序章 一年前、港区
白石澪はプリンの棚の前から動かなかった。
夜の十時を過ぎたコンビニには客が二人しかいない。九条静香と、澪だ。九条は雑誌の棚の前で読みもしない同じ週刊誌を三度めくり直した。
「まだ?」
「待って。いま、大事なところだから」
澪は二つのカップを両手に持ち、交互に見比べていた。片方は焼きプリン。もう片方は上に生クリームが絞ってある。値段は三十円しか違わない。
「どっちでもいいでしょう」
「よくない」
澪は真顔で言った。それから焼きプリンを棚に戻し、また取った。
九条は腕時計を見た。店に入ってから十分が経っていた。
この子は今夜、重い話をしに来たはずだった。電話でそう言ったのは澪のほうだ。話したいことがある、静香さんの部屋で。九条はそのつもりで駅まで迎えに出て、そのつもりで黙って歩いてきた。
それなのに目の前にいるのは、プリンを決められない二十六歳の女だった。
「いつもはね」
澪が棚を見たまま言った。
「玲司が選ぶの。私が迷ってると、横から黙って片方を取って、レジに持っていっちゃう。だから、自分で選ぶの、慣れてなくて」
「それなら、両方買えばいいわ」
「それは、ずるい」
何がずるいのか、九条には分からなかった。分からないまま少しだけ笑った。
澪は結局、焼きプリンを一つだけレジに置いた。店員がスプーンを入れるかと訊くと、澪は「二つ」と答えた。
一つしか買っていないのに。
九条はそれについて何も言わなかった。言わなくても、誰と食べるつもりなのかは分かった。
自動ドアが開いて、九月の夜の湿った風が入ってきた。運河の匂いがした。
*
九条の部屋は芝浦の運河に面した古い倉庫の三階にある。一階と二階は空いたままで、階段を上るたびに足音が建物じゅうに響いた。
澪は部屋に入るなり焼きプリンを冷蔵庫に入れた。勝手を知っている動きだった。それから鞄を開け、使い込んだ折り畳みの紙を取り出した。
東京二十三区の地図だった。
テーブルには収まらない大きさで、澪はそれを床に広げた。紙はもう何度も開いては畳まれたらしく、折り目が白く擦り切れていた。
印刷された区境を鉛筆の細い線がなぞっていた。なぞる線はところどころで印刷の線から少しだけ外れ、また戻っていた。迷った跡のようにも、わざと外したようにも見えた。
そして線の上に小さな丸が打ってあった。九条は数えなかった。数えなくても、いくつあるかは知っていた。
丸の横に名前は書かれていなかった。
澪は床に膝をついて鉛筆を持った。港区と品川区の境のあたりで手が止まった。それから線の端を一本だけ、ほんの少し引き直した。
「まだ、直すところがあるの」
「ちょっとだけ。ここ、昔から気になってて」
澪の手元を見ていると、九条は大学の図書館を思い出した。あの頃も澪はノートの隅に線ばかり引いていた。講義の内容とは何の関係もない線だった。何を描いているのかと訊くと、澪はいつも「境目」とだけ答えた。
あの頃の線はただの癖だった。
いまは、そうではない。
九条は窓際に立ったまま、運河の向こうの灯りを見た。水面に映った灯りが揺れて、元に戻って、また揺れた。
「澪」
「うん」
「まだ、やめられるのよ」
鉛筆の音が止んだ。
澪は顔を上げなかった。自分が引いたばかりの線を見ていた。
「うん」
澪は言った。
「知ってる」
それきり黙って、また鉛筆を動かしはじめた。九条はそれ以上何も言えなかった。言うべきことはもう何度も言っていた。
*
地図を畳み終えてから、澪はようやく本題を口にした。
「静香さんに、一つだけお願いがあるの」
床に正座したまま、澪は九条を見上げた。さっきまでプリン選びで迷っていた顔と同じ顔だった。
「玲司には、何も知らせないで」
九条はすぐには答えなかった。
「何も、っていうのは」
「私が何をしてたかも、誰に会ってたかも。全部」
「それは、約束できないわ」
自分でも意外なほど、声が硬かった。
「あの人には、知る理由がある。あなたがいちばんよく分かってるでしょう」
「分かってるよ」
澪は少しだけ目を伏せた。
「だから、お願いしてるの」
窓の外を、運河を下る小さな船の音が通り過ぎていった。
九条は長いあいだ黙っていた。何も知らせないという頼みを、そのままの形で呑むつもりはなかった。
やがて九条は澪の前に腰を下ろした。
「約束する前に、全部言うわよ。いつもそうしてるから」
澪はうなずいた。驚いた顔ではなかった。この力を使う前に必ずそうするところを、九条はこれまでにも澪の前で見せてきた。九条がそう決めたのは、この力を手にした日のことだった。
九条は頭の中にある文をそのまま読んだ。
双方が合意した約束を、決して破れない契約にする。契約になるのは、自分が言葉にした内容だけ。契約は、定めた条件が満たされるまで解けない。自分もまた、自分が結んだ契約に縛られる。
「だから、あなたの言ったことは契約にならない。私が言ったことだけよ」
九条は一つ息を吸った。それから一語ずつ、自分の口で言った。
「分かった。区が一つでも壊れるまでは、玲司には何も知らせない。壊れたら、私が話す」
条件は澪に頼まれたものではなかった。九条が自分で足したものだった。この子の線がどこかで持たなかったとき、誰も何も知らないままでは、あの人があまりに報われない。
澪は返事をしなかった。
頭も下げなかった。ただ、鞄から手帳を出し、頁を一枚丁寧に破った。そこにさっき地図に線を引いていた鉛筆で数字を書きはじめた。
そのとき九条の胸の奥で、何かが閉じた。
音はしない。鍵を掛けたときの手応えに似ていた。この力を使うたびに九条が感じるものだった。約束が約束ではなくなった合図だ。
澪は書き終えた紙を二つに折り、九条の手に握らせた。
「壊れたら、これ」
電話番号だった。その下に小さく「玲司」とだけあった。
「たぶん、すぐには出ないよ。知らない番号、出ない人だから」
澪はそう言って少しだけ笑った。
「出るまで、かけてあげて」
*
澪は冷蔵庫から焼きプリンを出し、鞄にしまった。スプーンは二本とも外ポケットに差した。
九条は倉庫の入り口まで送っていった。階段を下りるあいだ、二人の足音は一つにはそろわなかった。
外はさっきより少しだけ涼しかった。
「駅まで送るわ」
「いいよ。すぐだし」
澪はそう言って左へ歩き出し、五歩で立ち止まった。それから振り返り、右を指さした。
「……こっちだった」
「そうね」
澪は笑って九条の前を通り過ぎた。いつもこうなのだろう、と九条は思った。いつもは誰かが横から正しいほうを教えているのだろう。
「じゃあ、また――」
九条はそこで口を閉じた。
また今度、と言いかけたのだった。
この力を手にしてから、九条はその言葉を使わない。何気なく口にした一言が相手の軽い返事ひとつで破れないものになるかもしれない。守れるかどうか分からない約束を、九条はもう口にしないと決めていた。
澪はその途切れた言葉に気づいたようだった。振り返って九条の顔を見た。
それから何でもないことのように手を振った。
「またね」
軽い声だった。コンビニの棚の前でプリン選びで迷っていたときと同じ声だった。
九条は答えなかった。答える代わりに、澪の背中が運河沿いの角を曲がるまでそこに立っていた。
握らされた紙はまだ手の中にあった。
翌年、区は一つ壊れた。
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