第7章 観衆②
雑居ビルの裏口の、非常階段の下にもぐりこんだ。
鉄の階段が頭の上を斜めに覆っている。左右は室外機とゴミの集積所で、表の通りからは見えない。屋上のカメラの角度からも、踊り場が死角になるはずだった。
息を整えようとして、膝に手をついた。
足が、重かった。
さっきまで自分のものではないみたいに前へ出ていた足が、背中を縫われたばかりのただの怪我人の足に戻っている。背中の傷が、急に深く痛んだ。走っていたあいだも痛みはあった。だが、今のほうが重い。
興奮が冷めたのだろうか。それとも、と朝の題名がまたよぎった。画面から消えたのと同時に重くなった気がする。気がするだけだ。一人で確かめる方法はなかった。
画面を開くと、配信は続いていた。映っているのは、俺が飛びこんだ路地の入口だった。派手なシャツの男たちが、路地の左右を覗きこんでいる。画面の隅の数字は、少しだけ下がっていた。
〈あれえ?区王殺しくん、隠れちゃった。主役が画面にいないと、つまんないよねえ。じゃあ、こうしよう。五分で出てこなかったら、野良くんの指、一本ずつね〉
コメント欄が沸いた。画面の端の窓で、作業ズボンの男が顔を上げていた。縛られた手の先が震えているのが見えた。
スマートフォンが震えた。陸だった。
「どこ」
「……路地の裏だ。非常階段の下」
「知ってる。画面から消えた場所、そこしかなかった。今行く。動くな」
陸が来たのは二分後だった。室外機のあいだを這うようにして、階段の下へ転がりこんできた。パーカーのフードが半分脱げ、息が上がっていた。
「……生きてる?」
「生きてる」
退院して三日目の夜に届いた一行と同じやりとりだった。陸は少しだけ笑いかけて、やめた。
「時間ない。三分。……あんた、さっき自分がどれだけ速かったか分かってる?」
「分からない。朝の話かもしれないし、ただの興奮かもしれない」
「区別、つくよ」
陸はスマートフォンを俺の前に突き出した。配信の巻き戻しだった。広場から通りへ飛び出していく男の背中。信号を無視して、車の流れの切れ目を抜ける。画面越しに見ても、人間の走り方ではなかった。十日前、大型ビジョンの中で靴下の男を追っていた白いスーツと同じ種類の速さだった。
「同接、見て。あんたが広場を出たとき、九万。路地に入ったとき、十三万。速くなってくのと、数字が増えてくのが、ぴったり同じ」
「……神崎の力か」
「神崎の力。でも、神崎に効いてない。あんたに効いてる」
陸は画面を切り替えた。今朝、青梅街道で見た概要欄だった。あのときは、二人とも決めきれなかった。
自分を見ている者の数に応じて、見られているその者の力と速さが増す。見られなくなれば元に戻る。
読みながら、足の重さのことを考えていた。路地を走っていたときの軽さ。ここへもぐりこんでカメラから消えた途端に、戻ってきた重さ。見られなくなれば、元に戻る。
「神崎は、この『自分を見ている者』の『自分』を、自分のことだと思ってる」
陸が早口で言った。
「配信してるのは自分だから。見られてるのは自分だから。だから強くなるのも自分だって。……実際、ほとんど毎回そうだったんだよ。題名の主役が、ほとんど毎回『神崎』だったから。主役が神崎で、見られてるのも神崎で、強くなるのも神崎。ずれようがない」
「犬飼の回」
「そう。朝は、犬飼が野良だから、あいつ自身の力だったのかもしれないって思ってた。でも、今のあんたは手の中に何も借りてないし、自分で何かを使ったわけでもない。それなのに、見られてるときだけ速くて、画面から消えたら戻った。数字と一緒に上がって、カメラから外れたら落ちる。自分で使う力なら、画面に合わせて上がったり下がったりはしないだろ。……あの回だけ、題名の主役が犬飼だった。それで犬飼だけが人間じゃないみたいに強くなって、神崎はほとんど強くならなかった。配信が終わったら犬飼が倒れて、三日起きなかった。『その者が疲れ果てる』。犬飼が、その者だったんだよ」
