序章 一周忌
十月の朝は去年と同じ匂いがした。
坂の途中、アスファルトに埋め込まれた小さな金属のプレートの前で俺はしゃがむ。〈豊島区〉と〈文京区〉。二つの名前のあいだに細い線が一本刻まれている。
線は坂をまっすぐには横切っていない。坂の上から下へ斜めに走っている。下りる者から見て右が豊島で、左が文京だ。同じ坂を下りながら、人は知らないうちに区を行き来している。
仕事柄、こういう線を見ると測りたくなる。幅はおよそ三ミリ。坂の勾配は八パーセントほど。誰かが図面の上で決めて、誰かが地面に刻んだ線だ。俺も同じような線を何百本も引いてきた。土の下にはどこにも線なんてないのに。
澪がいなくなったのはこの線の上だった。
遺体は見つかっていない。残っていたのは乾いた血の跡と、画面の割れたスマートフォンだけだ。血の跡がどこにあったのかも、もう分からない。雨と靴底が一年かけて消していった。スマートフォンは今も俺の部屋の引き出しにある。割れた画面のまま、充電だけは切らしていない。
警察は事件と事故のあいだで一年迷い続けた。担当の刑事は三回替わり、最後の一人は澪の名前を読み間違えた。
今日は仕事を休んだ。境界確定の立会いを後輩に代わってもらい、理由を訊かれて「法事」とだけ答えた。
花を置く。白い菊は澪の趣味じゃない。あいつならきっと「お葬式みたい」と笑う。だから横にコンビニのプリンを並べた。あいつはプリンの棚の前で十分迷った。最後には俺が指さしたのを買うくせに。
蓋には百円のシールが貼ったままになっている。
通勤の人たちがしゃがんだ俺の背中をよけて坂を下りていく。誰も足を止めない。この一年、いつ来てもほかの花はなかった。
……馬鹿だな、と思う。
最後に交わした言葉を俺は一日も忘れたことがない。
あの頃の澪は知らない番号から電話がかかるたびに部屋を出ていった。廊下の突き当たりで声を落として話し、戻ってくると何もなかった顔で「ごめん、仕事」と言った。帰りは遅くなった。どこへ行っていたのか訊いても、笑ってはぐらかした。
あの頃、台所のカレンダーについた赤い丸を指して、澪が「これ、何の日だっけ」と訊いたことがある。二人が付き合い始めた日だった。自分で丸をつけたくせに、と俺が言うと、澪は一拍おいて「冗談」と笑った。
俺はそれを信じた。
ノートの隅に線を引きながら、ぽつりと妙なことを言う癖もあった。何本も何本も、定規も使わずにまっすぐな線を引く。
「境界は、自分の内と外を分けられないんだよ」
「何の話だ」
「なんでもない」
なんでもなくはなかったんだろう。何の話だったのかは今も分からない。分からないまま訊き返さなかったことだけが残っている。
消える前の晩、澪は日付が変わる頃に帰ってきた。靴を脱ぐ音がいつもより小さかった。俺はソファで待っていた。待っていたと思われたくなくて、テレビをつけていた。
「どこに行ってた」
「玲司には関係ない」
顔も上げずに澪はそう言った。
誰と会っているのか。何を隠しているのか。訊けば訊くほど澪が遠くなる気がして、それが余計に腹立たしかった。
「……じゃあ好きにしろよ」
「そうする」
それが最後だった。翌朝、澪はいなかった。その次の朝も。ベッドの半分は冷たいままで、洗面台には澪の歯ブラシが立っていた。
好きにしろ、と俺は言った。
あいつは、好きにした。
*
坂の上からジャージ姿の男が二人下りてくる。
「豊島の王様、また決まり増やしたってよ」
「マジか。今度は何」
「『いらない』って口に出すの禁止」
「それ前からじゃん」
二人は笑いながら線をまたいで文京区に入っていく。何の疑問もない顔で。
王様。この一年で何百回と聞いた言葉だ。この街の二十三の区には、それぞれ王がいる。朝のニュースでは港区の王の定例会見が天気予報の前に流れ、公園では子どもたちが王様ごっこをしている。坂の下の区役所の掲示板には、今も区長の名前と顔写真が貼られている。それをおかしいと言う者はいない。
