第1章 港区
田町の駅を出て、最初の一歩を踏んだ。
何も来なかった。
当たり前だ。豊島からここまで俺は電車で来た。乗り物の中で区境をいくつ通り過ぎても何も起きない。線を自分の足で越えたときにしかあの力は来ない。この力が来てから何度も確かめたことだ。
分かっていても、胸のどこかが来るはずのものを待っていた。
「肩、貸すか」
陸が言った。改札の前からもう三度目だった。
「いらない」
「そうかよ」
陸は俺から半歩だけ離れて歩いた。触れない距離だ。あの夜から陸はずっとその距離を守っている。
背中の縫い目が一歩ごとに引きつった。左の肩は腕を振ると痛むので振らずにいた。痛みがあることにまだ少しだけ驚く。坂の下で取り戻したものはどれも使い方を忘れかけていた。
十月二十日だった。
あの電話のあと九条はもう一度だけ連絡を寄こした。住所と、「歩けるようになったら」という一行。日付は書いていなかった。背中の糸が少し落ち着くのを待って、俺は昼過ぎに部屋を出た。陸は頼まれもしないのに最寄りの駅の改札で待っていた。
持ってきたものは多くない。澪のスマートフォンと、久世の最後の一文だ。あの一文を九条は電話で聞いて、そうだとも違うとも言わなかった。
海のほうへ歩くと運河に突き当たった。
水は動いているのかどうか分からない色をしていた。橋のたもとに小さなコーヒースタンドが出ている。陸はその前で足を止めた。
「試飲、いかがですか」
店先の若い男が紙コップを差し出した。陸は受け取って飲み、うん、とうなずいた。
「うまい。じゃあ、また今度、ちゃんと買いに来ます」
男の手が止まった。
列に並んでいた二人の客がそろって陸を見た。笑いかけていた女の顔から笑いだけが抜けた。
「……いつですか」
男が訊いた。声は丁寧なままだった。
「えっ」
「また今度、と、おっしゃいましたので。何日の、何時頃でしょう」
陸が俺を振り返った。助けを求める顔だった。俺は助け船を出さなかった。
「……じゃあ、帰りに。二時間後くらいに」
男はそれを小さなメモに書きつけた。それからようやく笑った。客たちも何事もなかったように列へ向き直った。
橋を渡りきってから陸が口を開いた。
「……何、今の」
「この区の決まりだろう」
「『また今度』って言っただけだぞ。どこの世界に、別れ際の挨拶で日時聞いてくるコーヒー屋がいるんだよ」
ここにいる。そう答える代わりに俺は後ろを振り返った。スタンドの男はもう次の客にコップを渡していた。その客は飲み終えると「ごちそうさまでした」とだけ言って立ち去った。また、とは言わなかった。
交差点で信号待ちをしている親子がいた。子どもが「帰ったら公園行こうね」と言うと、母親は少し考えてから「行けたらね」と答えた。
この街の人間は約束の形をした言葉をよけて話している。
*
九条の住所は運河に面した古い倉庫だった。
壁のペンキが潮風で粉をふいている。一階のシャッターは下りたままで、横の鉄の扉だけが少し開いていた。表札はなかった。
扉の前に宅配のトラックが止まっていた。運転手は荷台から小さな箱を下ろし、腕時計を見た。それから秒針を待つようにしばらくそこに立っていた。
扉の内側の時計が三時を打った。
その音と同時に運転手はインターホンを押した。
「三時のお届け物です」
箱を扉の内側に置くと、運転手は俺たちに軽く頭を下げてトラックへ戻っていった。「またよろしくお願いします」とは言わなかった。
「……三時ちょうどに届けるために、待ってたぞ、今の人」
陸が小声で言った。
「ああ」
扉の隙間の奥でコンクリートの階段が暗い上へ続いていた。
九条はこの一年、澪のことを知っていた。知っていて黙っていた。俺が二十三の番号にかけて回っていたあいだも。坂の上に花を置きに行っていたあいだも。
電話の声は言い訳には聞こえなかった。それでも信じる理由にはならない。
「行くぞ」
陸が先に階段に足をかけた。足音が建物じゅうに響いた。
三階の踊り場に扉が一枚あった。俺はその前で一度だけ息を整えた。
