第3章 予兆①
夕方の中野ブロードウェイは昼よりも狭く感じた。
シャッターを下ろしはじめた店と、これから灯りをつける店が通路の両側で入れ替わっていく。占い屋の引き戸から黄色い光が漏れていた。張り紙はもう剥がされている。
店の前の丸椅子に客が二人座っていた。買い物袋を膝にのせた年配の女と、制服の上にカーディガンを羽織った女子高生だ。
「今朝ね、うちの人が、歯が抜ける夢を見たって言うのよ」
「あ、それ縁起悪いやつ」
「でしょう。だから今日は一日おとなしくしてなさいって言ったの」
二人は天気の話でもするように夢の話をしていた。隣の古着屋の店主がハンガーを片づけながら口を挟む。
「うちの区じゃ、朝は夢の話から始まるんだよ。兄さん、よそから?」
「豊島です」
「ああ、豊島。あっちは決まりごとが多くて大変だってね」
店主はそれだけ言って店の奥へ引っこんだ。陸が俺の横で小さく肩をすくめた。
「中野って、こうなんだよ。誰がどんな夢見たか、商店街じゅうが知ってる。俺は夢、ほとんど覚えてないから、毎朝ちょっと肩身が狭い」
女子高生の番が来て、引き戸の内側に消えた。十分ほどで出てきて、何も言わずに帰っていった。年配の女も同じだった。出てきたときには少しほっとした顔をしていた。
俺の番が来た。陸が一緒に腰を浮かせると、引き戸の内側から声がした。
「お一人ずつで、お願いします」
陸は「えー」と言いかけて口を閉じた。丸椅子に座り直し、膝の上で指を組む。
「外で待ってる。何かあったら、叫べよ」
王の一分を覗いてやる、と陸は言っていた。その陸を戸の外に置いたまま、俺は一人で中に入った。
店の中は畳二枚ほどの広さだった。
小さな卓をはさんで椅子が二つ。卓の上には白い布と、古びた虫眼鏡と、受付の紙の束。壁には何も貼られていない。香も焚いていない。占い屋というより、町の小さな相談所のようだった。
向かいに座っていたのは、俺より少し若い男だった。
二十代の半ばだろう。黒いセーターの袖が手の甲まで伸びている。顔色が悪く、目の下には何日分かの隈が沈んでいた。地域ニュースの写真で見た顔より、ひとまわり痩せて見えた。
「どうぞ」
声は穏やかだった。王の声には聞こえなかった。
「お名前を、こちらに。手相を拝見するときに、お呼びするので」
受付の紙とボールペンが差し出される。どこにでも売っている安いボールペンだった。
俺は少し迷ってから書いた。
黒瀬玲司。
男は紙を受け取って目を落とし、右手を卓の上に出すように言った。俺が手を出すと、男は両手でそれを受け、手のひらを上に向けた。
指はもう白くなかった。いつのまにか五本とも元の色に戻っている。
「すみません。手相は、ほとんどお飾りなんです」
男は手のひらを眺めながら、申し訳なさそうに言った。
「僕の占いは、当たらないほうがいいので」
「真柴暦さんですね」
男の手が止まった。
看板には〈占〉の一字しかない。張り紙の署名も〈暦〉だけだった。苗字まで口にする客はたぶん多くない。
「……はい」
俺は手を引き、上着のポケットから澪のスマートフォンを出した。割れた画面を卓に置き、「23」の参加者の一覧を開いて真柴のほうへ向ける。
真柴の目が一覧の上を滑り、途中で止まった。一覧のなかほど、真柴暦の名前があるあたりだった。
顔に残っていたわずかな色が引いていくのが分かった。
「このグループを作った人間を探している」
俺は写真のアルバムを開き、一枚だけ選んだ。一昨年の春、河川敷で撮った写真だ。風で髪が顔にかかって、澪は笑いながらそれを押さえている。
「白石澪。一年前に、いなくなった」
真柴は写真を長いあいだ見ていた。卓の上で組まれた指が袖の中で小さく動いた。
「……一度だけ、ここに来られました」
「いつだ」
「一年と、少し前です。夏の終わりでした。手相を見てほしいとおっしゃって、でも、結局、手は出されなかった」
真柴は写真から目を離さないまま続けた。
「ずっと、僕の顔を見ていました。何かを確かめるみたいに。それで、帰りぎわに、ひとことだけ」
「何て言った」
「『あなたの夢は、やさしく見てね』と」
俺は黙った。
夢。この区では、朝は夢の話から始まる。この男はその区の王だ。
「どういう意味だ」
「分かりません」
真柴は首を横に振り、スマートフォンをそっと俺のほうへ押し戻した。
「そのグループのことも、僕に話せることはほとんどないんです。名前が、いつのまにかそこにあった。それだけです。……すみません」
「いつのまにか、というのは」
「黒瀬さん」
真柴が俺の名前を呼んだ。受付の紙を見ずに。
「僕は、不幸を当ててしまうだけです。占い師でも、王様でも、本当はないんです。夢を見て、それが当たってしまう。それだけの人間です。だから、その人のことも、そのグループのことも、僕に訊いても何も出てきません」
穏やかな声だった。それなのに、扉を一枚閉ざされたような気がした。
それ以上は訊かなかった。真柴の指が袖の中でまだ震えていた。ここで問い詰めれば、この男は明日から店を閉めるだろう。一年閉じていた店を、また。門の内側へ戻られたら、俺にはもう手が出ない。訊けることが残っているうちは、扉を開けたままにしておくほうがいい。