十日前の夜、ネットカフェで陸が言いかけて、並べきれなかったもの。それが今は、一本の線になっていた。
「強くなるのは、自分じゃない。題名に書かれた主役だ」
「で、今日の主役は」
陸は画面の上の帯を指でなぞった。
「あんただ。……神崎が自分で書いたんだよ。区王殺しを売り物にするために。主役は配信を終えるまで変えられない。今日はもう、あいつは主役になれない」
「神崎は、気づいているのか」
「たぶん、まだ。あいつ、ずっとワゴンの中で喋ってるだけだから。自分で走ってないから、自分が強くなってないことに気づいてない。でも、出てきたら気づく。最後は自分で仕留めるって言ってたろ。出てきて、殴って、自分が普通の男のままだって分かったら――」
「配信を切る」
「切る。切ったら、あんたはただの怪我人に戻る。取り巻きが十人はいる。……あの人も、まだあっちにいる」
それから陸は、少しだけ目を伏せた。
「……それにさ。前にも、神崎が配信の途中で急に遅くなったこと、あったろ。歩道橋の――」
陸はそこで言葉を切った。俺の右手を、一瞬だけ見た気がした。
「……いや、いい。今は関係ない。あれは、まだ分かんない」
俺も訊かなかった。あと二分だった。
「切らせなければいい」
俺は言った。
「配信が続くかぎり、主役は俺のままだ。見ている人数が増えるほど、俺は強くなる。……広場に戻る。大型ビジョンの前に立つ。いちばん人が多くて、いちばん撮られる場所に」
「で、神崎が切ろうとしたら」
「切らせない。配信を出しているのは、どこだ」
陸は少し考えてから言った。
「神崎の乗ってるワゴンは、喋るための車。機材っぽく見えるけど、あれは見せ用。配信を外に出してるのは、別の中継車。あいつはワゴンからイヤホンで指示するだけ。配信を切るのも、どのカメラの映像を流すか決めるのも、中継車のスタッフ。屋上のカメラも、全部そっちに集まってる。前に配信の裏側を晒したやつがいて、そいつの書き込みだと、いつも東口の裏の、搬入口の路地に停めてる。……今日も、たぶんそこ」
「押さえられるか」
「俺一人じゃ無理。中に何人いるか分かんない」
陸はスマートフォンの連絡先を開いた。指が一つの名前の上で止まった。
「……呼ぶ」
呼び出し音は一回で切れた。
「見てるよ」
堂島の声だった。狭い階段の下では、スピーカーにしなくても聞こえた。
「新宿署の近くにいる。東口までは五分だ。……何をする気だ」
陸が手短に話した。主役のこと。中継車のこと。配信を切らせなければ、俺が強いままでいられること。それから、切れたあとのこと。強まった分だけ、あとで同じだけ来る。切れたとたんに俺が立っていられなくなるかもしれない。だから切るのは、神崎を押さえてからにしてほしい、と。
堂島はしばらく黙っていた。
「条件がある。黒瀬を、生きて帰らせる。神崎は、こっちで確保する。俺が手伝うのは、その二つのためだけだ。それ以外のことは、するな」
それ以外のことが何を指しているのか、堂島は言わなかった。言わなくても分かった。
「分かった」
「中継車は、俺と陸で押さえる。黒瀬は広場だ。……五分で行く」
電話が切れた。
〈あと一分でーす〉
スマートフォンから、神崎の声がした。画面の窓の中で、派手なシャツの一人が作業ズボンの男の縛られた手を掴んでいた。男が何か叫んだ。声は、まわりの笑い声にかき消されて聞こえなかった。
陸が俺の顔を見た。
「……あのさ。犬飼、三日起きなかったんだぞ。強くなった分だけ、あとで同じだけ。配信が終わってから来るのか、途中で来るのか、どれだけ来るのかも、俺には分かんない。あんた、今日これ以上強くなったら、終わったあとたぶん倒れる」
「倒れるのは、終わってからだ」
「それ、分かんないって言ってんだよ」
陸の声が尖った。
