第8章 崩壊②
堂島が来たのは日付が変わる少し前だった。
体育館の隅にある俺のベッドのそばへ、パイプ椅子を一つ引きずってきて座った。くたびれたコートの肩に、埃が白く積もっていた。昼から一度も脱いでいないのだろう。しばらく何も言わなかった。
「起きられるか」
「……いや」
「なら、そのままでいい」
堂島は手帳を開いた。病室で見たのと同じ手帳だった。
「先に一つ。お前が連れ出した男は、生きてる。揺れのあと近くの避難所に移って、膝を擦りむいただけだ。ここへ来る前に、自分の目で確かめてきた」
「……そうか」
堂島はうなずいた。それ以上は何も付け加えなかった。それから手帳の次の頁をめくった。
「こっちは、今夜の時点の数だ。まだ変わる」
読み上げる、という声ではなかった。一つずつ置いていくような声だった。
「死者、九人。みんな、逃げる途中だった。階段の将棋倒しで四人。信号の消えた交差点で、車にはねられて二人。地下道の入口で、押し倒されて三人。負傷者は、百五十を超えた。台東の坊さんが、そのうちの半分以上を治していった。治っても、怪我をした事実は消えん。行方不明、十四人。……これは、まだ分からん。逃げて家に帰っただけのやつもいるだろう。だがな、揺れの最中に、新宿から中野の住所表示に変わった通りが何本かある。そこで見つかって運ばれた人間は、搬送の記録では見つかった場所が中野になってる。名前が分からんまま運ばれたのもいる。家族は新宿ではぐれたと問い合わせてくる。突き合わせても、つながらん。今、一件ずつ手で照らしてるところだ」
俺は天井を見ていた。バスケットボールのゴールの網が、少しだけ揺れていた。体育館で見たのは、ここにいる人たちだけだった。堂島の手帳には、ここにいない人たちが書いてあった。
「……配信は、陸が切った」
堂島が手帳から目を上げずに言った。
「中継車の連中から聞いた。あいつはモニターで全部見ていた。俺が手錠を片方かけて、止めて、お前が止まらなかったところを。……そのあと、自分で手を伸ばして、全部の画面を落としたそうだ。今は、別の避難所にいる。顔を見せるかどうかは、あいつに任せた」
何も言えなかった。
堂島は手帳を閉じた。
「配信を止めさせなかったのは、俺の判断だ」
俺は堂島の顔を見た。
「中継車を押さえて、映像を広場に向けたままにしろと言ったのは、俺だ。お前を生きて帰らせるには、それしかないと思った。神崎を押さえてから切らせる。その順番を決めたのも、俺だ。……それで、五十万を超える人間が、王が死ぬところを見た。見られたせいでああなったのかもしれん。だとしたら、俺にも責任がある」
堂島の声は少しも揺れなかった。自分の手帳に、自分の名前を書きこむような言い方だった。
「……あいつは、次に陸を狙うと言った。題名に名前を書いて、追い回すと。あんたが確保しても、どうせ――」
そこで、口が止まった。
その先を言えば、堂島に任せられなかった自分を、堂島のせいにすることになる。俺は自分で、その言葉を飲みこんだ。
「知ってる」
堂島は俺が黙るのを待ってからそう言った。
「全部、聞こえてた。あいつが何を言ったかも、お前が何を考えたかも、だいたい分かる。俺が同じ立場だったら、同じことを考えたかもしれん」
堂島は椅子の背にもたれた。パイプ椅子が小さく軋んだ。
「だがな。お前の前に、俺は立っていた。止めた。腕も掴んだ。お前には、それが聞こえていた。……聞こえたうえで、お前は手に力を入れた。陸のためだったかもしれん。だが、そこを選んだのは、陸じゃない」
言い訳はいくつも頭に浮かんだ。浮かんだそばから、どれも口に出せなかった。
「だが、殺すなと言った。殺したのはお前だ」
*
陸が来たのはそれから二時間ほどあとだった。
体育館の入口に、パーカーのフードを被った影が立っていた。しばらくそこに立ったまま動かなかった。それから、ベッドのあいだをまっすぐこちらへ歩いてきた。
「……動ける?」
「少しなら」
嘘ではなかった。夜が更けるにつれて、腕に、脚に、少しずつ力が戻ってきていた。背中は救護の看護師がガーゼを当て直してくれていた。立ち上がることはできた。歩くのは、誰かの肩を借りなければ無理だった。
「表示を見たい。広場で揺れてたあれが、今どうなってるか」
陸は少し黙ってから、「……橋からなら見える」と言った。