扉は叩く前に開いた。
「足音で分かるのよ。この建物、何でも響くから」
九条静香は扉を押さえたまま俺と陸を順に見た。
ニュースで見た顔だった。だが式典でテープにはさみを入れていた女より少し痩せて見えた。黒いシャツの袖を肘まで折り、髪は後ろで一つにまとめている。年は俺とそう変わらないように見えた。
「入って。……そちらは」
「久遠です。久遠陸」
陸が先に名乗った。「そう」とだけ言って九条は道をあけた。
部屋は広かった。倉庫の一フロアをそのまま住まいにしている。運河に面した壁が一面の窓で、水の照り返しが天井で揺れていた。物は少ない。本棚と古いテーブルと、椅子が四つ。冷蔵庫の低い唸りがどこかでしていた。
椅子を勧められたが俺は座らなかった。陸だけが一番端の椅子に浅く腰を下ろした。
「背中、まだ痛むでしょう」
「話を聞きに来た」
九条は俺の顔を見た。それから自分も座らずにテーブルの縁に手を置いた。
「あの子のことは、話すわ。ただ、その前に一つだけ約束してほしいことがあるの」
「ここは港区だ。約束という言葉がどういう意味か、来るあいだに見た」
「それなら話が早いわ」
九条は笑いもしなかった。
「先に言っておく。私は、まだあなたに話していないことがある。今日全部を話すつもりもない」
隠していることがあると自分から言う相手には初めて会った。この一年、王たちは門の前で俺を追い返すだけだった。
「新宿のことは、私も見た。……今、あの子のことも二十三人のことも全部話したら、あなたは聞いた順に区王のところへ行くでしょう。そうなったら、また区が壊れる。人が死ぬ」
言い返す言葉を探した。見つからなかった。坂の下にも新宿の広場にも、俺は自分の足で行った。
「だから、話し終えるまでは殺さないと約束して。そのかわり、私は最後まで話す。……約束する前に、全部言うわよ。私はいつもそうしてるの。知らないまま縛られるのは、不公平だから」
そして九条は書かれたものを読み上げるように、一字も歪めずに口にした。
双方が合意した約束を、決して破れない契約にする。契約になるのは、自分が言葉にした内容だけ。契約は、定めた条件が満たされるまで解けない。自分もまた、自分が結んだ契約に縛られる。
目の前の区王が自分の力を自分の口から全部言うのを聞くのは初めてだった。脅すための声ではなかった。契約書の下の小さな字を先に読み上げておくような声だった。
それでも俺は一つだけ知っている。区王の説明にはどこかに嘘が一つ混じっている。本人はそれがどこかを知らない。
「だから、私が言葉にしたことだけが契約になる。あなたが何を言っても、契約にはならない」
俺は何も言わなかった。
九条はそれを待たなかった。一つ息を吸って、一語ずつ置くように言った。
「私が知っている範囲で、あの子がなぜあなたに何も知らせなかったのか、最後まで話す。それまでは、区王を殺さないで」
窓の外を、運河を下る船のエンジン音が通り過ぎていった。
俺は答えなかった。頷かなかったし、首も振らなかった。答えを選んでいたわけでもない。久世のことを考えていた。神崎のことを考えていた。九人という数を考えていた。殺さないと約束できるほど俺は自分を信用していなかった。殺すと言い切れるほども、もう信用していなかった。
その何も選ばない沈黙の中で――
何かが、閉じた。
胸ではなかった。二つの温度は動かなかった。もっと外側だ。手首のあたりだった。目に見えない輪が両方の手首に沿って閉じたような感じがした。締めつけはしない。ただ、そこにある。
九条の肩から力が抜けた。
「……ありがとう」
小さな声だった。簡単には受け入れてもらえないと思っていた、という声に聞こえた。
ありがとう。何に対してだ。
俺は約束をしていない。口も開いていない。それなのに九条の説明にあった「双方が合意した」ものが俺の手首に嵌まっている。
言うべきかどうか一瞬だけ考えた。
言えばこの女は自分の力を確かめ直す。何が本当で何が嘘なのかを自分の手で試す。区王がそうやって自分の力を知っていくのは俺にとっていいことではない。それだけは坂の下と新宿で覚えた。
