第2章 二十三②
鍵谷錠前店は地図アプリで一件だけ出てきた。中野の北の外れ、さっきの区境から歩いて二十分ほどだった。
「行ってどうすんの」
「遠くから見るだけだ。また来るかもしれない。居場所は知っておきたい」
「それ、用心棒の発想じゃん」
答えなかった。右手はコートのポケットに入れてある。白い指は二本ともまだ戻っていない。
店の一本手前の角で足を止めた。電柱の陰から通りの先をうかがう。来た道と、反対側へ抜ける細い路地を目で確かめてから、それ以上は近づかなかった。
店は古い二階建ての一階だった。シャッターの横に住まいへ通じる鉄の扉がある。
扉の前に作業着の男が立っていた。
逃げたはずの男は俺たちに気づかなかった。腰の束から一本を選び、鍵穴に差しこむ。鍵は回った。かちり、と錠の外れる音がこの角まで届いた。
鍵谷はノブを引いた。扉は動かなかった。がたつきもしない。壁に描かれた扉の絵を引いているように見えた。
鍵谷は鍵を抜き、扉の真ん中に手のひらを押し当てた。目を閉じて、何かを唱えるように唇を動かす。それからもう一度ノブを引いた。
動かなかった。
扉の足元にはコンビニの袋が三つと、丸めた毛布が一枚。郵便受けからは赤い字の封筒がはみ出していて、〈督促状〉という文字がここからでも読めた。
「……うわ。ここで寝てたのかよ」
陸が小さく言った。
通りの反対側から灰色の背広が歩いてきた。五十代だろう。肩の縫い目が少しほつれていて、片手に飲みかけの缶コーヒーを持っている。男は俺たちを一瞥してから、扉の前に立ちつくす作業着の肩を軽く叩いた。
「鍵谷さん。もういいだろう」
作業着の肩が大きく跳ねた。
「閉めたのはあんただろう。三日前の夜だ。おととい話を聞きに来たとき、あんた自分でそう言ったじゃないか。借金取りに入られないようにって、自分で自分の家の扉を閉めた。で、開かなくなった」
「……開くはずなんだ」
鍵谷は扉に額を押しつけた。
「自分だけは開けられるって、そう書いてある。頭の中に、一年ずっとそう書いてあるんだ」
陸が俺の袖を引いて、さっきの画面を黙って指で示した。打ち直した文章の、二つ目の文だった。
口だけではなかった。この文章には書いてあるとおりにならないところがもう一つある。
陸は何も言わなかった。さっきまで止まらなかった軽口が一つも出てこなかった。
背広の男は鍵谷に手錠をかけなかった。携帯電話で短く誰かを呼び、鍵谷を扉の前の段差に座らせて、缶コーヒーをその手に握らせる。それから俺たちのほうへ歩いてきた。
「警視庁の堂島だ」
身分証の写真の下に小さな字で部署の名前があった。〈地域境界調整係〉。聞いたことのない係だった。
「この一週間、このあたりで『扉が開かなくなった』って届けが五件あってな。三日経つと、どれも何もなかったように開く。窃盗もない。ただ、どの家もその前に、この人の店に修理を頼んでた。――おたくらは?」
「さっき、こいつがあの人に襲われた」
「襲われた。どうやって」
「口を閉ざされた」
堂島は陸の口元を見た。それから俺の顔を見た。笑いも疑いもしなかった。手帳に何かを書きつけた。
「開いてるじゃないか」
「開けた」
「誰が」
俺は答えなかった。ポケットの中で右手を握りこむ。堂島はそれ以上は訊かず、手帳を胸ポケットに戻した。
「まあいい。この手の話は、一課も二課もやりたがらん。調書に書ける言葉がないからな。だから、うちの係に回ってくる」
「王様のことも、ですか」
自分の口からその言葉が出た。堂島は少しだけ眉を上げた。
「王様は、うちの管轄じゃない。どこの管轄でもない。――ただ、な」
堂島は通りの先を見た。電柱に区の広報の掲示板が結びつけられている。色あせた紙に区長の名前と顔写真が印刷されていた。
「書類上は、今も区長がいるんだよ。予算書にも、議事録にも、区長の判子が押してある。王様の名前は、どの書類にも一つもない。それでも区役所の連中は王様の言うことを聞いてる。誰もそれをおかしいとは言わん」
俺は息を止めていた。
一周忌の坂で俺が一人で思っていたことと、似ていた。似ているだけで、同じではなかった。この男は書類と現実が食い違っていると言っている。王がいなかった、とは言っていない。
「……堂島さんは、おかしいと思ってるんですか」
「さあな。俺はただ、数字が合わんのが気持ち悪いだけだ」
堂島は少しだけ笑った。疲れた笑い方だった。
「うちの家はな、台所と居間のあいだを区境が通ってる。新宿と中野だ。住所が二つある。女房は飯を新宿で作って、俺は中野で食う。そういう暮らしを三十年してるとな、線のこっちとあっちで話が食い違うのに、妙に敏感になる」
言いたいことはあった。一年前まで、王なんていなかった。あなたの数字が合わないのはそのせいだ。
同僚にそれを言って「疲れてるんだよ」と返された日のことを、俺はまだ覚えていた。
パトカーが一台、サイレンを鳴らさずに角を曲がってきた。若い警官が鍵谷を立たせる。鍵谷は後部座席に乗りこむ前に一度だけ、開かない扉を振り返った。
「今夜には開く。三日だからな」
堂島が窓越しにそう言った。鍵谷はうなずかなかった。
車が角の向こうへ消えると、入れ替わりのように堂島の携帯が鳴った。短いやりとりのあと、堂島は俺たちにも聞こえる声で言った。
「中野の占い屋が、また予言を当てたらしい。駅前の腕時計屋が今朝、店の前で転んで足を折った。昨日の昼に、占い屋にそう言われてたんだと。事件じゃない。ただの噂だ」
陸が俺の顔を見た。
堂島は名刺を一枚差し出した。角が少し丸くなっている。
「口を開けたのが誰か、言いたくなったら電話しろ」
左手で受け取った。袖の下で左腕が熱を持ちはじめていて、指が思ったより鈍く動いた。痛みはやはり来なかった。右手はポケットから出さなかった。
堂島は背を向け、二、三歩歩いてから足を止めた。振り返らないまま、電柱の掲示板を見上げている。
「なあ。王様ってのは、いつからいたんだっけな」
答えを待たずに、堂島は通りの向こうへ歩いていった。
陸は太ももの打たれたところを手のひらでさすっていた。それから鍵谷の店のほうを一度だけ振り返った。
「……さっきの話。用心棒の。性能は見た。あんたにつく。俺が決めた」
握手の手は、今度は出てこなかった。
「行くんだろ。占い屋」
陸が言った。俺は商店街のほうへ歩きだした。
並べば会える王があの引き戸の向こうにいる。
その王は駅前の腕時計屋が今朝転ぶことを、昨日のうちに言い当てていた。
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