第6章 手放さないもの②
坂の上に着いたのは夜の九時を回ったころだった。日が落ちて部屋を出てからは、豊島の側の小さな公園で、坂の人通りが絶えるのを待っていた。
アスファルトの坂は真柴の言ったとおりの形をしていた。わりと急で、両側に古い塀と新しいマンションが並んでいる。坂の途中に横断歩道がある。道の真ん中を区境の線が斜めに下りていく。ところどころに埋めこまれた金属の鋲が、街灯の光を小さく返していた。
一周忌の朝に置いた花はもうなかった。電柱の根元に、花束を留めていた輪ゴムが一本だけ残っていた。
坂のいちばん上に久世の屋敷の門がある。黒い板塀に瓦をのせた古い門。この一年、何度もこの前まで来て、一度も開かなかった門だった。
陸は門から二十メートルほど離れた角に立っていた。坂の上から、俺の立つ場所まで見通せる位置だ。片手にスマートフォンを持ち、もう片方の手をパーカーのポケットに突っこんでいた。
「越えたら、すぐ言え。ゼロ押すから」
「分かった」
「三分ごとに言う。でかい声で」
陸の声は平らだった。平らにしようとしているのが分かった。
門から坂を十メートルほど下りたところに立った。豊島の側。右足のつま先の一歩先を、線が斜めに走っている。鞄は肩から斜めに掛けたままにした。右手を空けておくためだった。
待った。
怖くはなかった。心臓はいつもの速さで打っている。足場の上で体を後ろへ引き戻すものがなかったのと、同じ静けさだった。
それでも、ここに立っている理由は違う。違うはずだった。違うことを確かめる方法は一つしかなかった。
十分ほど経ったころ、門の内側で砂利を踏む音がした。
門が、開いた。
久世冬真が出てきた。
黒いコート。素手。頬に擦り傷が一本走っていた。崩れた足場の中を抜けてきた跡なのだろう。ほかに怪我をしているようには見えなかった。
久世は門の前で足を止め、坂の下の俺を見た。
驚いた様子はなかった。工事現場で足場の下に立っていたときと同じ顔だった。来るべきものが来るべき場所に来た。そういう顔に見えた。
俺は線を越えた。
右足で文京を踏み、左足を引き寄せる。
手のひらに温度が来た。一周忌の坂で初めて知った、あの温度。指先に、細い糸の端がいくつも集まってくる。
「来た」
「ゼロ!」
坂の上で陸の声が跳ねた。
久世はすぐには動かなかった。
門の前で、自分の右手を見下ろしていた。指を開き、閉じる。もう一度開く。
一周忌の朝、坂の下でもこの男は同じことをしていた。何を確かめているのかは分からない。分からないまま、俺は見ていた。
門の前で久世は長いあいだ動かなかった。俺も動かなかった。坂の上の陸も何も言わなかった。手のひらの温度が少しずつ減っていくような気がした。気のせいだと分かっていても、頭のどこかで秒を数えずにはいられなかった。
久世が坂を下りてきた。
ゆっくりだった。走ってはいない。それなのに、一歩ごとに坂そのものがこちらへ傾いてくるように見えた。俺から五メートルほど上で、久世は止まった。線の豊島の側だった。
「……何をしに来た」
初めて聞く、俺に向けた声だった。
「訊きに来た。澪のことを」
久世の目がわずかに細くなった。
「あの夜、ここで何があった。あんたは、あいつのスマートフォンのグループにいた。今の王と、同じ名前が並んでいた」
「お前が知る必要はない」
「知るまで、帰らない」
「なら、帰らなくていい」
久世はそう言って、もう一度右手を見た。指を開き、閉じる。
「三分!」
陸の声が坂を転がり下りてきた。久世の目が一瞬だけ坂の上へ動き、それから俺に戻った。
「――止まらない」
足場の上で聞いたのと同じ、低い声だった。
久世が地面を蹴った。
五メートルは、一瞬だった。
逃げなかった。
逃げる理由がなかったわけではない。命に関わるものはもう抜かれない、と俺は思っている。たぶん、だ。その「たぶん」に俺は命を載せていた。どうでもいいから載せたのではない。ほかに、生きて帰る道を思いつかなかったからだ。
