第8章 崩壊①
人垣の向こうから、男が一人走ってきた。堂島だった。くたびれたコートの裾を翻して、息を切らしている。
「黒瀬!」
堂島は三歩ほど手前で足を止めた。肩で息をしながら、俺の手の先の白いスーツを見て、それから俺の顔を見た。
「あの人は無事だ。車に乗せて、陸がついてる。……もういい。勝負はついた。下ろせ」
助けた、と陸の一行を読んだときに思った。同じことが、今、別の口からもう一度届いた。
襟を掴んだ右手をゆっくり下げた。神崎の靴の底がアスファルトに触れ、膝が一度折れかけて、持ちこたえた。手は肩へ移して、車体に押さえたままにした。堂島のほうへ半歩、体を開いた。
「確保は、こっちでやる。手錠をかけたら、陸に配信を切らせる。今切ったら、そいつと取り巻きの前でお前が倒れるかもしれん。陸はそう見てる」
堂島はコートのポケットから手錠を出した。慣れた手つきだった。神崎の左の手首を取り、輪を一つかける。かちり、と乾いた音がした。
「右も出せ」
神崎は右手を出さなかった。かわりに、笑った。
口元だけの笑いだった。さっきまでの笑い方とは違った。負けを悟った人間が、それでも最後に一つだけ残しておこうとするような笑い方だった。
「……分かったよ。今日は、お前の勝ちだ」
かすれた声だった。肩を押さえる俺の手の下で、喉が動いた。
「でもさ、配信は、またやれるんだよ。題名も、また書ける。……次はさ、お前の隣にいた奴を主役にしてやるよ」
一瞬、何のことか分からなかった。
「パーカーの、懸賞金のかかってる小僧。既読とかいう野良だろ。知ってるよ。題名に名前を書いて、画面に顔を出して、新宿じゅうで追い回してやる。今度は最初から、俺が出ていく」
自分の配信で何かがおかしくなったことには、気づいているようだった。それでも、今度は最初から自分が出ていく、と言った。自分が出れば勝てると、まだ思っているらしかった。
画面の隅の数字は五十三万だった。その全部が、今の言葉を聞いていた。
「聞くな」
堂島が言った。神崎の右の手首を掴み、もう一つの輪を寄せる。
「黒瀬。手を離せ。あとはこっちでやる。……もういい。殺すな」
病室で堂島は言った。次に誰かを殺したくなったら、俺の前でやれ。止めてやる。そのとおりに、堂島は俺の前に立っていた。
手を離せばよかった。輪はあと一つだった。
だが、区王の件は書類が回らない。病室でそう言ったのも堂島だった。久世を殺した俺でさえ、逮捕どころか事件にもなっていない。神崎を連れていって、どれだけ留めておけるのか。一晩か。二晩か。そのあと神崎はまたカメラの前に立ち、題名に陸の名前を書く。
陸の顔は、もう懸賞金のサイトに載っている。そこに題名が加われば、陸はこの先、朝が来るたびに自分の名前がどこかの画面に流れていないかを確かめて暮らすことになる。それを、動かない書類と堂島一人の手に預けておけるのか。
預けられなかった。
坂の下で杭を握ったときとは向きが違った。あのとき許せなかったのは、過ぎた一年だった。今、手を離せずにいるのは、これから先の陸の朝のほうだった。
堂島の制止も、ポケットの中の陸の一行も、ちゃんと耳に届いていた。それ以上は、すんな。
「黒瀬」
堂島がもう一度呼んだ。二つ目の輪が神崎の右の手首に触れかけていた。
神崎が俺の手の下でまた笑った。
「ほら。お巡りさんも、そう言ってるぜ」
その笑い方を、俺は知っていた。十日前、画面の中で靴下の男を壁に叩きつけたあとの笑い方だった。この顔で、次は陸を追う。
肩を押さえていた手を、襟へ移した。
堂島が手錠から手を離し、俺の腕を掴んだ。全部の体重をかけて引いた。腕は少しも戻らなかった。その腕を、俺は車体へ押しこんだ。
五十三万人分の力だった。
音は一つだけだった。金属の板が内側へ深く折れる音。ワゴンの車体が神崎の背中の形に沈んだ。白いスーツの肩から、力が抜けた。
手を離すと、神崎は車体にもたれたまま、ずるずると地面へ座りこんだ。左の手首から、片方の輪だけをかけられた手錠がぶら下がっていた。金の鎖が胸もとで一度だけ揺れて、止まった。目は開いていた。頭の上の大型ビジョンを見上げる形のまま、動かなかった。
胸の奥に温度が流れこんできた。