「だから一つだけ約束しろ。俺が『下がれ』って送ったら、何があっても搬入口のほうへ下がれ。中継車を押さえられなかったときも、あんたの動きが画面で遅くなったときも。判断するのは、中継車で画面を見てる俺だ。あんたじゃない」
坂の夜、十分を一分に変えさせたのも陸だった。
「……約束する」
「怖くないのかよ」
「怖い」
嘘ではなかった。坂の下で戻ってきた怖さは、今もちゃんと心臓を叩いている。広場に戻れば、四人どころではない人数が待っている。
「でも、行く。……今度は、背を向けない」
陸は何か言いかけて、やめた。それからパーカーのフードを被り直した。
「堂島さんが着くまで五分。車を見つけて押さえるまで、もう少しかかる。押さえたらすぐ送る。それまでは捕まるな。時間を稼げ。……あと、画面から消えるな」
陸は立ち上がりかけて、もう一度俺のほうを振り返った。
「あんたが主役だ。一番目立つとこに立てよ」
路地を来た道とは反対の側へ抜けた。
非常階段の下から出た瞬間、頭の上で誰かが叫んだ。ビルの屋上の縁に、スマートフォンを構えた人影が並んでいた。「いた」「出てきた」。声が屋上から屋上へ伝わっていく。
足が、軽くなった。
今度は興奮のせいだとは思わなかった。見られている。その分だけ、体が前へ出る。
広場へ戻る道は、人で塞がりかけていた。配信を見て、俺が逃げた方向へ集まってきた人たちだった。その人たちが俺の顔を見て道を開けた。開けて、そのままレンズを向けてくる。一人ずつ、一台ずつ。走りながら、その一つ一つが肌の上で数えられていくような気がした。
大型ビジョンの前に戻ったとき、画面の隅の数字は十八万を超えていた。
広場の真ん中で立ち止まった。頭の上に、自分の顔があった。ビルの壁一面の画面いっぱいに、三角巾で腕を吊った男が映っている。題名の帯が、その上を流れていた。
逃げない。隠れない。いちばん目立つところに、立つ。
陸が中継車を押さえる前に神崎が配信を切れば、俺はただの怪我人に戻る。野良のところへ行くのは、そのあとだ。今は、ここで撮られ続ける。
広場の南の端で、白いワゴン車の横のパイプ椅子が見えた。作業ズボンの男はまだそこにいた。指は五本ともそろっているように見えた。
〈出た、出た、出た!主役のご帰還でーす!……よかったね野良くん、指、全部残ったよ。じゃあ、続きいこうか〉
派手なシャツの男たちが、ワゴンのまわりから動き出した。今度は四人ではなかった。人垣のあちこちから、同じようなシャツを着た男が出てくる。八人。十人。俺を囲む輪が、外側から狭まってくる。
最初の一人が、正面から来た。大柄な男だった。右の拳を大きく振りかぶっている。
遅かった。
男の拳が引かれて前へ出てくる。その一つ一つが、水の中の動きのように見えた。半歩だけ横へずれて、男の手首を右手で後ろへ押しやった。力はほとんど要らなかった。男の体が自分の勢いに引かれてたたらを踏み、人垣の中へ倒れこんだ。
広場がどっと沸いた。
二人目と三人目が、左右から同時に来た。一人が俺の肩を掴もうとして、三角巾の布を掴んだ。左肩に、焼けるような痛みが走った。痛い。それでも体は止まらなかった。痛みを感じたまま、右の肘でその男の腕を弾いた。もう一人は、俺が体を沈めただけで、頭の上を通り過ぎていった。
殴り合いではなかった。俺は誰も殴っていない。来るものを外して、押しやっているだけだ。それだけで男たちは倒れた。俺が強いのではなかった。この広場と、画面の向こうにいる何十万人が、俺を強くしている。
四人目は来なかった。輪のいちばん内側にいた男たちが、足を止めていた。申し合わせたように後ろを振り返って、ワゴンのほうを見ている。指示を待っているのだと分かった。
それからが、長かった。
取り巻きは輪を崩さず、間合いの外から俺を囲んだまま動かなかった。一人がじりじりと詰めてきて、俺が一歩出ると、慌てて下がった。そのたびに広場が笑った。神崎の声も、しばらく降ってこなかった。
