第2章 価値①
「あんた、今日は七百円だね」
日本橋の駅を出て五分も経たないうちだった。
大通りを一本入ったところの古い乾物屋の前だ。店先で箱を並べていた老人が顔も上げずにそう言った。それからようやく俺を見て、片方の眉だけを上げた。
「……いや、七百もいかないか。申し訳ない」
謝る声ではなかった。天気の話をするときと同じ声だった。
「……どうも」
俺はそれだけ言って通り過ぎた。
十月二十二日だった。背中の引きつれは少しだけましになっていた。今日も電車で来た。電車で通り過ぎた区境ではやはり何も来なかった。
「……七百円ってなんだよ」
半歩後ろで陸が小声で言った。
「この区の挨拶だろう」
「挨拶で値段つけられたんだけど、お前。しかも値切られてたぞ」
九条が教えたのは、日本橋、古い質屋の跡、天城。それだけだった。この区の人間が何をするかまでは言わなかった。
来たら、分かった。
通りはどこも値段でできていた。
店の定価のことではない。人の口から出る値段だ。サラリーマンが取引先らしい男と街角で行き合うと、互いに「三千」「いや、そちらは五千」と言い合ってから頭を下げた。保育園の前で年配の女が孫らしい子どもの頭を撫でながら「あんたは今日も一万円」と言った。子どもは当たり前のようにうなずいた。
値段は服や持ち物で決まっているのではないらしい。上等なスーツの男に「八百」と言う店主もいたし、素足にサンダルの若い配達員が「二万」と呼ばれて照れていた。その配達員はこの通りの店の半分で名前を呼ばれていた。
この値段はその人間がどれだけ大事にされているかで決まっている。少なくとも、俺にはそう聞こえた。
「俺は?」
陸が訊いた。訊かなくていいのに、と俺が思うより早く、たばこ屋の前でシャッターを拭いていた女が振り返った。
「あら。あんたは……三千五百。いいお友達がいるんだね」
陸は何とも言えない顔をした。喜んでいいのかどうか決めかねている顔だ。
「……いいお友達って、お前のことかな」
「知らない」
「お前、七百円以下なのに。……後で詳しく聞こう」
陸の足取りが少しだけ軽くなった。俺は自分の値段に特に何も感じなかった。この一年、俺を大事にしていた人間はたぶんこの街には一人もいない。それは七百円よりずっと前から知っていた。
*
天城の店は日本橋川に近い裏通りにあった。
古い質屋の建物をそのまま使っている。黒い土壁に、格子の入った小さな窓。入り口の上には色の褪せた丸に「質」の一字が残っていた。その下に新しい木の札が一枚。「何でも値踏みいたします」。
扉を開ける前に一度だけ上着の内ポケットに触れた。紙の角が指に当たった。
店の中は外より二度ほど冷えていた。
土間の奥に一段高い帳場がある。壁一面の棚に壺や時計や古いカメラが並んでいた。どれにも小さな札が下がっていて、数字が書いてある。同じような壺に三千円と三十万円の札が並んでいた。
帳場には人が一人座っていた。
年の分かりにくい顔だった。和服の上に大きすぎる灰色のカーディガンを羽織っている。細い指に指輪が三つ。声は低くも高くもなかった。
「いらっしゃい」
天城遥は帳簿から顔を上げずに言った。それから筆を置いて、俺を頭の先から足元まで眺めた。品物を見る目だった。
「……区王殺しだね。値段は」
天城はそこで少しだけ首を傾げた。
「つけにくい。つけにくいものは、たいてい高いか、ゼロかのどっちかだ。あんたは……どっちだろうね」
「白石澪の足取りを、買いに来た」
天城の指が帳簿の上で止まった。
「……ああ。九条のところから来たのか」
「そうだ」
「だろうね。あの子のことをここで訊く人間は、九条に聞いた人間だけだ」
天城は帳場の横の飾り棚に目をやった。そこには札を下げていない物が一つだけあった。古い鉄の懐中時計だ。蓋に細かい唐草が彫ってある。
「あの子はね、自分の値段を聞かなかった、ただ一人の客だよ」
「……」
