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【やり直し】王区 ~東京二十三区には二十三人の王が居る~  作者: 白川 透
第一部

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第一章 欠落②

鍵を閉め、チェーンをかけ、玄関に座りこむ。靴を脱ぐ気力もなかった。コートの肩が裂けて、中のシャツまで黒く汚れている。電柱で擦ったところだ。


手のひらを見る。あの温度はもうなかった。裏道を歩いているうちに、指先に集まっていた手つきはいつのまにか抜けていた。電車で戻るあいだにも何も来なかった。歩いて区境を越えなければ、たぶん来ない。今から外へ出て線を探す気にはなれなかった。


澪のスマートフォンは机の引き出しの中にある。あのグループに久世の名前があることを、もう一度この目で確かめたかった。引き出しに手をかけるたびに、坂を駆け下りてくる黒いコートが目の裏に浮かんで指が止まった。チェーンをかけたドアを何度も振り返った。あいつは俺の名前を知っていた。この部屋を知っていてもおかしくない。


夕方になって腹が鳴った。


朝から何も食べていない。冷蔵庫を開けると、しなびた長ねぎと、賞味期限の切れた卵が二つ、それに冷凍のうどんがあった。


料理は昔から駄目だった。澪がいた頃は、台所に立つたびに追い出された。「玲司が包丁持つと、まな板がかわいそう」。そう言って俺の手から包丁を取り上げるのが、あいつのいつもの手順だった。


台所の外では逆だった。


澪はよく道を間違えた。十字路に来ると、迷わず逆を選ぶ。


「そっちじゃない」


俺が言うと、澪は振り返って、なぜか嬉しそうな顔をした。


「知ってた」


「知ってたなら行くな」


「玲司が止めてくれるの、知ってたから」


道を正すのは俺だった。俺のほうがあいつの世話を焼いているつもりでいた。


この一年、食事はほとんどコンビニで済ませてきた。それでも今日は外に出る気になれなかった。


長ねぎを刻む。刻むというより叩き切る。三度目に刃を下ろしたとき、包丁の先がねぎの上を滑った。


左の人差し指に刃が入った。


深かった。指の腹がぱっくりと白く口を開けた。一拍おいて血がにじむ。にじむどころではない。まな板の上に赤い粒がいくつも落ちる。


おかしい、と気づいたのは、蛇口をひねって指を水に突っこんだときだった。


水の冷たさは分かる。傷口が水を吸って白く膨らむのも見える。


痛くない。


指を握ってみる。傷口が開いて、また血が溢れる。爪を傷の縁に立てる。押されている感触はある。皮膚が引っ張られているのも分かる。それなのに、その先にあるはずのものがすっぽりと抜け落ちていた。


シャツをめくると、電柱で擦った肩が赤紫に腫れ上がっていた。指で押しこむ。坂に叩きつけられた背中も、転がったときに打った膝も同じだった。押される感触はあるのに、どれ一つとして痛いと言ってこない。


あの坂で、久世の素手が俺の手首を掴んだとき。冷たい指が直に肌へ食いこみ、人差し指が一本白くなっていった。あのとき何かが抜けた。


抜けたのは、これだ。


水を止めて、タオルで指をきつく巻く。白いタオルが内側から赤く染まっていくのを、他人の手を見るように眺めていた。


しばらくして血が止まると、タオルの上からテープを何重にも巻いた。手当てと呼べるのはそれだけだった。


洗面台の下に救急箱があるはずだった。取り出そうとして、やめた。最後に開けたのがいつだったか、思い出せない。この一年、熱が出ても、どこかをぶつけても、放っておけばそのうち治った。治るまでのことは、考えないことにしてきた。


痛くなかった。それが、一つ目だった。


*


日付が変わっても眠くならなかった。


灯りを消して布団に入る。体は重い。坂を転がり、走り、指を切った体だ。疲れていないはずがない。それなのに意識の底がいつまでも明るいままだった。


澪は朝が弱かった。目覚ましが三回鳴っても起きない。四回目で布団から腕だけが伸びてきて、正確に目覚ましを止め、また引っこむ。


「澪。遅れる」


「……あと五分」


「さっきも五分って言った」


「さっきの五分は、さっきの私の五分だから」


意味が分からない。分からないのに、俺はいつも五分待った。


起こすのは俺だった。その俺に、今は眠気が来ない。


自分のスマートフォンに留守番電話が一件入っていた。


『もしもし、玲司?お姉ちゃんです』


姉の奏だった。多摩で母と暮らしている。後ろで電車の発車ベルが鳴っている。仕事帰りに駅からかけてきたのだろう。


『今日、一周忌だったよね。行った?……行ったよね。うん。無理しないでね。たまにはこっちにも帰っておいで。お母さんも、心配してるから』


折り返そうとしてやめた。今日、王に殺されかけた、とでも言うのか。


部屋の隅で仕事用の鞄が口を開けたままになっていた。中から赤と白に塗り分けられた細い杭がのぞいている。境界杭だ。後輩に代わってもらった立会いで使うはずだった。


線を引くのが俺の仕事だった。


窓の外が少しずつ白くなっていった。新聞配達のバイクが角を曲がっていく。どこかの部屋で目覚ましが鳴って、すぐに止まる。


一睡もしていなかった。それなのに瞼が重くならない。あくびも出ない。眠れない夜なら、この一年で何度もあった。だがそれとは違う。眠れないのではない。眠気というものが最初から来ないのだ。


タオルを巻いた左手が目に入った。


触れられたのは一度だった。久世の白くなった指は一本だった。痛みが消えた。眠気も消えた。


――二つ目だ。


一度触れられて、二つ抜けた。あの男に何をされたのか。俺の体に何が起きているのか。知らないまま次にあの坂で会えば、今度は何を抜かれるかも分からない。


俺は机の引き出しを開けた。画面の割れた澪のスマートフォンがそこにあった。

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