文京の側を外れない。それだけを足の裏で確かめていた。
肩がぶつかった。体が浮いた。決めておいたとおりに顎を引き、肩より上へは上がらない左腕を、無理に頭の横へ押しつけた。背中からアスファルトに落ちた。包帯の下で何かが裂ける感触があった。痛みはない。息だけが肺から押し出された。
仰向けだった。目は開いていた。
街灯の光の中に、黒いコートが立っていた。俺の足もとの側。坂の少し上。
頬のすぐ横で金属の鋲が光っていた。線だ。顔の横、手のひら一枚ぶん向こうが豊島だった。足はまだ文京の上にある。手のひらの温度も、まだ消えていない。
久世が膝を折った。素手が俺の首筋へ伸びてきた。
避けなかった。避ける場所もなかった。
冷たい指が、襟の内側の素肌に触れた。工事現場で触れられたのと同じ場所だった。指先が何かを探るように止まる。
待った。
喉の奥は静かなままだった。心臓は、さっきと同じ速さで打っている。体の中のどこかから何かが外れていく、あの感じが来ない。一周忌の朝にも、今日の足場の上にもあった、糸を一本引き抜かれるような感じが。
久世の指がもう一度首筋を探った。押しつけるように。爪が皮膚に食いこむのが分かった。痛みは来ない。それはもう知っている。食いこんだ爪の硬さだけが、首の横にあった。
それでも、何も抜けなかった。
久世は自分の手を見た。
人差し指は白くなっていなかった。中指も、薬指も。どの指も、血の通った色のままだった。
久世の目が、自分の指から俺の顔へ、それからまた指へ動いた。この男が何かを確かめ直すのを、初めて見た。
「……なぜだ」
声が揺れていた。
答えなかった。
見当ならついていた。この男はたぶん、命のすぐそばに指をかけた。痛み、眠り、怖さと、外側から順に剥いできた男だ。次に指をかけるなら、そのあたりだろう。そこはもう、俺が手放していいと思っているものではない。
今の一度は、何も抜けなかった。部屋で立てた「たぶん」が、首筋に残る冷たさの分だけ重くなった。
久世はもう一度、自分の指を見た。俺の右手のほうは、見ていなかった。
久世が立ち上がった。
一歩踏みこむ。俺の腰の横に、右足を叩きつけるように下ろした。体重を乗せ直すための深い一歩だった。黒いズボンの裾がその勢いでめくれ上がった。
街灯の光の中に、足首の素肌が見えた。
久世の右手が、また伸びてくる。今度は俺の胸へ。
俺の右手は、久世の影の中にあった。
その手で、足首を掴んだ。
指先に、糸の端が集まってきた。
陸の手首に触れたときとは比べものにならない数だった。細いもの。太いもの。張りつめたもの。指先をかすめるだけで、どれが何なのかは分からない。分からないのは、借りるたびにそうだった。
だから、見たものを思い浮かべた。
揺れる踏み板の上で、膝をわずかに折り、重心を落とした体。崩れると分かっている板の手前で、一度だけ、この男をその場に留めたもの。会見で、もう持っていないと言い切ったもの。
踏みとどまる力。
外れろ。
人差し指が、根元から白くなった。
久世の手が止まった。
俺の胸の上。手のひら一つ分の隙間を残して。
止めたのではなかった。久世の体が坂の下へ傾きはじめていた。俺の腰の横に下ろされた右足が、アスファルトの上でずれた。小さな砂利が靴の底から、さらさらと坂の下へ流れていった。
仰向けの俺。見上げる目。伸ばされて、届いていない手。坂の下へ流れる砂利。
真柴の夢と、同じだった。
足首から手を離した。
久世は踏みとどまろうとした。膝を曲げ、重心を落とし、坂の上へ体を戻そうとした。足場の上でやってみせたのと同じ形だった。形だけが同じだった。体はそれに応えなかった。誰でもそこで止まれるはずの傾きだった。止まれるはずの坂の途中で、久世の体はただ下へ傾き続けた。
久世の目が俺を見た。
怒りではなかった。足場の上で一瞬だけ見た揺れを、もっと深くしたような目だった。
右手がもう一度こちらへ伸びた。届かなかった。