陸が端の椅子から俺を見ていた。何か言いたそうな顔だった。俺はそちらを見なかった。
俺は頷いていない。
九条はようやく椅子に座った。俺も座った。座るつもりはなかったが、背中がそう決めた。
上着の内ポケットから澪のスマートフォンを出した。ロックを解いてテーブルに置く。「23」。参加者の一覧。その中に九条静香の名前もある。
九条は画面を見ても驚かなかった。
「あの子が作ったグループよ。何かを話すための場所じゃなかった。誰が何人いるのか、全員に分かるようにしておくための場所」
「王なんて、まだどこにもいなかった」
「ええ。……あの子は、二十三人全員を知ってたわ。王になる前の私たちに、一人ずつ会いに行ってた」
「見たのか」
九条は少しだけ間を置いた。
「私のところへ来たのは、見てる。私もその一人だったから。ほかの人のところへ行ってたのは、あの子からそう聞いただけ」
「澪はあんたに何をしに来た」
「最初は、話を最後まで聞かずに帰したの」
九条はテーブルの木目を指でなぞった。
「何を言いに来たのか、途中で分かったから。分かったから、聞きたくなかった。……三日後に、また来た。雨の日だった。傘も差さずに、地図だけはビニール袋に入れて胸に抱えてた。靴下まで濡れてるのに、袋の中の地図は一滴も濡れてなかった。……そういう子だったでしょう」
そういう子だった。
澪は自分が濡れるのは平気なくせに、紙が濡れるのを嫌った。雨の日に本屋の袋を二重にしてもらうのはいつも澪のほうだった。そのくせ傘はよくどこかに置いてきた。
「それからも何度も来たわ。そこの床に地図を広げて、線を引いてた。私が仕事をしているあいだ、何時間でも」
九条の視線が窓際の床へ動いた。そこには何もなかった。
「最後に来たのは、あの夜のひと月くらい前。九月の、まだ蒸し暑い夜だった。駅まで迎えに出たら、途中のコンビニでプリンを十分も迷って、結局一つしか買わなかった。それなのに、スプーンは二つもらってた」
九月のはじめに、遅く帰ってきた澪が鞄から焼きプリンを一つ出した夜があった。スプーンは二本ともテーブルにきちんと並べてあった。どこに行ってた、とその夜の俺は訊かなかった。半分ずつ食べた。
その夜、澪はこの部屋にいたのかもしれない。
「その夜に、頼まれたの。『玲司には、何も知らせないで』って」
天井で水の光が揺れていた。
その言葉を頭の中で繰り返した。澪の声で。玲司には、何も知らせないで。
どこに行ってた。玲司には関係ない。
最後の夜の声と、同じ声だった。
「俺にだけか」
「あなたに、よ」
九条はそこだけははっきりと言った。
「頼まれたから、黙ってた。それだけよ」
それだけ、と言うときに九条は俺ではなくテーブルの縁を見た。
「電話であんたは、今夜まで話せなかった、と言った」
「ええ」
「話せなかったのか。話さなかったのか」
九条の指が木目の上で止まった。
「……契約で縛ってたから、話せなかった。でも、そのままでは呑めなかったの。だから条件を足した。区が一つでも壊れるまでは、何も知らせない。壊れたら、私が話す。……あの子に言わされたんじゃない。その言葉を口にしたのは、私よ」
頼まれたのは、何も知らせないことだけだった。期限を決めたのはこの女だ。
「区が壊れなかったら」
「ずっと黙ってたでしょうね」
九条はそれ以上言い訳をしなかった。
九条は立ち上がり、本棚の引き出しから小さな紙を取ってきた。
手帳から破った頁だった。二つに折られた跡が白くなっている。九条はそれをテーブルの上で俺のほうへ滑らせた。
鉛筆で十一桁の数字が書いてあった。俺の番号だ。その下に小さく「玲司」。
澪の字だった。
澪は司の字の最後の縦線をいつも少しだけ長く引く。俺の名前を何百回とそう書いていた。冷蔵庫のメモにも、宅配の不在票の裏にも。
「『壊れたら、これ』って、渡されたの。『たぶん、すぐには出ないよ。知らない番号、出ない人だから。出るまで、かけてあげて』って」
