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【やり直し】王区 ~東京二十三区には二十三人の王が居る~  作者: 白川 透
第一部

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第2章 二十三①

画面の割れたスマートフォンは充電器のコードにつながれたまま眠っていた。


昨日はこれに手を伸ばせなかった。今は伸ばせた。眠らないまま朝を迎えた頭が、どこか他人のもののように静かだったからかもしれない。


画面に触れる。割れ目が指の腹に引っかかる。


ロックを解く数字は六桁。俺たちが付き合い始めた日だ。自分でカレンダーに丸をつけておきながら「これ、何の日だっけ」と俺に訊いた日付を、澪はここに使っていた。


トークの一覧を開く。いちばん上は俺だった。


最後のやりとりは一年前の夕方で止まっている。コンビニの棚を撮った写真が一枚。プリンが三種類並んでいて、その下に〈どれ〉とだけある。俺の返事は〈まんなか〉。それに猫が首をかしげるスタンプが一つ。


俺がいちばん見慣れた澪がそこにいた。


指を下へ滑らせる。母親。大学の友人。美容院。宅配の通知。


その下に「23」があった。


アイコンはない。灰色の丸に数字が二つ並んでいるだけだ。トーク履歴は一件も残っていない。残っているのは参加者の一覧だけだった。


二十三人。


この一年で俺はその名前を全部覚えた。ニュースを見ればどれかが映る。区の広報誌を開けばどれかが載っている。一覧の名前とテレビの中の王の名前は、一人残らず同じだった。澪はいなくなる前からこの二十三人とひとつのグループにいた。王なんてまだどこにもいなかった頃に。


豊島区の王、久世冬真。昨日、あの名前の男が俺の手首を掴んだ。


画面を一つ戻せばプリンの写真があり、もう一度開けば二十三の名前がある。どちらも同じ女の手が同じ端末に残したものだった。


この一年、番号はどれもつながらなかった。久世の屋敷には何度も足を運んだ。そのたびに門の前で頭を下げられ、取り次いではもらえなかった。王は門の内側にいて、俺はただの測量士だった。


昨日、その王の力が一度だけ俺の手の中にあった。何に使えるのかもまだ分からない力だ。それでも、門の前で待つ以外のことができるかもしれない。


問題は誰に会うかだった。久世は論外だ。会えば殺される。


一覧の名前を一つずつ検索していく。夜明けの部屋で画面の明かりだけが動いていた。ほとんどの王は屋敷か役所の奥にいて、外に出てくるのは会見の映像の中だけだ。


一つの名前で指が止まった。


真柴暦。中野区の王だ。王になる前から中野ブロードウェイの奥で小さな占い屋をやっていたらしい。この一年はシャッターを下ろしたままだったが、先月から店を開けている。一週間前の地域ニュースにそうあった。予約は取らない。順番を待てば王が手相を見てくれる。当たる、と評判らしい。


並べば会える王が一人いる。


九時を待って会社に電話した。熱が出たと言った。熱はない。痛みもない。眠気もない。何もないことをどう言えばいいのか分からなかった。課長は「お大事に」と言い、俺は「すみません」と返した。


昼前に部屋を出た。コートは肩が裂けたままなので別のを出す。玄関へ向かう途中、部屋の隅の段ボール箱の前で足が止まった。


ガムテープで封をしたままの小さな箱だ。側面に澪の字で〈地図〉とだけ書いてある。澪がいなくなったあと、あいつの机の下から出てきた。


一度だけテープの端に爪をかけたことがある。それきり触っていない。


靴を履く。チェーンを外す。


箱は、今日も開けなかった。


*


中野の商店街は平日の昼でも人が多かった。アーケードの天井から秋祭りの提灯が下がっている。惣菜屋の前で老人がコロッケを三つ買い、古着屋の店先では高校生が二人、同じジャケットを取り合って笑っている。


王のいる区には見えなかった。


占い屋はアーケードを抜けた先、中野ブロードウェイの奥まった一角にあった。古着屋と時計の修理屋に挟まれた、間口一間ほどの店だ。木の看板に墨で〈占〉と一字だけ書いてある。