覚えのある温度だった。坂の下で久世が死んだときと同じ。手のひらを通らずにまっすぐ胸の真ん中へ入ってきて、そこにあったもう一つの温度の隣に留まった。
二つ目だ、と思った。何の二つ目なのかは、分からなかった。
広場は音を失っていた。
誰も叫ばなかった。誰も沸かなかった。何百ものスマートフォンが、掲げられたまま止まっていた。画面の右側の文字の流れだけが、少し遅れて急に細くなっていった。〈え〉〈え〉〈え〉。それから、何も流れなくなった。
画面の隅の数字は動かなかった。五十三万。五十三万人が、今の一秒を見ていた。
堂島は俺の腕を掴んだまま、何も言わずに立っていた。その手が震えていた。
最初に気づいたのは、ビルの壁の文字だった。
大型ビジョンの下に掲げられた住所表示の板。〈新宿区新宿三丁目〉。その文字が揺れていた。
揺れているのではなかった。重なっていた。〈新宿区〉の三文字の上に、別の文字が浮かんで、沈んで、また浮かんでいる。〈中野区〉。〈渋谷区〉。〈豊島区〉。一つが浮かぶたびに〈新宿区〉が薄くなり、また濃くなる。
広場のあちこちで、同じものを見た人たちがいた。交差点の案内板。バス停の標識。商店の看板の住所。誰かが小さく悲鳴を上げた。それから、別の誰かが。
この一年、この街では、王に関わることは何もかも当たり前のこととして流れていった。王が人を追い詰めても、誰もおかしいと言わなかった。豊島の王が死んでも、ニュースにはならなかった。
今は違った。この広場にいる人たちは、何かを見た顔をしていた。少なくとも今だけは、誰もそれを見なかったことにできる顔をしていなかった。
大型ビジョンが暗くなった。
題名の帯が消えた。画面の隅の数字が消えた。黒い画面に、広場の人たちと俺の影だけが、わずかに映りこんでいた。
配信が終わった。誰が切ったのかは分からなかった。
その瞬間だった。胸の奥のずっと遠いところに積み上がっていたものが、一度に崩れ落ちてきた。
足から力が消えた。膝が折れた。止めようとした右腕にも、何も入っていなかった。さっきまで五十三万人分だったものが、全部、同じ重さの疲れになって、体の内側から俺を押し潰していく。背中の縫い目がいくつか弾ける感触があった。痛かった。痛いと思うだけの力も、もう残っていなかった。
アスファルトが、頬に冷たかった。
堂島が何かを叫んでいた。俺の名前だったのかもしれない。遠かった。
頬をつけた地面の奥から、低い音が上がってきた。音ではなかったのかもしれない。骨に直に伝わってくる、大きなものが身じろぎするような振動だった。
足元で、新宿が揺れた。
*
天井にバスケットボールのゴールがあった。
小学校の体育館だと分かるまでに、しばらくかかった。高い窓の外はもう暗かった。水銀灯の半分だけがついていて、床の上に並んだ簡易ベッドを白っぽく照らしている。
起き上がろうとした。体が動かなかった。
痛みだけのせいではなかった。痛みはある。背中の縫い目も、左肩も、ちゃんと痛む。それよりも重かった。腕も脚も、自分のもののはずなのに、どこにも力が通っていかない。指を一本曲げるのに、息を一つ吐くだけの時間が要った。
強まった分だけ、あとで同じだけ。五十三万人分だったものが、全部ここに来ている。
頭だけをゆっくり横へ向けた。
簡易ベッドが体育館の端から端まで並んでいた。足りないところには、青いビニールシートが敷かれている。そのどれにも人がいた。頭に包帯を巻いた男。腕を布で吊った女。毛布にくるまって母親の膝で眠っている子ども。スーツのまま壁にもたれて目を閉じている老人。数えようとして、やめた。
体育館の入口の脇に、ホワイトボードが立てかけてあった。マジックの大きな字が、ここからでも読めた。
〈十月十七日新宿駅東口周辺の揺れについて〉
どこかで携帯ラジオが鳴っていた。アナウンサーの声が、同じことを繰り返している。
〈……今日、十月十七日の午後、新宿駅東口を中心とする地域で、強い揺れを感じたという通報が相次ぎました。気象庁によりますと、この時間帯に、地震計には揺れは記録されていないということです。現場周辺では、避難しようとした人々が転倒するなどして……〉
地震計には、記録されていない。あの広場で、俺は骨でそれを感じた。ここにいる人たちも感じたのだろう。感じて、逃げようとして、倒れた。
