第2章 価値②
店を出たのは陸のほうが先だった。
格子戸を開けて、通りに出て、そのまま駅のほうへ歩き出した。振り返らなかった。いつもなら半歩後ろにいるはずのやつが俺より十歩先を歩いていた。
「陸」
呼んだ。陸は足を緩めなかった。一瞬だけ肩がこちらへ向きかけた。それからどうでもいい物音を聞いたときのように、また前を向いた。
追いつこうとして背中の縫い目が引きつった。走れない。陸の背中が人混みに紛れていくのを俺はただ見ていた。携帯で陸の番号を呼び出した。呼び出し音は八回鳴って、留守番電話に切り替わった。短いメッセージも送った。返事は来なかった。
長くは歩けそうになかった。一番近い喫茶店に入って座り、陸からの返事を待つことにした。そこで何が起きているのか分かった。
店員は俺を見た。たしかに見て、小さく会釈もした。それから後から入ってきた二人連れに水を運び、その奥の席にも水を運んだ。手を上げると「少々お待ちください」と愛想のいい声が返ってきた。十分後にも同じ声が返ってきた。俺は水一杯も飲まずに店を出た。出口で「ありがとうございました」と頭を下げられた。
見えていないのではない。見えていて、後回しにされている。それも底のない後回しだ。
背中の傷に当てるガーゼが切れていた。ドラッグストアで棚から一箱取ってレジに置いた。店員は箱を見て、俺を見て、それから隣の列の客のほうへ体を向けた。千円札をトレイに置いて待った。釣りはいつまでも来なかった。札はトレイに載ったまま、次の客の小銭がその上に重ねられていった。箱だけを持って店を出ても、誰も呼び止めなかった。
人のいる窓口では、たぶん何も頼めない。今夜の宿も一人では取れないかもしれない。それより先に陸を見つけなければならなかった。携帯はまだ鳴らなかった。
交番の前で足を止めた。十代の終わりくらいの若い男が一人で駅のほうへ歩いていかなかったか、と訊いた。若い巡査は「はい」と顔を上げ、俺の問いを最後まで聞いた。そこへ財布を落としたという女が入ってきた。巡査は「少しお待ちください」と俺に言って、女のほうへ向き直った。その次に来た、自転車の鍵をなくしたという学生のほうにも向き直った。俺は巡査の背中にもう一度だけ同じことを訊いて、交番を出た。返事は背中からも来なかった。
この区の人間は人に値段をつけて挨拶をする。今の俺には誰も値段を言わなかった。七百円とも、ゼロとも。
天城の説明には「触れた物」とあった。俺は物ではない。それでもこの街の人間は俺を重んじなくなっている。それをあったこととしてだけ頭の端に置いた。意味を考えるにはまだ数が足りない。
*
陸を見つけたのは日本橋の駅の入り口だった。
改札の前で陸は携帯を握って立ち尽くしていた。画面を見て、顔を上げて、また画面を見る。何かが足りないと感じているのに、何が足りないのか分からない顔に見えた。
俺は陸の真正面に立った。
陸の目は俺の肩をすり抜けて、後ろの時刻表を見た。
「……あれ」
陸が小さく言って一歩前に出た。そして、俺にぶつかった。
肩が胸に当たった。その瞬間、陸の顔が変わった。何かにぶつかった、という顔ではなかった。ここに何かがあるはずだ、という顔だった。
陸の指が俺の上着の袖を掴んだ。
「……玲司、だよな」
声が少し震えていた。
「分かんねえ。……確かめる。これしか思いつかねえ」
袖越しに陸の指の力が強くなった。その一瞬、頭の奥を薄い指で一度だけなぞられたような気がした。気のせいだと思えるくらいの短い感触だった。
陸の視線が一瞬だけ遠くなった。それから顔から血の気が引いていった。
「……俺、お前を置いてったのか」
陸が読めるのは俺の直前の一分だ。改札の前で真正面に立った俺を陸の目がすり抜けていく一分。俺の目に映っていた、俺を見ない自分の顔。それだけで何が起きたのかは分かったのだろう。
「……悪い」
「お前のせいじゃない」
「そういう問題じゃねえよ」
陸は袖から手を離した。それから鞄を探ってボールペンを出し、自分の左の掌に何かを書いた。
「玲司は横にいる」
「……何だ、それ」
「忘れそうになったら、見る」
陸は掌を握りこんだ。
「……ん。俺、さっき何か言おうとしてたっけ」
陸は首をひねって、握った拳でこめかみを軽く叩いた。
「まあいいや。大したことじゃねえだろ」
*
その夜は日本橋のネットカフェで過ごした。明日の朝、天城の店に戻らなければならない。
受付は陸が二人分を済ませた。俺が一人でカウンターに立っても、たぶん朝まで「少々お待ちください」だった。
隣のブースに入る前、陸は携帯に何かを短く打ち込んでいた。何を書いたのかは訊かなかった。
