第7章 観衆①
十月十七日。久世が死んで、九日が経っていた。
この九日のことは、あまりよく覚えていない。
覚えているのは病院の天井だ。背中を十一針縫われた。縫われるあいだずっと痛かった。痛いと思うたびに、ガードレールの根元が浮かんだ。左肩は骨に罅が入っていて、三角巾で吊られた。今も腕は肩の高さより上へは上がらない。
それから、眠った。
最初の二晩は、眠れることが信じられなかった。目を閉じると本当に意識が落ちていく。朝になると、ちゃんと目が覚める。そのたびに胸の真ん中の温度を確かめた。坂の下で流れこんできたものは、九日経ってもそこに留まっていた。何なのかはまだ分からない。使えば何かを失うという予感も、あれきり来なかった。
眠りに落ちる直前には、いつも同じ声がした。
俺たちは、あいつを殺したんじゃない。あいつの望みを、叶えただけだ。
*
堂島誠一が病室に来たのは、十月九日の昼だった。
中野の区境で鍵谷を連れていった刑事だ。あの夜、陸が坂の下から電話をかけた相手でもある。救急車を呼んだのは陸だったが、そのあと現場を囲み、久世を運ぶ車を手配したのはこの男だった。くたびれたコートを椅子の背にかけ、手帳を膝の上で開いた。
「最初から話せ」
話した。会見の録画のこと。坂のこと。足首のこと。杭のこと。ごまかさずに話した。ごまかす理由がもうなかった。
堂島は一度も口を挟まなかった。ときどき手帳に何か書きつけ、ときどき窓の外を見た。話し終えると、ペンを置いた。
「勘違いするなよ。不問にしたわけじゃない。お前は人を殺した。相手が区王だろうと何だろうと、俺の手帳にはそう書いてある」
「捕まえないのか」
「今は、な」
堂島は手帳を閉じた。
「お前の話も、現場のことも、上には上げた。上は受け取った。受け取って、そこで止まってる。区王の件はな、書類が回るうちに誰も読まなくなる。読んだやつも、大事な件として次へ回さない。読み返しても、捜査の話にはならない。紙が消えるんじゃない。紙はちゃんと残ってる。ただ、誰もそれを事件として扱わん。逮捕状を取ろうにも、その手続きが動かん」
この街の人間が、王のいる暮らしを当たり前のこととして受け流しているのと同じなのだろうと思った。
「お前は怪我人で、逃げる当てもない。今のところはそれで十分だと、俺が判断した。逃がしたんじゃないぞ」
「動く日が来たら」
「俺が来る」
堂島はコートを取って立ち上がった。出ていく前に、一度だけ振り返った。
「次に誰かを殺したくなったら、俺の前でやれ。止めてやる」
冗談には聞こえなかった。
*
久世の死は、ニュースにならなかった。
退院した日、豊島の部屋へ戻る途中で商店街を通った。八百屋の店先で、主婦が二人立ち話をしていた。
「王様、最近見ないわねえ」
「お屋敷にこもってらっしゃるんでしょ。夜は気をつけないと。『いらない』って、言っちゃだめよ」
二人は笑って別れた。坂の上の屋敷の門は閉まったままだった。王はもういない。それでもこの区の人間は、王のいる暮らしを続けていた。
陸からは、しばらく連絡がなかった。
俺からもしなかった。あの夜、陸はガードレールの根元を見た。それから俺の手を見た。かける言葉を、俺は持っていなかった。
退院して三日目の夜、一行だけ来た。
〈生きてる?〉
〈生きてる〉
それきりだった。
*
告知が出たのは十六日の夜だった。
陸から電話が来た。あの夜から声を聞くのは初めてだった。
「神崎のチャンネル。今、上がった。……送る」
送られてきたのは短い動画だった。白いスーツの男がカメラに向かって笑っていた。背後はどこかの倉庫のようだった。
〈はい、こんばんはー。明日はね、特別編です〉
神崎はカメラを横へ振った。
パイプ椅子に男が座らされていた。作業ズボン。両手を後ろで縛られている。顔に殴られた跡があった。
見覚えがあった。九日前、新宿の大型ビジョンの中で、靴下のまま逃げていた男だ。
〈この前、俺から逃げきった野良くん。覚えてる?拾ってきました。……で、明日の主役は、この子じゃありません〉
神崎は画面に一枚の写真を出した。