黒いコートが俺の足もとを過ぎていった。靴底がアスファルトを擦る音。砂利の流れる音。一歩ごとに速くなっていく。止まらない歩幅で。止まれない歩幅で。
坂の下を、車のライトが横切っていった。
久世は、止まれなかった。
坂の下で金属の鳴る音がした。
一度だけだった。重いものが、薄い鉄板にぶつかる音。それから、何も聞こえなくなった。
体を起こした。倒れてから、まだ一分は経っていないはずだった。左腕はやはり肩より上へは上がらない。右手をアスファルトについて膝を立てた。背中の包帯の下がぬるく濡れているのが分かった。
坂の上から足音が聞こえた。
「黒瀬!」
陸だった。角を離れて、こちらへ駆け下りてこようとしている。
「来るな」
自分の声が思ったより大きく坂に響いた。
「そこにいろ。時間を数えてろ」
陸の足音が止まった。何か言い返そうとして、言わなかった。
「……四分」
声だけが下りてきた。
肩からずれた鞄を掛け直し、坂を下りた。線は俺の右側を斜めに下りていく。文京の側を外れないように歩いた。手のひらにはまだ温度が残っている。それが何の役に立つのかは、もう考えていなかった。
坂は下のほうでわずかに曲がっている。陸の立つ角からは、突き当たりまでは見通せない。曲がり目を過ぎたところで、そのことに気づいた。
歩きながら鞄の口を開けた。巻尺。下げ振り。その下に、赤と白に塗り分けられた杭が何本か入っている。境界杭だ。土地の角に打ちこんで、ここからここまでが誰のものかを示す。
右手で一本を抜いた。手に馴染んだ重さだった。
坂の下は片側一車線の通りに突き当たっていた。突き当たりにガードレールがある。その一枚が、真ん中で大きくへこんでいた。
久世はその根元に倒れていた。
ガードレールに背を預けるようにして、半分座りこんでいる。片方の脚がおかしな向きに曲がっていた。額から流れた血が頬の擦り傷の上を伝って、顎から落ちている。
生きていた。
胸が浅く上下している。目は開いていた。近づいてくる俺を見ていた。
久世は体を起こそうとした。右手でガードレールを掴み、腰を浮かせる。浮いた腰がそのまま、ずるりと横へ流れた。歩道のわずかな傾きにさえ、体がついていかない。久世はもう一度試して、もう一度流れた。
それから動くのをやめた。
曲がり目の向こうで、陸が「六分」と言うのが聞こえた。
三歩ほど手前で立ち止まった。
通りに車は来なかった。街灯が一つ、ガードレールの上で瞬いていた。
久世の目が俺の右手に動いた。杭ではなく、その手の白くなった人差し指に。
「……俺の、力か」
かすれた声だった。
答えなかった。
久世は自分の手を見下ろした。指はどれも白くない。それから俺の指を見た。長いあいだ見ていた。
「澪に、何があった」
俺は訊いた。
「あの夜、この坂で。お前たちは、何をした」
久世は黙っていた。
「答えれば、救急車を呼ぶ」
口にしてから、それが本当かどうか、自分でも分からなかった。
久世の唇がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。
「呼んで、どうする」
何も言えなかった。
「足が、止まらない。踏んばれない。……お前が、そうした」
久世はガードレールに後頭部を預けた。
「それでも、立てるようになれば、俺はまたお前のところへ行く。力のせいじゃない。俺が、そう決めている。今度は、止まれない足で行く。……分かっているだろう」
分かっていた。
この男は、止まらないと自分で決めている男だ。その男の体から、止まる力を外した。次にこの男が来るとき、体はもうどこでも止まれない。それを、俺がこの手で作った。
杭を握った右手を見下ろした。
ここで背を向けることはできた。救急車を呼んで、あとのことを誰かに任せることもできた。この男はこの傾きの上では、ひとりで立つこともできない。少なくとも、今夜のうちは。
この男がいなくなれば、澪のことを知る道が一本、消える。
それも分かっていた。真実を知るまで何一つ手放さないと、数時間前に自分で言ったばかりだった。
久世の顔を見た。