「うちの店に来た客は、みんな聞きたがる。自分がいくらか。だがあの子は、こっちが口を開く前に自分でこう言った。『私の値段は、言わないでください』ってね」
天城の口元が少しだけ緩んだ。
「そのあと、あの子は三週間この店に通った。買いに来たのは、人の居場所と、会うための段取りだ。誰がいつどこにいるか。誰に、誰を通せば会えるか。そういうものを少しずつね」
「それを、帳簿につけているのか」
「一度売ったものは、全部つけている。商売だからね」
「いくらだ」
俺は訊いた。鞄の中には口座から下ろしてきた金があった。仕事を休んだこの一年で目減りした貯えの、残りのほとんどだ。
「金じゃない」
天城はあっさりと言った。
「あの子の三週間は高い。あんたの口座にあるものじゃ、足りない。……その代わり、あんたが持ってるもので、一つだけ高いものがある」
「何だ」
「あんたの、存在の価値だよ」
壺の値段を言うときと同じ声だった。
「人があんたをどれだけ重んじるか。その値を、一晩だけ下げさせてもらう。明日の朝、ここでもう一度触れて戻す。それで、あの子の三週間を売ろう」
「ちょっと待てよ」
陸が土間の端から口を挟んだ。
「存在の価値って何だよ。下げたら、こいつどうなるんだ」
「さあ」
天城は本当に知らないという顔で肩をすくめた。
「それを一晩、味わうのが代金だ。……安心しな。死ぬようなもんじゃない」
それから天城は指輪の光る手を帳場の上に置いた。
「取引の前に一つだけ言っておく。うちは値付けに嘘を混ぜない。だから、手の内も見せる」
触れた物の価値を見定め、上げ下げできる。価値とは、人がそれをどれだけ重んじるかである。変えた価値は、自分がもう一度触れて戻すまで続く。上げた分だけ、自分の持ち物のどれかの価値が下がる。
「下げる分には、代償はいらない。戻すときには、こちらがちょっとだけ払う。それも値段のうちだ」
物の価値、と天城は言った。それなのに、俺の「存在」に値をつけようとしている。俺はそのことを口には出さなかった。
「いいだろう」
「玲司」
陸が俺の名前を呼んだ。俺は陸を見ずに帳場の前まで歩いた。右手の甲を上にして差し出した。
一晩。それで澪の三週間が手に入るなら、安い。この一年、俺はどうせ誰からも重んじられていなかった。
天城の指が俺の手の甲に触れた。
冷たい指だった。それだけだった。痛みも、痺れもない。胸の温度も、手首の輪も、動かなかった。
ただ、土間の端に立っていた陸の視線が俺の上からすっと滑って、棚の壺のほうへ移った。
天城は帳簿を三度めくって、筆である行を示した。
「九月十四日。品川。鷲尾衛」
読み上げる声は仕入れの記録を読むのと変わらなかった。
「九月二十四日。目黒。不破剛。……それから、十月二日。千代田。御厨宗一郎」
天城はそこで筆を止めた。
「それが、あの子の最後の注文だ。十月二日に御厨と会う段取りをつけて、それきりこの店には来なかった」
十月二日。
澪が消えたのは十月四日の夜だ。その二日前だ。
「澪は、その三人に本当に会えたのか」
「それは売ってない。うちが売ったのは段取りまでだ。当日あの子がそこへ行ったか、何を話したかは、うちの帳簿にはないんだ」
天城は帳簿を閉じた。それから独り言のように付け足した。
「ただ、あの子が自分の手で書いた何かを残していったとしたら、最後に段取りをつけた相手のところじゃないかね。こういう商売をしてると、そういうもんだと分かる」
品川。目黒。千代田。
三つの区の名前を頭の中の地図に置いた。測量で何度も歩いた線だ。品川と目黒は隣り合っている。千代田だけが少し離れている。
帳簿にあるのは段取りだ。澪がその日本当にそこへ行き、誰に会い、何を話したのかは書いていない。御厨のところに何かが残っているというのも、この人間の勘だ。
それでも、九条の口からは出てこなかった日付が三つ帳簿の上に並んでいた。
俺の値段は一晩で澪の足取り三つ分だった。
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