あの明け方、俺は震え続ける着信を六つまで数えてから出た。
紙に触れようとしてやめた。触れたら鉛筆の粉が指に移って、澪の字がいつか消えてしまう気がした。
出るまで。
澪は俺が知らない番号に出ないことを知っていた。区が壊れるまで俺には何も届かないことも、その日まで俺が何も知らずに待つことも、承知でこの紙を書いた。待ったのは、結局一年だった。
腹が立った。紙を握りつぶしたいほどだった。その同じ手で俺は紙の端にも触れられずにいた。
「……なぜ、止めなかった」
自分の声が思ったより低く出た。
「澪が何をしていたのか、あんたは知ってたんだろう。知っていて、なぜ止めなかった」
「止めたわ」
九条はすぐに答えた。
「何度も。『まだ、やめられるのよ』って。あの子は、そのたびに『知ってる』って言った」
それは澪の言い方だった。俺が何かを注意すると、澪はいつもそう言って、それから好きなようにした。
好きにしろ、と俺は言った。あいつは、好きにした。
電話で一度伝えた一文をもう一度ここで言う気はなかった。九条も忘れてはいないはずだ。
「久世の言った、あいつの望み、のことだ。あんたが自分の目で見たことと、澪から聞いたことと、あんたがそう思っているだけのことを、分けて言ってくれ」
九条は少し目を細めた。俺を測るような目だった。
「見たのは、あの子がこの部屋に来て、地図を広げて、私に頼みごとをしたこと。自分の足で来て、自分の口で頼んだ。誰かに言わされてる顔じゃなかった」
「聞いたことは」
「二十三人に会いに行ってること。……ほかの人に何を頼んだのか、電話で少し聞いたこともある。でも、あの子がそう言っただけよ。本当にそう頼んだのか、私は見てない。中身は、今は言わない」
「久世の言葉は」
「あの男が何のつもりで『望み』と言ったのかは、私には分からない。あの子が自分で何かを望んで、自分で動いてたのは、私が見たことと合ってる。そこまでなら、私は否定しない」
「その先は」
「その先は、私がそう受け取ったっていうだけ。……鵜呑みにしなくていいわ。合ってるかどうか、ほかの誰かと突き合わせてくれていい」
テーブルの上で九条の携帯が震えた。
画面が上を向いていた。着信の画面に若い男の顔写真が出ている。笑った顔だった。名前の欄には一文字だけ。「皇」。
九条は携帯をテーブルに伏せた。震えはしばらく続いてから止んだ。
「渋谷の皇よ」
九条はそれだけ言った。それ以上は言わないという声だった。
「……あの」
端の椅子から陸が口を開いた。
「その二十三人の中に、澪さんを……その、やったやつは、いるんですか」
九条は陸のほうを見た。長くは見なかった。
「その問いには、今は答えないわ」
「答えられないんじゃなくて?」
「答えないの」
陸は俺を見た。俺は九条を見ていた。
「あいつは何をしようとしていた。あんたは知ってるのか」
「知ってる」
九条は迷わずに言った。それから、同じ速さで続けた。
「でも、今は言わない」
「契約があるだろう」
「契約で話すと約束したのは、あの子がなぜあなたに何も知らせなかったのか。あの子が何をしようとしていたのか、じゃない」
九条は俺の前に置いた紙を見た。澪の字を。
「私が話せば、あなたは私の言葉であの子を決めてしまう」
「それを決めるのは、あんたじゃない」
九条は答えなかった。目を逸らしもしなかった。答えないと決めている顔に見えた。
九条が話すと約束したのは、澪がなぜ俺に知らせなかったのか、それだけだ。いつ話すかもこの女が決める。ここで問い詰め続けても、出てくるのは九条が選んだ順番の話だけだろう。
九条の手の届かないところに残っているものが要る。
「澪がいつ、誰に会ったのかは」
「知らない。あの子は順番までは話さなかった。日付も。私が知ってるのは、ここまで」
「なら、澪の足取りを記録している人間はいるか」
九条は少し考えた。
「中央の天城。日本橋の、古い質屋の跡で店をやってる。何にでも値段をつける人よ。あの子のことにも、たぶん値段をつけてる」