一度だけ同僚に言ってみたことがある。一年前まで王なんていなかっただろう、と。同僚は困った顔で「疲れてるんだよ」と言った。それきり誰にも言っていない。
俺だけが覚えている。一年前までこの街に王なんていなかったことを。
立ち上がろうとして足がもつれた。しゃがみすぎて膝が固まっていた。よろけた拍子に、右足が豊島に、左足が文京に落ちる。
耳鳴りがした。
違う。耳鳴りじゃない。胸の奥で何かが鳴っている。長いあいだ止まっていた時計が、急に動き出したような音だった。
胸の奥が温かい。誰かの手のひらを内側から当てられているような温度だった。覚えのある温度だった。いつ、どこで触れたのかは思い出せない。
頭の内側に文字が浮かぶ。読んだ覚えのない文章なのに、意味だけが最初から知っていたように流れこんでくる。
**区境を越えた直後、直前に滞在していた区王の能力の複製を、一時的に使用できる。**
《越境》。
その名前もなぜか分かった。
指先が震える。怖いからじゃない。
この一年、手がかりはあった。けれど王たちの誰にも近づけなかった。
今、その壁を越える手段がここにあるのかもしれない。
文京に落ちていた左足を引き戻し、両足で豊島の側に立つ。それから線を越えて、文京区の側へ一歩踏み出した。
澪が消えた夜、東京に二十三人の王が現れた。
誰もそれをおかしいと思っていない。
俺以外は。
足音が聞こえたのはそのすぐあとだった。
坂の上。豊島の側から男が一人駆け下りてくる。黒いコートの裾が風をはらんで広がっていた。手袋をしていない両手。革靴の底がアスファルトを叩く乾いた音。
坂の途中の横断歩道で配送のトラックが急ブレーキを踏んだ。タイヤが鳴り、クラクションが長く尾を引く。男は速度を落とさなかった。バンパーの鼻先をコートの裾がかすめる距離で抜けてくる。振り返りもしない。
止まる気が最初からない走り方だった。
通勤の人たちが左右に割れる。誰も悲鳴を上げない。道の端に寄って、通り過ぎるのを待つ顔をしている。誰かが小さく「王様だ」と言うのが聞こえた。それで全部説明がついた、という声だった。トラックの運転手も窓から首を出しただけで何も言わなかった。
「黒瀬玲司」
男は俺の名を呼んだ。顔は知っていた。区王の会見映像で何度も見た顔だ。澪のスマートフォンに残っていた名前の一つ。この一年、何度も屋敷の門の前まで行って、一度も会えなかった男。
久世冬真。豊島の王だ。
「澪を知ってるな」
俺の声は自分で思ったより低かった。
とっさに右手を持ち上げていた。何をするつもりだったのかは自分でも分からない。胸の奥の温度だけがさっきより強く脈を打っていた。
久世は答えなかった。線の手前で足を緩めもしない。そのまま線を越え、文京の側にいる俺の目の前まで来る。あれだけ走ってきたのに、息ひとつ乱れていない。
目が合った。怒りでも憎しみでもなかった。決めたことを決めたとおりにやる人間の目だった。
「目を覚ましたな」
久世はそれだけ言った。俺の中で何かが鳴ったのを、坂の上から聞きつけてきたみたいに。
「お前は」
素手が袖口からのぞいた俺の手首を掴んだ。
冷たい指だった。手首の上で久世の手が一瞬ゆるむ。人差し指だけが根元から白く色を失っていくのが見えた。ほかの四本は血の通った色のままだった。
「生きていてはいけない」
次の瞬間、横から胸を突き飛ばされた。体が浮き、線を越えて、坂の右側――豊島の側に叩きつけられる。そのまま豊島側の歩道に沿って、二度、三度と坂を転がった。
花が散らばっているのが見えた。プリンの容器がからからと坂を転がっていく。仰向けになった俺の上に、十月のよく晴れた空があった。
何かが、抜けた。
それが何なのかを考える前に、久世が向きを変えた。靴音が線を越えて、もう一度こちらへ来る。さっきと同じ、止まる気のない足取りだった。
俺は豊島側のアスファルトに手をついた。
体の中で何が起きたのかはあとで考えればいい。
今は立って、逃げることだ。
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