あいつがなぜいなくなったのか。グループの名前が、なぜ今の王と同じなのか」
手帳を閉じた。
「それを知るまでは、死なない。死んでもいいとは、もう思わない。……真実を知るまで、俺は何一つ手放さない」
言ってから、言葉だけでは足りないと思った。言葉なら、この一年何度でも言えた。
床の上に、陸が買ってきたおにぎりが三つ転がっていた。朝から何も食べていなかった。腹は鳴らない。空腹もたいして感じない。それでも一つ取って包装を破った。左腕がうまく持ち上がらず、海苔が半分ちぎれた。
陸が黙ってそれを見ていた。
食べた。鮭だった。味はちゃんと分かった。
一つ食べ終えて、もう一つに手を伸ばした。腹が減っているからではなかった。今夜、坂で立っているための体だった。
「……それ、俺のぶんなんだけど」
「あと一つある」
陸は何か言いかけて鼻をすすった。それから残りの一つを掴んで、乱暴に包装を破いた。
食べ終えてから、陸が訊いた。
「……で。それで、あいつの手は効かなくなるのか」
「分からない」
正直に言った。
「手放していいと思っているものしか抜けない。それが合っているなら、俺が本気で選び直したものは、もう抜けないはずだ。口で言っただけなら、たぶん変わらない」
「本気かどうかなんて、どうやって分かんだよ」
「坂で分かる」
陸は黙った。
「それに、全部が抜けなくなるわけじゃない。あいつは、痛み、眠り、怖さと、命の外側から順に剥いできた。次に指をかけるのは、たぶん、命のすぐそばだ。そこはもう渡さない。……命と関わりのないもので、俺がまだ要らないと思っているものがあれば、そっちは抜かれるかもしれない」
「穴だらけじゃん」
「穴だらけだ」
だから、塞げる穴は塞いでおくことにした。
「体当たりは止められない。避ければ、触る機会もなくなる。だから受ける。倒されるときは頭をかばって、背中から落ちる。右手だけは空けておく」
「……あんたが、立てなかったら」
「十分を過ぎても俺が上に戻らなかったら、救急車を呼べ。坂には下りてくるな」
「ふざけんなよ」
「頼む」
陸は長いあいだ俺を見ていた。
「十分も待てるか」
陸が言った。
「倒れて一分起きなかったら、その場で呼ぶ。十分なんか待たない。……それが呑めないなら、今から堂島さんに電話する。あんたが何しようとしてるか、全部言う」
陸は目を逸らさなかった。
一分。倒れたまま一分あれば、久世には触れ直す時間がいくらでもある。それでも、陸の言うとおりだった。倒れて動けないときまで、借りていられる時間と同じ十分で数えていた。
「……分かった。一分だ」
「堂島さんには、終わったらすぐ言う。それは俺が決める」
「ああ」
陸はスマートフォンの画面に目を落とした。何かを打ちかけて、消した。
「……十分過ぎても上がってこなかったら、呼ぶ。一秒でも過ぎたら。それと、あんたが線を踏み直したら、その場で大声で言う。手の中のもんが消えたってことだろ。気づかないまま突っこまれるほうが怖い」
「それでいい」
「よくねえよ」
陸はそう言って、それでも画面のストップウォッチを一度押して、止めて、ゼロに戻した。
日が傾いてから、鞄の口を閉めた。
巻尺。下げ振り。赤と白に塗り分けられた境界杭が何本か。一周忌の朝から部屋の隅で口を開けたままだったものを、一つずつ確かめて入れ直した。
「それ、何に使うの」
「測量だ」
陸はそれ以上は訊かなかった。
左腕は相変わらず肩より上へは上がらない。背中の包帯の下で何かが脈を打っている気がした。痛みではない。痛みではないが、そこに傷があることを今は忘れずにいようと思った。
窓の外で、豊島の街に灯りがつき始めていた。真柴の夢の期限までまだ一晩あった。その一晩を、待つことに使うつもりはなかった。
手帳を胸のポケットに入れた。澪のスマートフォンをその隣に入れた。
何一つ、手放さない。
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