澪について何かを知っているはずの男だった。その男の屋敷の門の前で、一年、追い返され続けた。一周忌の朝、ようやく向き合えたと思ったら、返ってきたのは説明ではなく、俺の命を狙う手だった。今日もそうだった。そして倒れて動けなくなった今も、この男は何一つ渡そうとしない。
許せなかった。
それだけだった。その一瞬、澪に何があったのかを知りたいという思いより、この男が息をしているのが許せないという思いが勝った。
正しいとは思わなかった。この男はまた来る。それも本当だった。だが、杭を握った手を動かしたのは、それではなかった。正しくないと分かったまま、俺はそちらを選んだ。
痛みはない。眠気もない。死ぬのが怖いということも、まだ戻っていない。それでも、何を選ぶかだけは、俺の手の中に残っていた。
一歩、前に出た。
久世は逃げなかった。逃げられなかった。それでも、目は逸らさなかった。
「……九分!」
曲がり目の向こうから、陸の声が聞こえた。
杭を、突き下ろした。
手応えは測量のときと似ていた。固い表土を抜けて、柔らかいところへ入っていく、あの感じ。違ったのは、杭の先にあるのが土ではないことだけだった。
久世の体が一度だけ跳ねた。
右手が俺の手首のほうへ上がりかけた。素手だった。届いていれば、何かを外せたのかもしれない。手は途中で落ちた。
久世が俺を見上げた。
さっき坂の途中で、俺がこの男を見上げていたのと同じ角度だった。
「……黒瀬」
血が喉に絡んだ音がした。久世はそれを飲みこむようにして言った。
「俺たちは、あいつを殺したんじゃない。あいつの望みを、叶えただけだ」
それきり、久世は何も言わなかった。
目は開いたままだった。胸の上下が浅くなり、間遠になり、止まった。
その瞬間、胸の奥に温度が流れこんできた。
手のひらではなかった。胸の、骨の内側だった。
覚えのある温度だった。線を越えるたびに手のひらに来る、あの懐かしい温かさ。一周忌の坂で初めて知った、あの温かさ。それが手のひらを通らずに、まっすぐ胸の真ん中へ入ってきた。
同じとき、手のひらの温度がなくなった。十分が来て縁から薄れていく、いつもの抜け方ではなかった。手のひらにあったものが、胸のほうへ引き寄せられていった。そんなふうに思えた。
そして、胸で留まった。水が引くようには、引いていかなかった。
何が来たのか分からなかった。分からないまま、杭から手を離した。右手の人差し指は、まだ白いままだった。
最初に来たのは背中だった。
包帯の下で何かが裂けた。そう思った。裂けたのは今ではなかった。足場から落ちたときに裂けていたものが、今になって、裂けたことを知らせに来た。
息が止まった。
左肩が続いた。手すりに打ちつけた骨の奥が、焼けた鉄を押しあてられたように鳴った。坂でアスファルトに叩きつけられた背中。擦りむいた肘。一周忌の朝に電柱で擦った肩。この四日間、体のあちこちに置き去りにされていた痛みが、順番も待たずにいっぺんに戻ってきた。
膝が、折れた。
アスファルトに両膝をついた。右手をつこうとして、つけなかった。手が震えていた。
杭を握っていた手だった。
さっきまで、測量の道具を持つのと同じように持っていた手だった。それが指の先から肘まで、止めようもなく震えている。止めようとすると余計に震えた。
ガードレールの根元に久世がいた。目を開けたまま。胸に赤と白の杭を立てたまま。
喉の奥がひきつれた。
心臓が肋骨の内側を叩いた。四階の踏み板の上で感じたのと同じものだった。あの男に抜かれて、写真で見た他人の顔のように遠くなっていたもの。それが今は、俺の中にあった。
死ぬのが、怖かった。坂の途中で、俺は命を「たぶん」に載せた。外れていれば、今ガードレールの根元にいるのは俺だった。昨日までなら当たり前にあったその怖さが、今になって、ちゃんと戻ってきた。
手の震えは、それとは別のところから来ていた。