薄い仕切りの向こうで陸はときどき壁を叩いた。そこにいるか、という合図だった。俺は一度だけ叩き返した。次に叩かれたとき、上げかけた手を途中で下ろした。それでも陸は叩き続けた。
眠れなかった。
天井の蒼白い光を見ながら考えていた。誰にも重んじられないというのは一人でいるのとは違う。一人なら誰もいない。今日は、人はいた。いて、俺を通り過ぎていった。
この一年、俺はこういう場所にいたのかもしれない。天城に触れられるより前から。自分でそういう場所へ歩いていったのかもしれない。
壁がまた叩かれた。
俺は、今度は叩き返した。
*
十月二十三日の朝、天城の店はまだシャッターが半分下りていた。
陸は駅からここまでに三度左の掌を開いて見た。ボールペンの字は一晩で少し滲んでいた。
天城は昨日と同じ帳場に、昨日と同じカーディガンで座っていた。
「約束どおりだね」
天城は俺をまっすぐに見た。確かめようとするでもなく、当たり前のように。この一晩、そういう見方で俺を見た人間は一人もいなかった。
「どうだった。一晩、誰にも重んじられないというのは」
「……安かった」
天城は声を出さずに笑った。
「そう言う客は、だいたい二度とこの取引をしない」
天城の指が昨日と同じように俺の手の甲に触れた。
今度も冷たい指が触れただけだった。
ただ、土間の端にいた陸がふっと顔を上げた。掌を開かずに俺を見た。それから大きく息を吐いて、しゃがみ込んだ。
「……うわ。お前、そこにいたわ」
「いたよ。昨日から、ずっと」
「知ってるよ。知ってたけど、いたんだよ」
何を言っているのか分からなかった。たぶん陸にも分かっていなかった。
天城が帳場の横の飾り棚を見た。昨日、札を下げていなかった懐中時計だ。唐草の彫られた蓋。
同じ時計のはずだった。それなのに俺の目にはただの古い鉄の時計がそこに置かれているようにしか見えなかった。唐草は彫られている。それでも目が止まらない。昨日は札のないその時計に俺の目は一度引かれたはずだった。
「……ただの古い時計だな」
陸がしゃがんだまま言った。
「そうだろうね」
天城はその時計を手に取って、蓋を開け、閉じた。
「上げた分だけ、こちらの持ち物のどれかが下がる。昨日、言っただろう。今日はこれだった。……祖父の代から、この店でいちばん高い物だったんだがね」
「……それでよかったのか」
「商売だよ」
天城は時計を棚に戻した。それから初めて小さな札を一枚その紐に下げた。札には何も書かなかった。
「不思議そうな顔をしてるね。物の値しか変えられないはずの力で、なんで人の値が変わるのかって」
俺は答えなかった。そういう顔をしていたつもりはなかった。
「簡単な話だよ。存在も、持ち物のうちだ。人間が一番大事に持ってる物だろう。だから、触れれば値が分かる。上げ下げもできる」
天城はそれで全部説明がついたという顔で帳簿を開いた。俺はその説明に何も足さなかった。
外に出ると、昨日の乾物屋の老人が店先でまた箱を並べていた。
老人は顔を上げて俺を見た。昨日より少しだけ長く見た。
「あんた、今日は七百五十だね」
「……昨日より上がったのか」
「さあ。値段ってのは、毎日違うんだよ」
老人は箱に戻った。陸が半歩後ろで小さく吹き出した。
「五十円分、俺のおかげな。たぶん」
通りには人の声があふれていた。すれ違う誰かが俺を避けて半歩ずれた。コンビニの店員が入り口で「いらっしゃいませ」と俺に言った。当たり前のことが一つずつ戻ってきた。
「で、どこから行くんだよ」
駅へ向かいながら陸が訊いた。
「天城の言うとおりなら、千代田だ。最後に会った相手のところに、何か残ってるかもしれない」
「じゃあ千代田だろ」
「それはあいつの勘だ。帳簿にあるのも段取りだけで、澪が本当に会えたかは書いてない」
陸は少し考えてから、掌ではなく携帯を出した。地図を開いて、三つの区を指でたどった。
「……じゃあ、一個ずつ確かめるしかないんじゃねえの。品川で、その鷲尾ってやつが本当に澪さんと会ってたなら、帳簿はそこまでは当たってる。次も確かめる値打ちはあるだろ」
「ああ」
俺が知りたいのも、帳簿が正しいかどうかだけではなかった。澪が品川で何を聞き、目黒で何を見て、それから千代田へ向かったのか。それを知らないまま御厨の前に立ちたくはなかった。
「澪が歩いた順に、辿る。品川からだ。……最後は千代田になる」
「了解」
陸は携帯をしまって、一度だけ左の掌を開いた。滲んだ字を確かめて、また握った。
品川。九月十四日。鷲尾衛。
澪が最後の三週間に最初に向かったはずの場所だ。
戻ってきた世界は少しだけうるさかった。
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