第3章 予兆②
昼前の商店街で話を聞いて回った。
聞き方を考える必要はなかった。この区では夢の話は挨拶と同じだ。「占い屋さんの夢って、当たるんですか」と訊けば、誰もが手を止めて答えてくれた。
「当たるよ。外れたって話は聞かないね」
と、惣菜屋の女主人は言った。
「うちの姪っ子がね、夢に出たんだって。道に転がってて、すぐ横に自転車が倒れてたって。だから占い屋さん、『自転車で転ぶかもしれない』って。それで三日間、自転車に乗せないで歩かせたの。そしたら三日目に、歩いてて転んだのよ。そこへ、停めてあった誰かの自転車が倒れてきて、ちょうど横に並んだの。夢で見たのとそっくりな格好だったって」
古本屋の若い店員の話も、同じところに落ちた。階段から落ちると言われた父親を三日間一階に寝かせたら、段が一つしかない玄関の上がり框で足を踏み外した。段の下でうずくまる格好は、夢のまんまだったという。
そこから先は、手帳に一行ずつ書きつけるだけになった。釣り堀。窓ガラス。駅前の腕時計屋。堂島が電話で聞いた、あの話だ。
避けようとした。避けたはずだった。それでも最後は、夢に見えたとおりの姿に行き着いた。
「なんか、気持ち悪いな」
陸が小声で言った。
「当たるっていうか、どうしても当てにくるっていうか。……逃げ道、ないじゃん」
俺は答えずに手帳を見返していた。どの話にも日付と、場所と、何が起きたかがある。三日を過ぎて起きた話は一つもない。変わったのは、そこへ至る道筋と、聞いた側の読みだけだった。夢に見えた絵そのものが変わった話も、外れた話も、一つもなかった。
八百屋はアーケードの真ん中あたりにあった。
店先に段ボールに入った柿と、山積みの白菜が並んでいる。その上に木の看板が掛かっていた。〈青果まるよし〉と、ペンキの剥げかけた字で書いてある。看板を吊るしている金具には、真新しい針金が何重にも巻きつけてあった。
店主は六十くらいの男で、首にタオルを掛け、しきりに上を見上げていた。
「占い屋さん?ああ、当たるよ」
店主は看板から目を離さないまま言った。
「当たるから困ってんだ。昨日の朝、来てさ。わざわざ店の前まで。『看板に気をつけてください』って。真っ青な顔して」
昨日の朝。俺が店の張り紙を見るより前に、真柴はここへ来ていたことになる。
「それで、それですか」
陸が針金を指さした。
「おう。昨日のうちに、ありったけ巻いた。下ろしちまえばいいんだろうけどな。四十年、あそこにあるんだ。下ろしたら、店がなくなっちまったみたいでよ」
店主は笑った。笑いながら、もう一度上を見た。
俺も見上げた。
アーケードの天井は半透明の板で葺かれている。その向こうに空が見えた。青かった。雲は一つもない。十月の昼の、どこまでも乾いた空だった。
「今日で、二日目なんだよ」
店主は誰にともなく言った。
「昨日は、何もなかった。今日と明日、もちこたえりゃ、外れたってことになる。あの子の夢が、初めて外れるんだ」
陸が白菜の山の前にしゃがみこんだ。
「おっちゃん、この白菜いくら」
「二百円。いいやつだぞ」
「じゃあ一個。今日の晩飯、鍋にする」
陸は白菜の山の端、看板からいちばん遠いところへ回りこんでから財布を取り出した。「真下は避けとく。念のため」と、半分笑って言った。
耳の奥がぎゅっと押された。
気圧が一度に変わったときの、あの詰まり方だった。
次に髪の毛が逆立った。俺の腕の毛も、陸の髪も、店主の首のタオルの端も、同じ方向へふわりと浮いた。
空は青いままだった。
俺は考える前に手を伸ばしていた。陸のパーカーのフードを掴み、力任せに後ろへ引く。陸の体が白菜の山から引き剥がされて、俺の胸にぶつかった。
光った。
アーケードの天井板の一枚が、内側から白く燃えたように見えた。音は光と同時に来た。耳ではなく、体の内側で鳴った。床が揺れ、白菜の山が崩れ、店先の電球が一斉に弾けた。
看板が、落ちた。
何重にも巻かれた針金ごと、金具が天井の梁から引きちぎられていた。看板は真下には落ちなかった。一本だけ梁に残った針金に振られて、斜めに弧を描いた。四十年分の重さが、白菜の山の端、さっきまで陸がしゃがんでいた場所に叩きつけられた。木が割れる音がした。白菜が一つ、看板の下から転がり出て、俺の靴に当たって止まった。
焦げた匂いがした。
俺の頬を何かが伝っていた。指で拭うと赤かった。弾けた電球の破片だろう。痛みはなかった。
陸は俺の胸に背中を預けたまま動かなかった。財布を握った手が震えていた。
通路の向こうで誰かが叫んだ。何人もが店の外へ飛び出してきた。そして全員が上を見た。
割れた天井板の穴から空が見えていた。
青かった。
雲は一つもなかった。
「……今の、雷か?」
誰かが言った。
店主は割れた看板の前に膝をついていた。〈まるよし〉の〈まる〉のところが二つに割れている。店主はそれを両手で拾い上げようとして、やめた。
「……やっぱり、当たったなあ」
怒っている声ではなかった。どこかほっとしたような声だった。
陸がようやく俺から体を離した。振り返った顔は真っ白だった。昨日、口を閉ざされたときよりも白かった。
陸は割れた看板を見た。それから空を見た。それから俺の頬の血を見た。
喉が一度動いた。
「……あいつの夢、外れたことないんだってさ」
片づけが始まってしばらくして、隣の通りから様子を見に来た男が首をかしげた。向こうでは何も聞こえなかったし、光も見ていないという。惣菜屋の女主人も裏の通りに住む姉に電話をかけて、同じことを確かめていた。雷が落ちたのはこのアーケードのこの一区画だけだった。
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