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【やり直し】王区 ~東京二十三区には二十三人の王が居る~  作者: 白川 透
第一部

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第3章 予兆①

夕方の中野ブロードウェイは昼よりも狭く感じた。


シャッターを下ろしはじめた店と、これから灯りをつける店が通路の両側で入れ替わっていく。占い屋の引き戸から黄色い光が漏れていた。張り紙はもう剥がされている。


店の前の丸椅子に客が二人座っていた。買い物袋を膝にのせた年配の女と、制服の上にカーディガンを羽織った女子高生だ。


「今朝ね、うちの人が、歯が抜ける夢を見たって言うのよ」


「あ、それ縁起悪いやつ」


「でしょう。だから今日は一日おとなしくしてなさいって言ったの」


二人は天気の話でもするように夢の話をしていた。隣の古着屋の店主がハンガーを片づけながら口を挟む。


「うちの区じゃ、朝は夢の話から始まるんだよ。兄さん、よそから?」


「豊島です」


「ああ、豊島。あっちは決まりごとが多くて大変だってね」


店主はそれだけ言って店の奥へ引っこんだ。陸が俺の横で小さく肩をすくめた。


「中野って、こうなんだよ。誰がどんな夢見たか、商店街じゅうが知ってる。俺は夢、ほとんど覚えてないから、毎朝ちょっと肩身が狭い」


女子高生の番が来て、引き戸の内側に消えた。十分ほどで出てきて、何も言わずに帰っていった。年配の女も同じだった。出てきたときには少しほっとした顔をしていた。


俺の番が来た。陸が一緒に腰を浮かせると、引き戸の内側から声がした。


「お一人ずつで、お願いします」


陸は「えー」と言いかけて口を閉じた。丸椅子に座り直し、膝の上で指を組む。


「外で待ってる。何かあったら、叫べよ」


王の一分を覗いてやる、と陸は言っていた。その陸を戸の外に置いたまま、俺は一人で中に入った。


店の中は畳二枚ほどの広さだった。


小さな卓をはさんで椅子が二つ。卓の上には白い布と、古びた虫眼鏡と、受付の紙の束。壁には何も貼られていない。香も焚いていない。占い屋というより、町の小さな相談所のようだった。


向かいに座っていたのは、俺より少し若い男だった。


二十代の半ばだろう。黒いセーターの袖が手の甲まで伸びている。顔色が悪く、目の下には何日分かの隈が沈んでいた。地域ニュースの写真で見た顔より、ひとまわり痩せて見えた。


「どうぞ」


声は穏やかだった。王の声には聞こえなかった。


「お名前を、こちらに。手相を拝見するときに、お呼びするので」


受付の紙とボールペンが差し出される。どこにでも売っている安いボールペンだった。


俺は少し迷ってから書いた。


黒瀬玲司。


男は紙を受け取って目を落とし、右手を卓の上に出すように言った。俺が手を出すと、男は両手でそれを受け、手のひらを上に向けた。


指はもう白くなかった。いつのまにか五本とも元の色に戻っている。


「すみません。手相は、ほとんどお飾りなんです」


男は手のひらを眺めながら、申し訳なさそうに言った。


「僕の占いは、当たらないほうがいいので」


「真柴暦さんですね」


男の手が止まった。


看板には〈占〉の一字しかない。張り紙の署名も〈暦〉だけだった。苗字まで口にする客はたぶん多くない。


「……はい」


俺は手を引き、上着のポケットから澪のスマートフォンを出した。割れた画面を卓に置き、「23」の参加者の一覧を開いて真柴のほうへ向ける。


真柴の目が一覧の上を滑り、途中で止まった。一覧のなかほど、真柴暦の名前があるあたりだった。


顔に残っていたわずかな色が引いていくのが分かった。


「このグループを作った人間を探している」


俺は写真のアルバムを開き、一枚だけ選んだ。一昨年の春、河川敷で撮った写真だ。風で髪が顔にかかって、澪は笑いながらそれを押さえている。


「白石澪。一年前に、いなくなった」


真柴は写真を長いあいだ見ていた。卓の上で組まれた指が袖の中で小さく動いた。


「……一度だけ、ここに来られました」


「いつだ」


「一年と、少し前です。夏の終わりでした。手相を見てほしいとおっしゃって、でも、結局、手は出されなかった」


真柴は写真から目を離さないまま続けた。


「ずっと、僕の顔を見ていました。何かを確かめるみたいに。それで、帰りぎわに、ひとことだけ」


「何て言った」


「『あなたの夢は、やさしく見てね』と」


俺は黙った。


夢。この区では、朝は夢の話から始まる。この男はその区の王だ。


「どういう意味だ」


「分かりません」


真柴は首を横に振り、スマートフォンをそっと俺のほうへ押し戻した。


「そのグループのことも、僕に話せることはほとんどないんです。名前が、いつのまにかそこにあった。それだけです。……すみません」


「いつのまにか、というのは」


「黒瀬さん」


真柴が俺の名前を呼んだ。受付の紙を見ずに。


「僕は、不幸を当ててしまうだけです。占い師でも、王様でも、本当はないんです。夢を見て、それが当たってしまう。それだけの人間です。だから、その人のことも、そのグループのことも、僕に訊いても何も出てきません」


穏やかな声だった。それなのに、扉を一枚閉ざされたような気がした。


それ以上は訊かなかった。真柴の指が袖の中でまだ震えていた。ここで問い詰めれば、この男は明日から店を閉めるだろう。一年閉じていた店を、また。門の内側へ戻られたら、俺にはもう手が出ない。訊けることが残っているうちは、扉を開けたままにしておくほうがいい。


