幕間 一周忌の夜、豊島
豊島の屋敷は夜になると音がなくなる。
近所の住人は日が落ちると声を落とす。「いらない」という言葉を口にしないためだ。言えば消える、と信じられている。消えたという話を、久世冬真は一度も聞いたことがない。それでも住人たちはその決まりを守り続けている。
久世は縁側に座り、右手を見ていた。朝、坂の下で同じように見ていた手だ。
坂の下まで下りきったとき、指先がおかしかった。いつもなら指の腹にはかすかな張りがある。素手で相手の肌に触れれば外せる、という手応えだ。誰にも触れていないときでも、それは指の内側で待っている。
それが、薄くなっていた。
手そのものが半分ほど自分のものでなくなったような感覚だった。右手を開いて閉じた数秒のうちに、黒瀬を見失った。手応えはそれから少しして、ふっと戻った。理由は分からない。
朝、黒瀬の手首を素手で掴んだときに白くなった人差し指は、もう元の色に戻っていた。一時間もすれば戻る。いつものことだった。
懐の電話が震えた。画面に出た名前を見て、久世は一度だけ息を吐いた。
「綾瀬か」
『黒瀬玲司に、会いましたね』
綾瀬の声はいつもどおり平らだった。挨拶も前置きもない。
「会った」
『どうでしたか』
「目を覚ましていた」
電話の向こうが少しだけ黙った。
あの朝、坂の上の屋敷で、久世はそれを聞いた。音ではなかった。胸の奥の自分のものではない何かが、どこかで鳴ったものに一度だけ震えた。一年前のあの夜から、そんなことは一度もなかった。今日が何の日かは知っていた。黒瀬が目を覚ましたのなら、いる場所はあの坂しかない。
気づいたときには、もう坂を駆け下りていた。
『殺さないでください』
「なぜだ」
『理由は、言えません』
「なら、聞けない」
『久世』
綾瀬の声が初めて硬くなった。
『あの人を殺したら、取り返しがつかなくなるかもしれない。私にも、まだ全部は分かりません。だから、待ってください』
「待たない」
久世は立ち上がった。縁側の板が短く鳴った。
「あいつが目を覚ましたら、全部が崩れる。そう思ったから、俺は坂を下りた。お前が分からないことのために、俺は止まらない」
『――久世』
「殺す」
通話を切った。
久世は電話を懐に戻し、もう一度右手を握った。手応えは戻っている。指先は触れれば外せる。
触れたときには確かに外れた。指がそれを覚えている。次は、もっと深いところまで外す。
朝は手の違和感に数秒足を止めた。それで黒瀬を見失った。次は、手がどうなろうと止まらない。
一度踏み出したら、止まらない。
あの夜も、そうだった。
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