第一章 欠落②
鍵を閉め、チェーンをかけ、玄関に座りこむ。靴を脱ぐ気力もなかった。コートの肩が裂けて、中のシャツまで黒く汚れている。電柱で擦ったところだ。
手のひらを見る。あの温度はもうなかった。裏道を歩いているうちに、指先に集まっていた手つきはいつのまにか抜けていた。電車で戻るあいだにも何も来なかった。歩いて区境を越えなければ、たぶん来ない。今から外へ出て線を探す気にはなれなかった。
澪のスマートフォンは机の引き出しの中にある。あのグループに久世の名前があることを、もう一度この目で確かめたかった。引き出しに手をかけるたびに、坂を駆け下りてくる黒いコートが目の裏に浮かんで指が止まった。チェーンをかけたドアを何度も振り返った。あいつは俺の名前を知っていた。この部屋を知っていてもおかしくない。
夕方になって腹が鳴った。
朝から何も食べていない。冷蔵庫を開けると、しなびた長ねぎと、賞味期限の切れた卵が二つ、それに冷凍のうどんがあった。
料理は昔から駄目だった。澪がいた頃は、台所に立つたびに追い出された。「玲司が包丁持つと、まな板がかわいそう」。そう言って俺の手から包丁を取り上げるのが、あいつのいつもの手順だった。
台所の外では逆だった。
澪はよく道を間違えた。十字路に来ると、迷わず逆を選ぶ。
「そっちじゃない」
俺が言うと、澪は振り返って、なぜか嬉しそうな顔をした。
「知ってた」
「知ってたなら行くな」
「玲司が止めてくれるの、知ってたから」
道を正すのは俺だった。俺のほうがあいつの世話を焼いているつもりでいた。
この一年、食事はほとんどコンビニで済ませてきた。それでも今日は外に出る気になれなかった。
長ねぎを刻む。刻むというより叩き切る。三度目に刃を下ろしたとき、包丁の先がねぎの上を滑った。
左の人差し指に刃が入った。
深かった。指の腹がぱっくりと白く口を開けた。一拍おいて血がにじむ。にじむどころではない。まな板の上に赤い粒がいくつも落ちる。
おかしい、と気づいたのは、蛇口をひねって指を水に突っこんだときだった。
水の冷たさは分かる。傷口が水を吸って白く膨らむのも見える。
痛くない。
指を握ってみる。傷口が開いて、また血が溢れる。爪を傷の縁に立てる。押されている感触はある。皮膚が引っ張られているのも分かる。それなのに、その先にあるはずのものがすっぽりと抜け落ちていた。
シャツをめくると、電柱で擦った肩が赤紫に腫れ上がっていた。指で押しこむ。坂に叩きつけられた背中も、転がったときに打った膝も同じだった。押される感触はあるのに、どれ一つとして痛いと言ってこない。
あの坂で、久世の素手が俺の手首を掴んだとき。冷たい指が直に肌へ食いこみ、人差し指が一本白くなっていった。あのとき何かが抜けた。
抜けたのは、これだ。
水を止めて、タオルで指をきつく巻く。白いタオルが内側から赤く染まっていくのを、他人の手を見るように眺めていた。
しばらくして血が止まると、タオルの上からテープを何重にも巻いた。手当てと呼べるのはそれだけだった。
洗面台の下に救急箱があるはずだった。取り出そうとして、やめた。最後に開けたのがいつだったか、思い出せない。この一年、熱が出ても、どこかをぶつけても、放っておけばそのうち治った。治るまでのことは、考えないことにしてきた。
痛くなかった。それが、一つ目だった。
*
日付が変わっても眠くならなかった。
灯りを消して布団に入る。体は重い。坂を転がり、走り、指を切った体だ。疲れていないはずがない。それなのに意識の底がいつまでも明るいままだった。
澪は朝が弱かった。目覚ましが三回鳴っても起きない。四回目で布団から腕だけが伸びてきて、正確に目覚ましを止め、また引っこむ。
「澪。遅れる」
「……あと五分」
「さっきも五分って言った」
「さっきの五分は、さっきの私の五分だから」
意味が分からない。分からないのに、俺はいつも五分待った。
起こすのは俺だった。その俺に、今は眠気が来ない。
自分のスマートフォンに留守番電話が一件入っていた。
『もしもし、玲司?お姉ちゃんです』
姉の奏だった。多摩で母と暮らしている。後ろで電車の発車ベルが鳴っている。仕事帰りに駅からかけてきたのだろう。
『今日、一周忌だったよね。行った?……行ったよね。うん。無理しないでね。たまにはこっちにも帰っておいで。お母さんも、心配してるから』
折り返そうとしてやめた。今日、王に殺されかけた、とでも言うのか。
部屋の隅で仕事用の鞄が口を開けたままになっていた。中から赤と白に塗り分けられた細い杭がのぞいている。境界杭だ。後輩に代わってもらった立会いで使うはずだった。
線を引くのが俺の仕事だった。
窓の外が少しずつ白くなっていった。新聞配達のバイクが角を曲がっていく。どこかの部屋で目覚ましが鳴って、すぐに止まる。
一睡もしていなかった。それなのに瞼が重くならない。あくびも出ない。眠れない夜なら、この一年で何度もあった。だがそれとは違う。眠れないのではない。眠気というものが最初から来ないのだ。
タオルを巻いた左手が目に入った。
触れられたのは一度だった。久世の白くなった指は一本だった。痛みが消えた。眠気も消えた。
――二つ目だ。
一度触れられて、二つ抜けた。あの男に何をされたのか。俺の体に何が起きているのか。知らないまま次にあの坂で会えば、今度は何を抜かれるかも分からない。
俺は机の引き出しを開けた。画面の割れた澪のスマートフォンがそこにあった。
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