列はなかった。引き戸に紙が一枚貼られていた。


〈ただいま準備中。夕方から開けます。暦〉


ボールペンの字だった。王の字にしては小さくて、少し右上がりだ。


俺はしばらくその紙の前に立っていた。一年待った。あと数時間待つことはできる。それなのに足が動かなかった。


「澪って、誰?」


背後から声がした。


振り返るより先に体が動いていた。声の主の胸ぐらを掴んで、隣の店の降りたシャッターに押しつける。背中がシャッターに当たる大きな音がした。


「ってえ、ちょ、たんま。たんまだって」


パーカーのフード。片耳にイヤホン。昨日、文京の路地でぶつかった男だった。


「なぜ、その名前を知ってる」


「説明する。説明するから、手、ゆるめて。俺、喉が弱いんだよ」


少しだけ力を抜いた。手は離さなかった。


男は大げさに咳きこんでから俺の顔を見上げた。十九か、二十。目だけが妙によく動いた。


「久遠陸。このへんに住んでる。今日のは偶然だよ、ここ俺の地元だから。で、昨日のは――」


陸と名乗った男は俺の手の甲を指でつついた。


「触っただろ。あんたの腕。あのとき、読んだんだ」


「読んだ?」


「あんたの、直前の一分」


俺が黙っていると、陸は目を閉じた。暗記した教科書を読み上げるような平らな声になった。


触れた相手の、直前一分間の記憶を覗ける。相手には気づかれない。一日に三回まで。代償はない。


「《既読》。一年前のあの夜から、頭の中にずっとこの文章がある。あんたも、そうだろ」


答えなかった。かわりに昨日の路地を思い出していた。ぶつかった瞬間の、頭の中をめくられたような目眩。坂で打ったせいだと思ったまま、一日が過ぎていた。


「何を見た」


「そんなには見えないよ。一分ぶん全部が映画みたいに流れるわけじゃない。強く思ってたことほど、はっきり残る」


陸は俺の目をまっすぐ見た。


「あんたの一分は、ほとんど『澪』で埋まってた。あとは、後ろから来る黒いコートだけ」


俺は手を離した。


離したのに、胸ぐらを掴んでいたときよりも自分のほうが壁に押しつけられているような気がした。走りながら頭の中で何度も呼んでいた名前を、他人に見られていた。


「……だから、何だ」


「だからさ」


陸はフードを外し、乱れた髪を手でかき回した。


「あんた、豊島の王様に追われてただろ。で、今ここに立ってる。王様から逃げ切った野良なんて、俺、一人も知らないんだよ」


「野良?」


「王様じゃないのに、力があるやつ。俺とか。たぶん、あんたとか」


陸はスマートフォンの画面をこちらに向けた。黒い背景に名前と顔写真と金額が並んでいる。下のほうに陸の写真があった。学生服を着て笑っている。


「懸賞金。野良を捕まえて届けると金が出る。出してるのは東のほうの区王だって噂。この半年で金額が二回上がった」


俺の値段ではない。この少年の値段だった。


「俺の力、喧嘩には何の役にも立たないんだよ。触って、一分ぶん読むだけ。殴られたら終わり。だからさ」


陸は引き戸の紙を顎で示した。


「あんた、中野の王様に会いに来たんだろ。澪って人のことを訊きに。でも王様が本当のことを言うとは限らない。俺なら、触れば分かる。その一分、王様が何を考えてたか」


信用できる理由は一つもなかった。こいつは断りもなく俺の一分を読んだ。俺のいちばん弱いところを掴んで、今それを値段にしている。


それでも俺は一年かけて、王の門の前までしか行けなかった。


「……読めるのは、一分だけか」


「一分だけ。でも、一分あれば人はだいたい嘘をつくよ」


陸は笑った。笑うと急に年相応の顔になった。そして右手を差し出した。


「用心棒になってくれよ。代わりに、あんたの知りたいことを覗いてやる」


握手はしなかった。引き戸の張り紙に目を戻す。夕方まであと四時間ある。


「夕方、ここへ戻る。それまでに確かめておきたいことがある」


王の前に立つなら、手の中のものが何をするのか知っておかなければならない。昨日の俺は借りた力で錠前一つ開けられなかった。確かめるには線がいる。ここから北東へ歩けば豊島との区境に出る。