俺の顔だった。いつ撮られたのか分からない。どこかの駅の改札で、横を向いている。
〈豊島の王様がね、死にました。殺されたの。こいつに。区王殺し、黒瀬玲司くん。明日の昼十二時、新宿駅東口、大型ビジョンの前。来てくれたら、野良くんは返してあげる。来なかったら――〉
神崎はパイプ椅子の男の頭に手のひらを置いた。
〈この子が、明日の主役になります。最後の、ね〉
動画はそこで終わった。最後の画面に文字が出た。
〈明日の題名:本日の主役:区王殺し黒瀬玲司〉
コメント欄の半分は本気にしていなかった。〈王様が死ぬわけないじゃん〉〈設定凝ってんな〉という書きこみが何度も流れていた。
「……どこから漏れたんだよ」
陸の声がかすれていた。
「堂島さんは、表には出してないって言ってた。俺も誰にも言ってない。記録を見たやつが、ほかにいるのかもしれないけど」
分からなかった。ただ、久世と神崎の名前は、澪のスマートフォンのあのグループで同じ画面に並んでいた。
「行くのか」
「行く」
「罠だぞ。あいつ、あんたを配信の真ん中で殺すつもりだ」
「分かってる。……来なければ殺す、と言った」
陸はしばらく黙っていた。
「九日前、俺たち、あの人が追い回されてるのを見てた。歩道橋の上で、画面越しに」
「見てた」
「何もできなかった」
「ああ」
届かなかった。歌舞伎町まで走っても間に合わなかった。間に合ったところで、手の中には何もなかった。あのとき俺は、画面に背を向けた。
「今度は、行ける距離にいる」
陸が息を吐く音がした。
「……俺さ。あんたが久世を殺したの、まだ納得してない。あの夜のこと、まだちゃんと考えられてない。たぶん、ずっと考えると思う」
「ああ」
「だから、あんたに付き合うんじゃない。あの人が殺されるのを、また画面で見てるのが無理なだけだ。……俺も行く。俺が、行くって決めた」
それから少しだけ、声の調子を戻した。
「それに、俺も懸賞金かかってるし。神崎の配信なら、俺のほうが詳しい。明日、十時。中野駅」
十七日の朝、中野駅で陸と落ち合って、新宿へ歩いた。
歩いて新宿に入るなら、どこかで線を越えることになる。豊島からまっすぐ越えることもできた。だが、王のいなくなった区から線を越えて手に何が来るのか、俺は知らない。何も来ないのかもしれない。知らないものを今日試す気はなかった。
十日前と同じ青梅街道の歩道橋で、中野から新宿へ線を踏んだ。手のひらに温度が来た。まぶたが少し重くなる、真柴の手触り。今日も使い道はない。十分もすれば消える。
陸は歩きながら、スマートフォンで神崎のチャンネルを見ていた。待機画面に同じ題名が出ている。待っている人数が、もう三万を超えていた。
「十日前の配信は、最後は十四万だった。今日はたぶんもっといく。……あんたが本当に来るかどうか、みんな見に来てる」
それから陸は、画面を俺のほうへ向けた。神崎のチャンネルの概要欄だった。プロフィールの写真の下に、太字の文章が貼りつけてある。
「前から載ってるんだよ。自分の力の説明。頭に来た文章だって、自慢で」
配信を始めるとき、題名にその回の主役を一人書く。主役は配信を終えるまで変えられない。自分を見ている者の数に応じて、見られているその者の力と速さが増す。画面越しの視線も数に入る。見られなくなれば元に戻る。強まった分だけ、あとで同じだけ、その者が疲れ果てる。
「『自分を見ている者の数に応じて』。普通に読めば、強くなるのは神崎だ。実際、毎回そうなってる。……ただ、犬飼の回だけ、題名の主役が犬飼だった。それで、犬飼のほうが強くなってた」
「なら、今日の主役は」
陸は待機画面の題名を見た。〈本日の主役:区王殺し黒瀬玲司〉。
「……かもしれない、ってだけ。犬飼は野良だった。あいつ自身の力だったって線も、消えてない。一回しかない例で、あんたの命は賭けられない」
陸は画面を消した。
「だから当てにすんな。今日は、あの人を連れて帰ることだけ考えろ」
うなずいた。頭の片隅に、題名の文字だけが残った。