「明日、また来る」
立ち上がると、真柴も立ち上がった。卓の上の受付の紙を両手で持ち、そこに書かれた四つの字をもう一度確かめるように見ている。
それから顔を上げた。
「……黒瀬さん、ですね。覚えました」
*
その夜は豊島へ帰らなかった。
帰っても眠れない。明日また中野へ来るのなら、ここで朝を待てばいい。陸は「うち来れば」と言ったが断った。駅の北口にある終夜営業のファミリーレストランで、ドリンクバーだけを頼んで窓際の席に座った。
夜のあいだに客は何度も入れ替わった。終電を逃した会社員。始発を待つ学生。誰もがどこかで目を閉じ、テーブルに額をつけて眠った。俺だけが起きていた。
袖をまくると、左腕の肘から先に痣が広がっていた。昼間、鉄の棒を受けたところだ。指で押すと、押された感触だけが返ってくる。痛みはやはり来ない。俺は袖を戻し、窓の外が白むのを待った。
*
朝のブロードウェイは昨日の夕方とは別の場所のようだった。
シャッターの半分開いた店の前で、店主たちが箒を動かしながら話している。
「ゆうべ、また川に落ちる夢でさ」
「あんたそれ、先週も言ってたよ」
「だから気をつけてんだよ。今日は橋を渡らない」
笑い声が通路に跳ね返った。誰も夢を冗談だとは思っていない。それでいて深刻にもしていない。天気予報を聞いて傘を持つのと同じ顔だった。
陸はアーケードの入口で待っていた。片手に紙パックの牛乳を持ち、あくびを噛み殺している。
「顔色わる。……あ、そっか。寝てないんだっけ」
「眠くならない」
「それ、便利なのか不便なのか分かんないな」
占い屋の前まで来たとき、陸の足が止まった。
引き戸の前に真柴が立っていた。
開店前のはずだった。灯りもついていない。黒いセーターの上に何も羽織らず、両腕で自分の体を抱えるようにして、通路の真ん中に立っている。
昨日よりも顔色が悪かった。悪いというより色がなかった。唇まで白い。
真柴は俺を見て、ほとんど走るように近づいてきた。
「黒瀬さん」
「……どうした」
「待っていました。また来ると、おっしゃったので」
真柴は自分の腕を握る手に力をこめた。袖の上から指の形が分かるほどだった。
「夢を、見ました」
店の中には入らなかった。真柴が入りたがらなかった。引き戸の前の丸椅子に三人で並んで座った。通路の向こうで店主たちの笑い声がまだ続いていた。
「僕の頭の中には、こう書いてあるんです」
真柴は膝の上で手を組み、目を伏せたまま言った。暗唱するというより、読み上げるような声だった。
中野区にいる、名を知る者一人について。眠っているあいだに、その者に三日以内に起きる出来事を一つ、夢に見る。夢は目覚めても消えない。夢を見た三日間、自分は中野区を出られない。
「一年前から、ずっとです」
陸が俺の横で息を詰めるのが分かった。
陸の手が真柴の袖のほうへ少しだけ浮いた。すぐに膝の上へ戻って、そこで拳になった。
中野区にいる者。名を知る者。
昨日、俺は自分の手で名前を書いた。そして豊島へ帰らずに、この区で夜を明かした。
「誰の夢を見るかは、僕には選べません。名前を知っている人の中から、勝手に一人、選ばれてしまう。見たら、伝えるようにしています。伝えれば、避けられるかもしれないから」
「避けられたことは」
真柴は答えなかった。組んだ指をほどいて、また組んだ。
「この三日間、僕は中野を出られないんです。どこへ行こうとしても、区境の手前で足が止まる。だから、黒瀬さんがこの区を出てしまったら、追いかけていくこともできない。お名前しか存じ上げなかったので、ここで待つしかなくて」
「何を見た」
真柴は顔を上げなかった。
「区境でした。どこの区境かは、分かりません。アスファルトの上に、線が引かれていて」
声が少しずつ細くなっていく。
「その上に、黒瀬さんが倒れていました。仰向けに。……それを、男の人が見下ろしていました」
「誰だ」
「テレビで、何度も見たことのある人です」
真柴はようやく顔を上げた。隈の沈んだ目がまっすぐ俺を見ていた。
「豊島の、久世さんでした」
陸の手から牛乳の紙パックが落ちた。床で小さく跳ねて転がった。誰も拾わなかった。
一周忌の朝が頭の中で裏返った。坂に叩きつけられた背中。見上げた空。仰向けの俺のほうへ、線を越えてもう一度来る黒いコートの男。
あのときと似た構図だった。
「俺は、どうなる」
自分の声がひどく平らに聞こえた。
真柴の唇が一度閉じかけた。それから、決めたように開いた。
「三日以内に、あなたは久世さんに殺されます」
真柴はそれ以上は何も話さなかった。話せなかったのかもしれない。引き戸を開けて店の中へ入り、内側から鍵をかけた。今日は店を開けるつもりがないのだろう。
陸が床の紙パックを拾った。
「……で、どうすんの」
「調べる」
「何を」
「あいつの夢が、どのくらい当たるのか」
信じる理由はなかった。信じない理由もなかった。分かっているのは、あの男の頭の中の文章と、あの男の顔色だけだ。予言の重さを測るには、それでは足りない。まずは、これまでの夢がどう当たったのかを知りたかった。
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