俺は大型ビジョンの下に立ったまま、撮られ続けた。背中の傷が脈を打つ。三角巾の中で左肩が鳴る。それでも、ここを動かない。画面の真ん中から外れない。それが今の俺の仕事だった。
大型ビジョンの横の時計が、広場へ戻ってきたときから五分、六分と進んでいく。陸からの連絡は、まだなかった。
ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。右手で取り出して、画面を一瞬だけ見た。陸からだった。
〈押さえた。銀色のバン。中に二人。堂島さんが話してる。切るのも映像もここ。広場のまま、止めない〉
大型ビジョンを見上げた。画面の中で、三角巾の男が大型ビジョンを見上げていた。映像は広場を映したままで、どこも切り替わらなかった。陸の一行のとおりだった。
足を止めた取り巻きのあいだを、歩いた。走らなかった。走らなくてもよかった。一歩ごとに距離が消えていく。十日前、この画面の中で、白いスーツの男がそうやって歩いていた。
パイプ椅子の前で止まった。
作業ズボンの男が俺を見上げていた。顔の片側が紫色に腫れている。二十代の半ばくらいだろうか。大型ビジョンで見たときより、ずっと若く見えた。
後ろ手に巻かれた結束バンドを、右手で掴んで引いた。細い樹脂が、糸のように切れた。
「……なんで」
男がかすれた声で言った。
「なんで来たんだ。あんた、俺のこと、知らないだろ」
「知らない」
男の腕を掴んで、椅子から立たせた。
「十日前、あんたが追われているのを画面で見ていた。見ているだけだった」
男は何か言おうとした。言わせなかった。
「行け。東口の裏の、搬入口の路地へ。銀色のバンのそばに刑事がいる。振り返るな」
男は一度だけ俺の顔を見た。それから、足をもつれさせながら、広場の東の出口へ走っていった。取り巻きの何人かが、その背中に目をやった。俺はそのあいだに立った。誰も、俺の前を越えて追おうとはしなかった。
カメラは、一台も男を追わなかった。
屋上のレンズも、人垣のスマートフォンも、全部が俺に向いたままだった。縛られて、殴られて、ようやく解かれた男が、人波のあいだを一人で逃げていく。それを見ているのは、たぶん俺だけだった。十日前、この広場の人たちはあの男が追われるのを見上げて沸いていた。今日は、あの男が助かるところを誰も見ていない。
広場じゅうが一瞬だけ静かになった。それから、さっきよりも大きく沸いた。画面の右側の文字が、読めないほどの速さで流れていた。その合間に、色のついた枠が一つだけ混じった。
〈SUMERAGI¥2,000,000〉
何に対する額なのか、今日も分からなかった。
白いワゴンの後部の扉が、内側から蹴り開けられた。
神崎が降りてきた。
画面で見ていたより背が低かった。白いスーツの袖を肘までまくり上げ、金の鎖が胸もとで揺れている。笑っていた。口元だけで。
「いやあ、やるねえ。区王殺しって、伊達じゃないんだ」
肉声だった。スピーカーを通した声より少しだけ高くて、軽かった。
「でもさ、主役は最後に狩られるもんなんだよ。……こんだけ見てれば、十分だろ」
神崎が地面を蹴った。
速かった。普通の男の速さとしては。喧嘩に慣れた男の、迷いのない踏み込みだった。右の拳がまっすぐ俺の顔へ飛んでくる。
それでも、遅かった。
その拳を、右の手のひらで受けた。受けて、握った。神崎の拳が、俺の手の中で止まった。
神崎の顔から笑いが消えた。
一瞬、何が起きたのか分からないという顔をした。それから左の拳を繰り出した。握った右の拳を少しだけ横へ引くと、神崎の体がそれにつられて傾き、左の拳は俺の肩の横を空振りした。
握っていた拳を離した。神崎は二歩、三歩とたたらを踏んで、ワゴンの車体に背中をぶつけた。
