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【やり直し】王区 ~東京二十三区には二十三人の王が居る~  作者: 白川 透
第一部

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2/25

第一章 欠落①

息を吸うと、肺の奥で砂利がこすれるような音がした。


歩道の縁石に手をついて体を起こす。膝を立て、靴底で地面を踏む。豊島の側のアスファルトだった。


顔を上げると、久世はもう線のこちら側にいた。坂の少し上、俺と同じ豊島の側だ。足は止まっているのに、次に動くための形でそこに置かれているだけに見えた。


久世の足が地面を蹴った。


来る。


頭より先に体が線のほうへ動いた。いちばん近い線は左手の斜め上にある。走って三歩。久世が下りてくる道筋からは横に外れる。


一歩目で膝が笑った。二歩目で肩が誰かの鞄にぶつかった。三歩目で、俺は線を踏み越えた。


右足が文京に落ちる。


手のひらに温度が流れこんできた。


胸の奥で鳴っていた温度とは流れ方が違った。今度は指の先へ集まっていく。集まった温度が手の形を勝手に決める。素手で触れる。触れたものから何かを一つつまんで、外す。他人の癖がそのまま指に移ってきたような手つきだった。


懐かしい、と思った。理由は分からなかった。


分かるのは手の動かし方だけだった。何を外せるのか。何度使えるのか。使えばどうなるのか。何も分からない。


久世が線を越えてくる。


俺は背を向けて走った。走りながら頭の中で同じ名前を繰り返していた。澪。お前は、あの男と何をしていた。


坂の途中から細い路地が左へ分かれている。そこへ飛びこんだ瞬間、角から出てきた若い男と正面から肩がぶつかった。


「っと、悪い」


パーカーのフードを被った男だった。片耳にイヤホン。俺より少し年下に見える。男の手がよろけた俺の腕を一瞬だけ支えた。


その一瞬、頭の中を誰かに指でめくられたような感覚がした。


目眩だろう。さっき坂に叩きつけられたせいだ。俺は男の手を振り払い、路地の奥へ走った。背後で男が何か言ったような気がしたが、振り返らなかった。


路地は思ったより短かった。突き当たりに鉄の門がある。寺の裏手か、古い屋敷の通用口か。門扉には錆びた錠前がぶら下がっていた。


行き止まりだ。


足音が路地の入口に届いた。革靴の底が乾いた音で石畳を叩く。速度は落ちていない。


手の中の感覚は触れて何かを外す形をしている。人から外せるなら、物からも外せるかもしれない。


錠前を掴む。冷たい鉄の感触。この錠から「閉まっている」を外す。


開け。


何も起きなかった。


手の動きは合っている気がした。それなのに指先が何もつかまない。外すものが最初からそこにないみたいだった。もう一度握り直す。何も起きない。


俺は錠から手を離した。外せるものと外せないものがあるらしい。何が違うのかを考えている時間はなかった。


路地の入口に黒いコートが見えた。


俺は手近な自転車のハンドルを掴み、路地を塞ぐように横倒しに引き倒した。その奥の一台も倒す。室外機と自転車が互い違いに重なり、人ひとりがやっと通れた幅が鉄の骨組みで埋まった。


久世は路地へは入ってこなかった。


入口で足を止め、倒れた自転車と俺を見比べる。俺に触れるには、あの骨組みを一台ずつ越えてこなければならない。越えるあいだ久世の両手はふさがり、俺の手は空いている。久世はそれを確かめるように一度だけ俺を見て、坂の上へ戻っていった。路地の出口はあの坂にしかない。


自分が走れる場所で、待つ気だ。


俺は倒した自転車を乗り越えて路地を戻り、入口の手前で壁に背をつけた。坂の上と坂の下。どちらへ出ても、斜面の上にいるのは向こうだ。


息を三つ数えて、飛び出した。


坂の上から足音が来た。下り坂の勢いを全部そのまま乗せて、まっすぐ俺の正面へ。


俺は線の左側――文京の側を外れないように、坂を上へ向かって走った。手のひらの温度を手放したくなかった。距離が詰まる。久世の手がまた素手のまま前に出る。


ぶつかる寸前、俺は体をひねった。


縁石に足を引っかけるようにして横へ跳ぶ。肩が電柱を擦った。久世の指先が俺のコートの袖をかすめた。


久世はそのまま坂を下りていった。


止まろうとする動作は見えなかった。下り坂の勢いがそのまま久世を運び、坂の下まで一直線に流れていった。横断歩道を渡りかけていた老人が悲鳴も上げずに立ち尽くしていた。


俺は坂の上へ走った。上の角を曲がれば、文京の裏道がいくつにも分かれている。角の手前で一度だけ振り返った。


久世は坂のいちばん下にいた。動いていなかった。通勤の人々が遠巻きに王を見ている。だが久世が見ていたのは人々ではなかった。俺でもなかった。


坂の下で、久世は自分の右手を見下ろしていた。


分かれ道を三度曲がったところで足音を探すのをやめた。追ってくる音は最後まで聞こえなかった。車にも構わず突っこんできた男が、今さら人目を気にするとは思えない。右手を見ていたあの姿が引っかかったが、理由は分からなかった。


文京の裏道をどれだけ歩いたか分からない。十五分か、二十分か。文京の駅から電車に乗り、遠回りして豊島の部屋に戻ったのは昼前だった。

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