こちらは、戻ってきたのではなかった。人を殺すことへの怖さを、久世は俺から抜いていない。杭を握っていたあいだも、それはどこかにあったのかもしれない。見ないまま、手を動かしただけだ。
怖い、と思った。
久世が怖いのではなかった。久世はもうどこへも来ない。怖いのはこの手だった。この手がさっき何をしたのか。それを自分で選んだということが。
「……十分」
曲がり目の向こうから陸の声がした。手のひらには、もう抜けていくものが何も残っていなかった。
「黒瀬!」
足音が曲がり目を回ってきた。
陸は俺の三歩手前で止まった。俺を見て、それからガードレールの根元を見た。
陸の顔から色が抜けた。
何か言おうとして、口を開けたまま何も出てこなかった。手の中のスマートフォンの画面で、ストップウォッチの数字がまだ動いていた。十一分。十二分。
「……呼んだ」
ようやく出た声はかすれていた。
「十分過ぎても、あんたが上がってこなかったから。救急車。……下りてくるなって言われたけど、無理だった」
答えられなかった。答えられることが何もなかった。
陸はもう一度久世を見た。それから俺の横にしゃがみこんだ。陸の手が俺の肩へ伸びかけて、止まった。
触れれば、陸は俺の直前の一分を読める。読むかどうかは、陸が決めることだ。陸の手が止まったのが、読まないと決めたからなのか、人を殺したばかりの体に触れるのをためらったからなのか、俺には分からなかった。陸は手を引っこめて、自分の膝の上で握りしめた。
「……痛いのか」
「痛い」
口にすると、もっと痛くなった気がした。
「たぶん、眠気も戻ってきた。……全部だ。全部、戻ってきた」
陸の目が久世の上で止まった。
「自分が死ぬまで、戻らない」
陸がぽつりと言った。
「……ほんとに、そうだったんだな。消したやつが、死ぬまで」
うなずくこともできなかった。
部屋で手帳を覗きこんだとき、陸はその読み方を口にした。俺もそう読めるとは言った。当てにはしないと決めていた。当てにしなかったものが、今、全部戻ってきていた。
あの夜、この坂で何があったのか。久世は答えなかった。答えのかわりに、一つだけ言葉を残していった。
あいつの望みを、叶えただけだ。
澪の望み。この坂で澪がいなくなった夜、澪は何を望んでいたのか。久世たちは何を叶えたのか。一年追ってきた男に辿りついて、手に残ったのは答えではなく、新しい問いだった。
何一つ手放さないと、数時間前に言った。その同じ手で、澪へ続く道を一本、自分で手放した。
坂の下の交差点に、区の案内板が立っていた。街灯の光を受けて、白地に青い文字が浮かんでいる。〈豊島区〉。その横に、矢印と町名がいくつか。
〈豊島区〉の三文字だけが、妙にくっきりと見えた。
ほかの文字は、夜の中で少しにじんでいる。それなのに、その三文字だけが、紙に押した判のように、はっきりとした輪郭を持っていた。目が疲れているのだろうと思った。四日ぶんの疲れが、今になって来ているのだ。
まぶたが、重くなった。
覚えのある重さだった。眠れない夜が続いたこの一年でも、明け方には必ずどこかで来ていたもの。この四日、一度も来なかったもの。
陸が何か言っていた。スマートフォンを耳に当てて、誰かと話している。堂島さん、と呼ぶ声だけが、一度、耳に引っかかった。言葉がうまく耳に入ってこない。陸の声が遠くなり、近くなり、また遠くなる。どこか遠くで、サイレンが鳴りはじめていた。
アスファルトが、頬に冷たかった。いつ横になったのか、覚えていなかった。
胸の真ん中で、さっきの温度がまだ留まっていた。
手のひらに来る温度とは違って、引いていかない。じっとそこにある。眠りの縁へ落ちていく体の中で、その温度だけが、目を覚ましているようだった。
その温度の奥から、一行だけ、何かが来た。
言葉ではなかった。予感だった。
――使えば、何かを失う。
何を使えば。何を失うのか。考えようとして、考えられなかった。
四日ぶりに、眠った。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