陸はそれを断られなかったという意味に取ったらしい。「用心棒の性能、見ときたいし」と言って、俺の半歩後ろを勝手についてきた。


電車には乗らなかった。昨日、電車で戻ったときには何も来なかった。来たのは足で線を越えたときだけだ。なぜかは分からない。分からないから、来たときと同じやり方をなぞるしかない。


「でさ、澪さんって、あんたの彼女?」


答えない。


「じゃあ、王様とどういう関係」


答えない。


「あんた、会話の反射神経が死んでるって言われない?」


言われたことはある。澪に。一度じゃない。


「じゃあせめて名前。俺だけ名乗ってんの、不公平だろ」


「……黒瀬」


「下は」


答えない。


「黒瀬さんね。はいはい」


住宅街に入ると道が細くなった。交差点の一つで俺は足を緩めた。


電柱の根元に小さな金属の境界鋲が打ちこまれている。十字の刻み。そこからアスファルトの継ぎ目が道を斜めに横切っていた。舗装の色が継ぎ目を境にわずかに違う。管理している役所が違うからだ。


向こうが豊島で、こちらが中野。


「何、それ」


「区境だ」


「見りゃ分かるの?」


「仕事だ」


後ろで金属がぶつかり合う音がした。


じゃら、と鳴る。いくつもぶら下がった重たい鍵の束だ。


振り返ると作業着の男が立っていた。四十がらみ。腰に鍵の束を下げ、右手に短い鉄の棒を握っている。胸には刺繍で〈鍵谷錠前店〉。


「久遠陸」


男は陸の名前を自分に言い聞かせるように口にした。それから俺を見た。


「そっちは知らん。どいてろ」


陸の顔から血の気が引いていった。


「……懸賞金のやつだ」


男は笑わなかった。鍵の束を握る左手が小刻みに震えている。


男は俺を避けて回りこみ、陸に飛びかかった。俺が肩を掴むより早く、鉄の棒が陸の太ももを打つ。陸が膝から崩れる。倒れながら、陸の手が男の作業着の裾に触れた。すがりついたのではない。一瞬触れて、すぐに離れた。


男の体がびくりと固まった。


鍵の束を握ったままの左手で、男は自分のこめかみを押さえた。それでも止まらなかった。一拍遅れて陸の口が開く。悲鳴が出る形だった。


男の左手がその口をふさいだ。


掛け金を下ろすような、短い、乾いた音がした。


俺は男を陸から引き剥がした。男は抵抗せず、二歩下がって鉄の棒を俺に向けた。


「そいつはもう、喋れんよ」


陸の唇が閉じていた。縫い合わされたわけでも、貼りつけられたわけでもない。ただ閉じている。上唇と下唇のあいだに、もう境目がないように見えた。陸は指を唇に当て、こじ開けようとして、できない。鼻から荒い息が漏れた。