俺は紙を上着の内ポケットにしまっていた。いつしまったのか、覚えていなかった。九条はそれを見ていて、何も言わなかった。
外は日が傾きはじめていた。
来た道を運河沿いに戻った。
橋のたもとのコーヒースタンドがまだ開いていた。さっきの男が店を片づける手を止めてこちらを見た。
陸はわざとらしいほど大きなため息をついて、カウンターの前に立った。
「……約束どおり、買いに来ました」
「お待ちしていました」
男は本当に嬉しそうに笑った。メモの紙を一枚丁寧に破ってゴミ箱に捨てた。
陸は二つ買って、一つを俺に差し出した。受け取るとき指が触れないように、陸はコップの底を持っていた。
「……なあ」
橋を渡りながら陸が言った。
「お前、さっき何も言ってなかったよな」
俺は答えなかった。
「あの人が『区王を殺さないで』って言ったとき。お前、頷いてもないし、『ああ』も言ってない。俺、ずっと見てたんだよ」
「……ああ」
「でも、あの人は『ありがとう』って言った」
陸はそこで言葉を切った。続きは訊かなかった。
橋を渡りきったところで俺は足を止めた。
肩から下げた鞄に右手を入れた。仕事用の鞄だ。坂の下に残してきたのを堂島が病院へ届けてくれたもの。底のほうに使わなかった予備の杭が何本か横たわっている。
一本を握った。
鉄の冷たさが掌に馴染んだ。この重さは知っている。坂の下でも広場でも、これと同じものを握っていた。
目を閉じた。
九条の携帯に出ていた写真を思い浮かべた。笑っている若い男の顔だ。皇という名前とあの顔しか知らない。何をしたのかも知らない。ただ、区王だ。その胸に、この杭を――
指が閉じなかった。
握っていたはずの手がいつの間にか開いていた。杭は掌の上に載っているだけだった。もう一度握ろうとした。指は曲がった。だが杭の胴に届く手前で、それ以上どうしても曲がらなかった。
痛みはない。痺れもない。力が抜けたわけでもない。鉄の冷たさも重さも、掌にはちゃんと届いている。ただ、そこから先へ手が行かない。引き出しの奥に形のない止め金があるみたいだった。
手首の輪がそこにあった。
目を開けて、今度は何も思い浮かべずに握ってみた。指はなんなく杭の胴を包んだ。重さが普通に手の中に収まった。
握れないのではない。殺すためには握れないのだ。
「……玲司」
陸が半歩の距離から俺の手元を見ていた。その手が俺のほうへ伸びかけて、途中で止まっていた。
「契約、成立してたのか」
「ああ」
「……お前、頷いてないのにか」
「ああ」
陸はしばらく黙っていた。それからコーヒーを一口飲んだ。
「あの人に、言わなかったんだな」
「言えば、あの女は自分の力を試す」
「……そっか」
陸はそれ以上は突っ込まなかった。代わりに少しだけ声を落とした。
「でもさ。……殺さなくて済むなら、それでいいんじゃねえの」
俺は答えなかった。答えを持っていなかった。
田町の駅が見えてきた。
歩きながら九条の契約を頭の中で分けてみた。測量のとき境界の文書を読むように。
約束の中身は、澪がなぜ俺に何も知らせなかったのか。あいつが何をしようとしていたのかまでは入っていない。それを話し終えるまで俺は区王を殺せない。
首輪だ、と思った。鎖の端を九条が握っている。
内ポケットの上から紙の角に触れた。澪の字だ。俺の名前の少しだけ長い縦線。
出るまで、かけてあげて。
腹が立つのは変わらなかった。それでも紙をしまった場所から手を離せなかった。
中央の天城。何にでも値段をつける人間。そこにあるのが九条の選んだ順番ではなく、記録に残った順番なら、俺はそっちを先に見る。
改札の前で陸が振り返った。
「また来るぞ。……って、ここで言うと、日時聞かれるのかな」
笑うつもりはなかった。それでも口の端が少しだけ動いた。
電車を待ちながら、線路の向こうの暗くなりはじめた空を見ていた。
澪が一年前に歩いた道を、俺はまだ一歩も知らない。
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