陸はそれ以上何も訊かなかった。俺の右腕を自分の肩に回して、体育館の外へ出た。
*
避難所の小学校から青梅街道までは、歩いて十分ほどだった。俺たちはその倍の時間をかけた。
陸が向かったのは、街道をまたぐ歩道橋だった。階段は途中で一度休んだ。陸は何も言わずに待っていた。
十月七日に二人で上った歩道橋だ。画面の中の靴下の男を、ここで見ていた。橋の真ん中あたりの床に、金属の鋲が打ちこまれている。新宿と中野。陸はその線の上に俺を下ろし、自分も隣に座った。
背中の縫い目を避けて、腰のあたりだけを欄干にもたせかけた。冷たかった。下を、車がまばらに流れていった。十七日はもう終わっていた。夜明けには、まだ遠かった。
「……切ったの、俺」
陸が言った。前を向いたままだった。
「堂島さんから聞いた」
「そっか。……手錠がかかるまで待つって、自分で言ったのにな。でも、無理だった。あれ以上、あんたが映ってるのを見てられなかった。五十万人に見せてるのが俺の手だって思ったら、無理だった」
答えられなかった。
陸は膝を抱えた。しばらく黙っていて、それから、少しだけ声を硬くした。
「……一つだけ言っとく。あんたが神崎を殺したの、俺のためだって思ってんなら、やめてくれ。俺は、頼んでない。それ以上はすんなって、送ったよな」
「……ああ」
「俺は、あれを認めない。久世のときも、今日のも」
陸は俺のほうを見なかった。前を向いたまま、それだけ言った。それきり、その話はしなかった。
それでも、陸は立ち上がらなかった。パーカーのポケットから水のペットボトルを出して、蓋を開けてから俺の膝の上に置いた。右手でも届くところに。それからまた、新宿のほうを向いて座り直した。
肩を借りて歩いたあいだも、頭の中をめくられる感じは一度も来なかった。今夜の陸は、俺の一分を読まなかった。
振り返ると、新宿の街が見えた。
歩道橋の東側の、ビルの壁の住所表示。交差点の案内板。街灯に照らされた、青い板の白い文字。〈新宿区〉の三文字が揺れていた。
〈新宿区〉が〈中野区〉になり、〈渋谷区〉になり、また〈新宿区〉に戻る。誰かが一枚ずつ板を差し替えているように、ゆっくりと、決まった順番もなく。戻ったときの〈新宿区〉は、前よりも少しだけ薄く見えた。
足もとの鋲の上で、手のひらに温度が来ることはなかった。線を越えてはいない。ただ、線の上に座っているだけだった。胸の真ん中には、温度が二つあった。坂の下で来たものと、広場で来たもの。並んで、静かに留まっている。
「なあ」
陸が新宿の明かりを見たまま言った。
「区王って、殺しちゃいけないもんなんじゃないのか」
すぐには答えられなかった。
分かっていることを、並べてみた。
坂の下で久世が死んだとき、胸に温度が一つ来た。あの夜、交差点の〈豊島区〉の案内板は、紙に押した判のようにくっきりと見えた。それから今日まで、豊島の住所表示が揺れたという話は聞かない。王のいない区で、人々は王のいる暮らしを続けていた。
広場で神崎が死んだとき、胸に温度がもう一つ来た。そして今、目の前で新宿の名前が揺れている。
そこまでは、この目で見たことだ。
その先は分からなかった。温度は二度来た。揺れているのは新宿だけだ。王の死が区を揺らすのだとしたら、豊島が揺れない理由が説明できない。揺らさないのだとしたら、目の前のこれが説明できない。五十万人が見ていたことが関わっているのかもしれない。それも、確かめようがなかった。
俺たちは、あいつを殺したんじゃない。あいつの望みを、叶えただけだ。
久世の最後の言葉が、また耳の奥で鳴った。澪の望み。区王たちが叶えたもの。その意味は、今夜もまだどこにもつながらなかった。
久世のときも今日も、殺すと決めたのは俺だった。どちらのあとにも、胸に温度が来た。分かっているのはそこまでだ。俺が殺すたびに、俺の知らないところで何かが変わっているのかもしれない。その何かに、まだ名前はつけられなかった。
「……分からない」
ようやく、それだけ言った。
陸は何も言わなかった。膝を抱えたまま、新宿の明かりを見ていた。立ち上がろうとはしなかった。
〈新宿区〉が、また〈中野区〉になった。
俺は、殺すたびに、何を壊しているんだ。
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