体育館の奥で、小さなざわめきが起きていた。男が一人、ベッドのあいだを歩いていた。
墨染めの僧衣だった。剃った頭に、水銀灯の光が鈍く映っている。六十を過ぎているように見えた。足どりはゆっくりで、一つのベッドの前で立ち止まるたびに、腰を落としてしばらくそこにいた。左の手のひらには白い手拭いが巻かれていて、男は右の手だけを使っていた。
頭に包帯を巻いた男のベッドの前で、僧衣の男はその額にそっと右手を当てた。何かを唱えているようだった。声は、ここまでは届かない。
手が離れた。包帯の男が自分の額に触れ、それから包帯をほどきはじめた。隣のベッドの女が小さく声を上げた。ほどかれた包帯の下には、何もなかった。さっきまでそこを血が染めていたはずなのに。
僧衣の男はもう次のベッドへ移っていた。腕を吊った女の肩に右手を当てる。女が三角巾からそっと腕を抜いて、指を開いて、閉じた。泣きながら頭を下げていた。
俺は男の体を見ていた。額の傷は、男の額には現れなかった。女の肩を治したあとも、男が自分の肩をかばう様子は少しもなかった。傷が、ただ消えていく。どこへも行かずに。
「……台東の、お寺の王様なんだって」
隣の列で、子どもを膝に抱いた女が小声で誰かに言っていた。
「前に、テレビで見たことある。台東の王様だって、紹介されてた。ああやって、怪我した人を治して回ってるんだって」
噂でしかなかった。それでも、目の前で消えていく傷は噂のほうに重なっていた。この男も、どこかの区の――台東の、王なのかもしれない。
男が俺のベッドの前に来たのは、ずいぶんあとになってからだった。
近くで見ると、目尻に深い皺が刻まれていた。笑っていなくても、笑っているように見える顔だ。
「おや。目、覚まされましたな」
柔らかい言葉だった。この街の言葉ではなかった。
「どこか、痛むところは」
「……いい。俺は、いい。ほかの人を」
声がかすれていた。男は俺の顔をしばらく見ていた。それから、ゆっくりうなずいた。
「さいですか。……ほなら、ほかの方を先に診ましょう」
男が立ち上がりかけた。
「……あんたが消した傷は、どこへ行くんだ」
訊いていた。自分でも、なぜ訊いたのか分からなかった。
男は中腰のまま止まった。それから、目尻の皺を深くした。
「わしが、その場で引き受けとるんですよ。そういう力を、授かりましたもんでな」
男は自分の右手を、俺に見せるように開いた。皺の多い、ただの老人の手だった。傷は一つもなかった。
「ただ、痛みは感じませんでな。修行の賜物でしょう」
左の手のひらの手拭いに、俺の目が行った。男はそれに気づいたようだった。
「ああ、これは別です。今朝起きたら、こうなっとりましてな。ゆうべ、やかんでも触ったんでしょう。年を取ると、そそっかしいていけませんな」
男は笑った。今度は、本当に笑ったように見えた。
「どちらから、来たんだ」
「台東です。夕方のテレビで、新宿がえらいことになっとると聞きましてな。居ても立ってもおられんで、電車を乗り継いで」
台東。さっき聞こえた噂と、同じだった。
男は俺の三角巾と、背中の下で血の染みたシーツとを、一度だけ見た。何も言わなかった。それから、合掌するように右手を胸の前に立てて一礼した。
「ほんなら、またあとで。心が変わったら、呼んでください」
男は体育館の端まで、一つずつベッドを回っていった。そのたびに体育館のどこかで小さな声が上がった。泣く声だったり、笑う声だったりした。
ステージの下のシートのいちばん奥に、毛布を頭までかぶせられたものがいくつか並んでいた。僧衣の男は、その前で長いあいだ手を合わせていた。そこでは、手を当てなかった。
それを、俺は数えなかった。
夜が更けていった。水銀灯が半分から、さらに半分に落とされた。ラジオの音も、いつのまにか消えていた。
僧衣の男が入口の脇のパイプ椅子にゆっくりと腰を下ろすのが見えた。ホワイトボードの〈十月十七日〉の文字の下だった。男は美味そうに水を一口飲み、手拭いを巻いた左手と、何も巻いていない右手を、膝の上でゆっくりと重ねた。
誰に言うともない声が、静かな体育館に落ちた。
「今日は、ようけ診ましたなあ」
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