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【やり直し】王区 ~東京二十三区には二十三人の王が居る~  作者: 白川 透
第一部

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終章 港区へ

陸が呼んだタクシーで豊島の部屋まで戻った。


信号待ちのあいだ、運転手は一度カーナビの画面を指で叩いた。画面の隅の住所が〈新宿区〉と〈中野区〉のあいだを行き来していた。陸は後部座席でずっと窓の外を見ていた。アパートの前で俺を降ろすと、自分は降りなかった。


「……寝ろよ」


それだけ言ってドアを閉めた。テールランプが角を曲がるまで、俺は階段の手すりに掴まって立っていた。


*


部屋は出たときのままだった。


流しにマグカップが一つ。湿気を吸った新聞が玄関の内側に一部。部屋の隅に仕事用の鞄が口を閉じて置いてある。


坂の下に残してきた鞄だ。入院しているあいだに、堂島が病室へ届けてきた。中には巻尺と下げ振りと、使わなかった予備の杭だけが残っていた。使った一本は、戻ってこなかった。鞄を渡すとき、堂島はそのことについて何も言わなかった。動く日が来たら俺が来る、と同じ病室で言った男だった。


チェーンをかけた。靴を脱ぐのにずいぶん時間がかかった。布団にそのまま倒れこんだ。


体は重かった。避難所で目を覚ましたときほどではない。それでも腕も脚も、まだ自分のものになりきっていなかった。坂の下で戻ってきた眠気はあの夜から毎晩ちゃんと来ていた。


今夜は、来なかった。


胸の真ん中には温度が二つ並んでいた。どちらも静かだった。天井の染みを見ているうちに、窓の外の暗さが少しずつ薄くなっていった。


*


枕元でスマートフォンが震えた。


俺のほうだ。画面に十一桁の番号が光っている。登録のない番号だった。陸でも、堂島でもない。


震えは止まらなかった。五回。六回。心当たりはなかった。それでも指が動いていた。


「……はい」


向こうはすぐには何も言わなかった。息の音がした。遠くで車の走る音が一度だけ聞こえて、消えた。


「黒瀬玲司さん、ね」


女の声だった。低くて、落ち着いていた。こんな時間にかけたことを詫びる気配はなかった。


「誰だ」


「九条よ。港区の」


重かったはずの体を、いつのまにか起こしていた。


港区の王。あの二十三の名前の一つだ。壁に手をついて立ち上がり、机の引き出しを開けた。澪のスマートフォンの「23」を開く。参加者の一覧に、その名前はあった。九条静香。一年前にかけたときは、使われていないという音声しか返ってこなかった番号だ。今かかってきた番号は、それとは違っていた。


「……どうして、俺の番号を知ってる」


「あの子に聞いたの。ずっと前に」


あの子、と九条は言った。名前を言わなくても誰のことかは分かった。


「一年前、あんたにもかけた。使われていない番号だった」


「……そう」


短い返事だった。それから九条は少しだけ黙った。


「番号が生きていても、同じだったと思う。あなたには、今夜まで話せなかったから」


今夜まで。その言葉がどこにもつながらなかった。今夜あったことで思い当たるのは、新宿のことだけだった。


「配信、見たわ。……あなた、ひどい顔をしてた」


何も言えなかった。


訊くことは一年前から決まっていた。この画面の前で何百回も口の中で繰り返してきた。


「澪を殺したのは、あんたたちか」


今度の沈黙は長かった。


「あなたは、この一年、ずっとそれを訊いてきたのね」


「答えろ」


「……ねえ。あの子があの日まで何をしていたか、あなたは知ってる?」


知っている、と言おうとした。プリンの棚の前では十分迷って、最後は俺が指さしたのを買った。朝は「あと五分」と言った。十字路ではわざと逆を選んで、俺に止められるのを待っていた。


それから手の中の画面を見た。王なんてまだどこにもいなかった頃から、澪はこの二十三人とひとつのグループにいた。その理由なら、この一年何度も考えた。王たちの何かを知ってしまったのか。巻きこまれたのか。だから殺されたのか。どの答えでも、澪は何かをされた側だった。久世の最後の言葉を聞いてからも、俺が追っていたのは澪が何をされたのかだった。澪が自分で何をしていたのかを、正面から考えたことはなかった。


「……知らない」


「……でしょうね」


責める声ではなかった。黙っていたのは自分のほうだと知っている声に聞こえた。


口の中に久世の最後の言葉があった。あの夜から、眠りに落ちるたびに耳の奥で鳴っていた言葉だ。


「久世は、死ぬ前に言った。俺たちはあいつを殺したんじゃない、あいつの望みを叶えただけだ、と。……あんたも、同じことを言うのか」


電話の向こうで息を吸う音がした。


「……久世が、そう言ったの」


それきり、その言葉には答えなかった。そうだとも、違うとも言わなかった。


「電話だけで話せるようなことじゃないの。……あの子のことは、顔を見て話したい」


窓の外で新聞配達のバイクが角を曲がっていった。


「黒瀬さん」


九条が俺の名前を呼んだ。声が初めて、少しだけ柔らかくなった。


「白石澪について知りたいなら、港区へ来て」


すぐには返事ができなかった。


この一年、俺は王の門の前までしか行けなかった。一周忌の朝から今夜までに、王を二人殺した。死んだ者には、もう何も問い直せない。久世の一文も、久世本人には確かめ直せないまま残った。


あの一文が本当なのかどうかは、まだ確かめられていない。死ぬ間際の男が、そう言っただけだ。今できるのは、同じ一覧に名前のある別の誰かに訊くことだった。


その誰かが今、自分から話すと言っている。


部屋の隅の鞄に目が行った。使わなかった杭が口を閉じた鞄の中に入っている。その奥に、澪の字で〈地図〉とだけ書かれた小さな箱があった。ガムテープはいつか爪をかけたところだけ、まだ少し浮いている。


殺す以外に知る方法があるなら、試してみる。


「……行く」


電話の向こうで九条が小さく息を吐いた。


「待ってるわ」


通話が切れた。


着信の履歴に残った番号を登録した。名前の欄に、九条、とだけ打った。


窓の外が白くなっていた。どこかの部屋で目覚ましが鳴って、すぐに止まった。


訊くことは、もう一つではなかった。誰が澪を殺したのか。それと並んで、今夜初めて口にされた問いがあった。あの日まで、澪は何をしていたのか。


港区へ行く。

第一部完!第二部は一週間目安で更新します。


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