それから、自分の右手を見下ろした。開いて、閉じた。もう一度開いた。
「……は?」
神崎は頭の上の大型ビジョンを見上げた。画面の隅の数字を。三十六万。数字は増えている。それなのに、自分の手はさっきと同じ手のままだった。
神崎の目が俺に戻った。俺の顔と、三角巾と、握られていた自分の拳とを、順に見た。
「……お前、何した。俺の力に、何しやがった」
答えなかった。
神崎の顔から、血の気が引いていくのが見えた。何が起きているのか、この男にはまだ分かっていないようだった。神崎は自分の手と俺の顔を、何度も見比べていた。
「切れ」
神崎が耳に掛けた小さなイヤホンを指で押さえた。
「切れ。配信を切れ。今すぐだ!」
叫び声だった。広場の何人かがその声に驚いて、スマートフォンを下ろしかけた。
大型ビジョンは、消えなかった。
題名の帯は流れ続けていた。画面の中で、白いスーツの男がワゴンに背中をつけて叫んでいる。その姿が、そのまま何十万の画面に届いている。
「聞こえてんのか!切れって言ってんだよ!」
神崎の声が裏返った。イヤホンの先にいるのは、もうこの男のスタッフではなかった。配信は、止まらない。
「……おい。何やってんだよ。こいつ押さえろよ。全員でだよ!」
派手なシャツの男たちは動かなかった。さっき人垣の中に倒れこんだ男が、ようやく起き上がりかけて、そのまま尻もちをついていた。誰も前に出ようとしない。
画面の隅で、数字が四十万を超えた。
神崎のほうへ歩くと、神崎はワゴンの車体に背中を押しつけたまま横へ逃げようとした。その速さが俺には、止まっているのとほとんど変わらなかった。
右手で、白いスーツの襟を掴んだ。少し力を入れただけで、神崎の体が浮いた。十日前、この男が靴下の男にしたのと同じだった。そのままワゴンの車体に押しつけると、金属の板が神崎の背中の形にへこんだ。神崎の足は、地面から離れていた。
近くで見る神崎の目は、笑っていなかった。口元も、もう笑っていなかった。
「……俺の、力だぞ」
神崎が喉の奥から絞り出すように言った。
「俺が配信して、俺が見られて、俺が強くなる。ずっとそうだった。……なんで、お前が」
答えなかった。この男に教える理由はなかった。
頭の上で、題名の帯が流れていた。本日の主役。この男が自分の手で書いて、自分の手でもう変えられなくした文字だった。
ポケットの中で、スマートフォンが短く震えた。右手は神崎の襟から離せない。三角巾の中の左手を、肘から先だけ動かしてコートのポケットへ入れた。肩に力をかけないように、指先で画面を引き出す。左肩の奥が鈍く鳴った。
〈あの人、こっち着いた。堂島さんの車に乗せた。堂島さんがそっち行く。押さえとけ。それ以上は、すんな〉
助けた。
十日前に背を向けた男は、今、刑事の車の中にいる。今日ここへ来た理由は、それで終わったはずだった。息を一つ吐いた。神崎の襟を掴んだ右手から、ほんの少しだけ力が抜けた。
胸の奥のずっと遠いところに、重さのようなものを感じた。痛みではなかった。疲れでもなかった。まだ。ただ、そこに何かが積み上がっていく気配だけがあった。数字が跳ねるたびに、少しずつ。強まった分だけ、あとで同じだけ。いつ来るかも、どれだけ来るかも分からないと陸は言っていた。
倒れるのは、終わってからであってくれ。そう思うしかなかった。
神崎の足が、宙で弱く地面を探していた。
広場は静まり返っていた。誰も叫ばなかった。誰も動かなかった。何百ものスマートフォンが、俺と、俺の手の先にいる白いスーツの男に向けられていた。
大型ビジョンを見上げた。
三角巾で腕を吊った男が、片手で人を車に押しつけていた。画面の隅の数字は、五十万を超えていた。
画面の中の俺を、数十万人が見ていた。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