「三日だ。三日で開く。死にゃせん。鼻は使える。そのあいだに、届けるところへ届けるだけだ」


「開けろ」


「開けん」


俺が一歩踏み出すと、男は鉄の棒を振った。素人の振り方だった。それでも鉄は鉄だ。左腕で受ける。骨に響く鈍い衝撃があって、腕ごと押し戻された。


痛くはなかった。


痛くないから腕を引っこめる反射が来なかった。押し戻された腕をそのまま前へ戻し、二撃目も同じ腕で受けた。三撃目は来なかった。


男は鉄の棒を握ったまま、俺の腕と顔を見比べていた。左手がまたこめかみに上がる。


「……何なんだ、お前ら」


男は一歩下がった。もう一歩。俺が詰めると背を向け、中野の奥へ向かう路地へ走りこんだ。鍵の束の音が遠ざかって、消えた。


追わなかった。足元の陸のほうが先だった。


陸は地面に座りこんだまま、片手でスマートフォンを掲げていた。画面に打ちかけの文字が並んでいる。


〈こいついっぷんまえぜんぶとなえてた〉


陸の親指が震えながら画面を叩く。変換もしないまま文字が続いていく。


〈ふれたとびらをとざしみっかのあいだだれにもあけられなくする〉


〈とざしたとびらはじぶんだけがあけられるだいしょうはない〉


倒れたときのあの一瞬だ。裾に触れて、陸はあの男の一分を読んだ。陸を襲う直前、あの男は頭の中で自分の力の文章を唱えていたらしい。


扉。自分だけが開けられる。開けられるのは逃げていったあの男だけだ。


だが陸の口は扉ではない。陸の体の一部だ。昨日、俺は人に触れられて、人としての何かを外された。錠前には効かなかったあの手つきが、人の体には効いた。


俺は足元の継ぎ目を見た。斜めの線は三歩先にある。


俺たちが立っているのは中野の側だ。豊島の王の力を借りるには、一度豊島を踏んでから、こちらへ戻らなければならない。


線を越える。右足が豊島のアスファルトを踏み、左足を引き寄せる。両足が豊島に乗った。


手のひらに温度が来た。昨日と同じ、懐かしい温かさだった。ただ手触りが違う。指先に集まってこない。眠る前のように、まぶたの裏がぼんやり重くなる。


右足から線を戻る。左足も続く。両足が中野に乗った。


手触りが入れ替わった。


昨日のあの手触りだった。温度が腕を伝って指の先へ集まっていく。


陸の前にしゃがむ。陸が怯えた目で俺を見た。


「動くな」


パーカーの袖を肘まで押し上げる。細い手首が出た。そこを素手で掴んだ。脈が指の腹を走っている。


指先に何かが引っかかった。糸の端のようなものがいくつもある。どれが何なのかは指先からは分からない。だから、さっき目の前で起きたことを思い浮かべた。陸の口が閉じている、ということ。


つまむ。


外れろ。


指先から何かが抜けていった。


陸が大きく咳きこんだ。咳の音が口から出た。


「――っは、あ、開いた、開いた!」


俺は自分の右手を見た。陸の手首を掴んだままの人差し指が、根元から白くなっていた。昨日の坂で久世の指がこうなるのを見た。


白くなるのは、使った側の指だ。


「黒瀬さん、あんた今の、え、何、どうやって」


「足は」


「え?」


「足。痺れてるだろ」


陸は立ち上がろうとして、立てなかった。鉄の棒で打たれた太ももから下が当てにならない。「じんじんする」と情けない声で言った。


手首はまだ掴んでいる。指先にはまだ糸の端が触れている。痺れも、今こいつの体に起きているものだ。外せるはずだった。


外れろ。


何も起きなかった。


温度はまだ手のひらにある。糸の端も分かる。それなのに、つまもうとした指が何もつかめない。さっきつまんだ指がもう使い終わっているような感触だった。錠前のときとは違う。あのときは最初から何もなかった。今は、あるのに届かない。


俺は手を離した。


陸が「えっ」と声を上げる。それには答えず、もう一度同じ手首を掴む。素肌に指の腹が触れる。


糸の端がまた指に引っかかった。


外れろ。


「……あ」


陸が自分の太ももを叩いた。もう一度叩いて、それから立ち上がった。打たれたほうの足に体重を移すとき、少しだけ顔をしかめる。


「治った。じんじん、消えた」


消えたのは痺れだけだった。打たれたところには、明日には痣が浮くだろう。


俺は右手を開いた。人差し指の隣で中指が根元から白くなっていく。


触れたままの二度目は届かなかった。離して、触れ直したら届いた。一度触れるごとに一度。今のところはそう考えるしかない。掴んだのは手首で、痺れていたのは足だった。触れた場所からではなく、触れた相手から外しているらしい。


では、一度使えば外れるのは一つなのか。だとすると、一度触れられて二つ抜けた俺のことと合わない。答えは出なかった。


陸はしばらく自分の口を開けたり閉じたりしていた。それから打ちかけのひらがなを消して、一文字ずつ確かめながら打ち直した。


触れた扉を閉ざし、三日のあいだ誰にも開けられなくする。閉ざした扉は、自分だけが開けられる。代償はない。


「これさ、おかしくない?」


陸は画面をこちらに向けた。


「扉だけ、って書いてあるのに口が閉じた。口って扉じゃないだろ。どう考えても。じゃあこの文章、どこかが嘘だ」


画面を親指でなぞる。喋れるようになった口が少しも休まない。


「区王の説明には嘘が一つ、って聞く。野良仲間のあいだじゃ、結構有名な話。王様の説明は必ずどこか一箇所だけ嘘だって」


そこで一度言葉を切って、陸は肩をすくめた。


「俺たち野良も同じとは限らないけどな」


俺は答えなかった。右手をもう一度開く。


白い指が、二本になっていた。

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