新宿駅の東口に着いたのは十二時の五分前だった。広場は十日前よりも人で埋まっていた。誰も歩いていない。全員が大型ビジョンを見上げているか、スマートフォンを掲げているかだった。
何人かがこちらを見た。それから別の何人かが。俺の顔を見て、手元の画面を見て、もう一度顔を見る。
「……いた」
誰かが言った。ざわめきが波のように広がり、人垣が俺たちのまわりだけ少しずつ開いていく。開いた輪の外側で、何十ものスマートフォンがこちらへ向けられた。
大型ビジョンの画面が切り替わった。
〈本日の主役:区王殺し黒瀬玲司〉
題名の帯の下に、広場が映っていた。どこか高いところから撮っている。人垣の輪の真ん中に男が二人立っている。片方は三角巾で左腕を吊っていた。
俺だった。十二時ちょうどだった。
〈はーい、来ました来ました!区王殺し、本当に来ました!〉
神崎の声が、広場のスピーカーから降ってきた。画面の端に小さな窓が開き、白いスーツの神崎がワゴン車の後部から喋っている。背後で機材のランプがいくつも点滅していた。
〈いやあ、律儀だねえ。野良くんのために来たの?泣けるわ〉
コメント欄が滝のように流れはじめた。〈本物?〉〈三角巾w〉〈区王殺しってマジ?〉〈殺せ〉。
「あの人は、どこだ」
画面に向かって言った。どこかのマイクが拾っているのかどうかは分からなかった。
〈野良くん?いるよ。ほら〉
画面が切り替わった。広場の南の端、大型ビジョンの真下あたりに、白いワゴン車が停まっている。その横にパイプ椅子が置かれ、作業ズボンの男が縛られたまま座っていた。まわりを派手なシャツの男たちが五、六人で囲んでいる。距離は百メートルもない。
〈取りに来ていいよ。区王殺しくんが野良くんのとこまで辿りつけたら、解放。その前に捕まったら……まあ、そのときは俺が出ていきます。最後は、俺が仕留める。みんな、見ててね〉
同時接続数が、画面の隅で八万を超えた。
「黒瀬、だめだ。囲まれてる。真っ直ぐ行ったら――」
陸の言葉が終わる前に、人垣の輪が崩れた。派手なシャツの男たちが人のあいだを割って、こちらへ走ってきた。四人。その後ろから、スマートフォンを掲げた見物人たちが押し寄せてくる。
人の波が、俺と陸のあいだに割りこんだ。陸の頭が、見物人の肩の向こうに沈んで見えなくなった。
走った。
野良のほうへではなかった。真っ直ぐ行けば四人に捕まる。捕まれば、そこで神崎が出てくる。広場の東の端、人垣の薄いところへ体をねじこんだ。
追ってくる。四人と、その後ろの何十人か。見物人たちは追いかけているのではなかった。撮りながらついてきている。俺が走る方向へ、レンズが一斉に向きを変える。
通りへ出た。信号が赤だった。車の流れの切れ目を走り抜けた。クラクションが鳴った。
足が、軽かった。
背中の傷が、走るたびに引きつれる。左肩が三角巾の中で脈を打つ。痛みはちゃんとある。それなのに、足だけが自分のものではないみたいに前へ出ていく。
手のひらには何もなかった。真柴の手触りは、新宿に入って十分で消えている。借りているものは何もない。
路地へ曲がった。室外機の上を跳んだ。跳べると思わなかった高さを、跳べた。後ろの足音が少しずつ遠くなる。
興奮しているのだろう、と思った。朝、歩道橋で陸が見せた題名が一瞬だけ頭をよぎった。本日の主役。確かめる余裕はなかった。興奮と見分ける方法も、走りながらでは思いつかない。九日前まで、俺の体には怖さがなかった。今は、ある。坂の下で戻ってきたものが、心臓を叩いている。人の体は本当に追い詰められたとき、思っていたより速く動けるのかもしれない。
路地の出口で、一度だけ振り返った。追ってきた一人が、路地の入口で膝に手をついていた。その後ろで、見物人がスマートフォンを掲げたままこちらを撮っていた。
ポケットの中のスマートフォンに、神崎のチャンネルの通知が出ていた。走りながら一瞬だけ見た。路地を走る男の背中が、斜め上から映っていた。どこかのビルの上から、誰かが撮っている。
画面の隅の数字が、また跳ねた。
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