「明日、また来る」


立ち上がると、真柴も立ち上がった。卓の上の受付の紙を両手で持ち、そこに書かれた四つの字をもう一度確かめるように見ている。


それから顔を上げた。


「……黒瀬さん、ですね。覚えました」


*


その夜は豊島へ帰らなかった。


帰っても眠れない。明日また中野へ来るのなら、ここで朝を待てばいい。陸は「うち来れば」と言ったが断った。駅の北口にある終夜営業のファミリーレストランで、ドリンクバーだけを頼んで窓際の席に座った。


夜のあいだに客は何度も入れ替わった。終電を逃した会社員。始発を待つ学生。誰もがどこかで目を閉じ、テーブルに額をつけて眠った。俺だけが起きていた。


袖をまくると、左腕の肘から先に痣が広がっていた。昼間、鉄の棒を受けたところだ。指で押すと、押された感触だけが返ってくる。痛みはやはり来ない。俺は袖を戻し、窓の外が白むのを待った。


*


朝のブロードウェイは昨日の夕方とは別の場所のようだった。


シャッターの半分開いた店の前で、店主たちが箒を動かしながら話している。


「ゆうべ、また川に落ちる夢でさ」


「あんたそれ、先週も言ってたよ」


「だから気をつけてんだよ。今日は橋を渡らない」


笑い声が通路に跳ね返った。誰も夢を冗談だとは思っていない。それでいて深刻にもしていない。天気予報を聞いて傘を持つのと同じ顔だった。


陸はアーケードの入口で待っていた。片手に紙パックの牛乳を持ち、あくびを噛み殺している。


「顔色わる。……あ、そっか。寝てないんだっけ」


「眠くならない」


「それ、便利なのか不便なのか分かんないな」


占い屋の前まで来たとき、陸の足が止まった。


引き戸の前に真柴が立っていた。


開店前のはずだった。灯りもついていない。黒いセーターの上に何も羽織らず、両腕で自分の体を抱えるようにして、通路の真ん中に立っている。


昨日よりも顔色が悪かった。悪いというより色がなかった。唇まで白い。


真柴は俺を見て、ほとんど走るように近づいてきた。


「黒瀬さん」


「……どうした」


「待っていました。また来ると、おっしゃったので」


真柴は自分の腕を握る手に力をこめた。袖の上から指の形が分かるほどだった。


「夢を、見ました」


店の中には入らなかった。真柴が入りたがらなかった。引き戸の前の丸椅子に三人で並んで座った。通路の向こうで店主たちの笑い声がまだ続いていた。


「僕の頭の中には、こう書いてあるんです」


真柴は膝の上で手を組み、目を伏せたまま言った。暗唱するというより、読み上げるような声だった。


中野区にいる、名を知る者一人について。眠っているあいだに、その者に三日以内に起きる出来事を一つ、夢に見る。夢は目覚めても消えない。夢を見た三日間、自分は中野区を出られない。


「一年前から、ずっとです」


陸が俺の横で息を詰めるのが分かった。


陸の手が真柴の袖のほうへ少しだけ浮いた。すぐに膝の上へ戻って、そこで拳になった。


中野区にいる者。名を知る者。


昨日、俺は自分の手で名前を書いた。そして豊島へ帰らずに、この区で夜を明かした。


「誰の夢を見るかは、僕には選べません。名前を知っている人の中から、勝手に一人、選ばれてしまう。見たら、伝えるようにしています。伝えれば、避けられるかもしれないから」


「避けられたことは」


真柴は答えなかった。組んだ指をほどいて、また組んだ。


「この三日間、僕は中野を出られないんです。どこへ行こうとしても、区境の手前で足が止まる。だから、黒瀬さんがこの区を出てしまったら、追いかけていくこともできない。お名前しか存じ上げなかったので、ここで待つしかなくて」


「何を見た」


真柴は顔を上げなかった。


「区境でした。どこの区境かは、分かりません。アスファルトの上に、線が引かれていて」


声が少しずつ細くなっていく。


「その上に、黒瀬さんが倒れていました。仰向けに。……それを、男の人が見下ろしていました」


「誰だ」


「テレビで、何度も見たことのある人です」


真柴はようやく顔を上げた。隈の沈んだ目がまっすぐ俺を見ていた。


「豊島の、久世さんでした」


陸の手から牛乳の紙パックが落ちた。床で小さく跳ねて転がった。誰も拾わなかった。


一周忌の朝が頭の中で裏返った。坂に叩きつけられた背中。見上げた空。仰向けの俺のほうへ、線を越えてもう一度来る黒いコートの男。


あのときと似た構図だった。


「俺は、どうなる」


自分の声がひどく平らに聞こえた。


真柴の唇が一度閉じかけた。それから、決めたように開いた。


「三日以内に、あなたは久世さんに殺されます」


真柴はそれ以上は何も話さなかった。話せなかったのかもしれない。引き戸を開けて店の中へ入り、内側から鍵をかけた。今日は店を開けるつもりがないのだろう。


陸が床の紙パックを拾った。


「……で、どうすんの」


「調べる」


「何を」


「あいつの夢が、どのくらい当たるのか」


信じる理由はなかった。信じない理由もなかった。分かっているのは、あの男の頭の中の文章と、あの男の顔色だけだ。予言の重さを測るには、それでは足りない。まずは、これまでの夢がどう当たったのかを知りたかった。

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