61.愛して
断ってもいいですか、と。
バセットははっきりと言い切った。
溢れそうな気持ちを抑えて、俺はテーブルに手紙を置く。
その時、少し離れた場所で奏音ちゃんを後ろから抱きしめている明里さんと目が合った。
アリオーソが動くのが見えたから、俺は一旦この場を離れてふたりの側に歩み寄る。
明里さんは俺の顔を見て作り笑いを浮かべて、小さく呟いた。
「すみません。なんだか、ずっと様子がおかしいんです」
奏音ちゃんは黙り込んだまま、俯いている。
……これは、話が聞こえているのかどうかすら怪しいかもな。
明里さんは話を聞きつつ、彼女のことを見てくれていたんだと思う。
「申し訳ないのですが、私たちは一歩引いて見ています。でも『オルフェウス』は完全に当事者なので……」
普通に気になるけど、俺は異性だし、彼女の言う通り、身体は完全に当事者だ。
奏音ちゃんがデリケートな問題を抱えている可能性もあるし、離れた方が良いだろうね。
「分かった。……何かあれば、声掛けて」
そう言って、バセットの側へと戻る。
見ると、アリオーソがベッド傍で膝をついて、バセットに話しかけていた。
「なあ、バセット。どうしたんだよ」
「……」
「本当は落ち着ける時間がありゃ良かったんだろうが、今回、それが無いもんな……辛いよな……」
バセットが暴れる様子はない。ただ、話し出す気配もない。
アリオーソの方も落ち着いたトーンで話している。でも、割といっぱいいっぱいになってるな。
下手なことをすればバセットを刺激するって分かってるから頑張ってるみたいだけど、かなり参ってる様子だ。
「シベリウス。……待てて、どれくらいだ?」
アリオーソの言葉に対して、シベリウスは首を横に振る。
「申し訳ないけど、さっさと動かないと意味がないだろうね。本音を言わせてもらえば、今すぐに動きたいくらい。遅くなれば遅くなるだけ法令通すのが難しくなるだろうし、オフィクレイド側が何かしらやらかす可能性がある」
「……だよな」
問題は、バセットにその気が無いことだ。
実際のところはかなり有力な証言と現物があるだけで十分だとは思う。
どちらも確保できているから、本人の意思を無視して話を進めることはできなくもない。
間違いなく行われるだろう聴取の場で彼が変なことを言い出す可能性は普通にあるけど、これに関しては多少なら誤魔化しが効くと思う。
……でも、それで良いんだろうか?
何を言って良いのか分からなくなってしまったのか、アリオーソは立ち上がってバセットの頭をわしゃわしゃ撫でる。弟のような存在を見下ろす鮮やかな黄緑色の瞳が、酷く不安げに揺れていた。
彼の動きに合わせて揺れる、綺麗な黒い髪を見て、思う——この子は、家族に愛されて育ったんだろうな、と。
アリオーソは生まれた瞬間から王子に仕える運命が決まった少年だから、間違いなく、とんでもなく厳しく育てられているはずだ。
オルフェウスの記憶を見るに、彼が幼い頃は生傷が絶えなかったようだし、泣き言を漏らすこともあった。それでも彼は立ち上がり続けて、今がある。
厳しさの中に確かな愛情があったことを、アリオーソは分かっているのだと思う。
誰が見ても親子だと分かる、両親の良いとこ取りをしたような容姿もそうだ。
——同じ騎士家系なのに、アリオーソとバセットは何もかもが真逆なんだ。
それを理解していれば、彼が言葉を失くすのは当然だ。
何を言ったって、皮肉にしかならないんだ。
「……」
そして、同じく黙りっぱなしのラウダも同じだ。
学園内で壮絶な経験をしているせいで不安定さは残っているけれど、彼も家族に関しては相当に恵まれている。本人にも強い自覚がある。だから今、ここで何かを言えるはずがない。
そういう俺も、家族関係で深く悩んだことは無いんだよな。
そりゃ親や姉さんと口喧嘩くらいは何度もしたし、立派に反抗期やってた時期もある。
割ととんでもないクソガキだったと思うけど、よく言う姉弟格差みたいなのを感じたことすらない。
だから、かな。
俺にはバセットが、何を思ってシベリウスの提案を拒んだのかが理解できない。
……強いて、言うなら。
「バセット」
俺が声を掛けたことに気づいて、アリオーソがバセットの前から離れる。
その気遣いに感謝しつつ、俺は彼がいた場所に膝をついた。
「死にたいってわけじゃないんだよね?」
バセットはただただ諦めているだけで、希死念慮の類があるようには見えない。
どうせ死ぬなら早く、できれば楽に、という希望があるだけだ。
死にたいわけではなく、長々と苦しむのは嫌だと言っているだけだ。
「……」
「だったら、僕らの手を取ってくれないかな? ちゃんと助けるから」
この場には王太子と第二王子、しかも公爵令嬢と侯爵令息までいる。
何なら、バセットの味方になってくれる人間は他にもいるはずだ。
今すぐに動けば、シベリウスの案を通せるはずだ。彼を生かすことが、できるはずだ。
「いっそ国外に行くって方法もあるよ。今なら、簡単に逃がせると思うから」
不確実性があるから、あまり取りたくない手ではあるけど、亡命という手段もなくはない。
いざという時のためにバルカローレと同じ言語圏で、似た文化を持つ国をいくつか調べている。
そのどこかに行ければ、強引な手ではあるけど連座処刑から逃れることはできるだろう。
「……」
それでもバセットは、黙ったまま俯いている。
彼は血が出そうなほどに強く握りしめている右手の上に、静かに左手を添えた。
「バセット、大丈夫だから。怖くないよ」
もしかしたら、俺たちが信じられないのかもしれない。
拷問に掛けられるかもしれないとか、そういうことを考えているのかもしれない。
だったら、どうにか安心させてやるのが正解だろうか。
その時。
微かに少女の声が聞こえたような気がした。
「……、……」
振り返ると、奏音ちゃんがぽつぽつと何かを呟いているらしい。
そして彼女は、顔を上げて叫んだ。
「そういう問題じゃ、ないんですよ!!」
ターコイズブルーの瞳から、ぼろぼろと涙が溢れている。
これにはバセットも反応した。この場にいた全員が、奏音ちゃんを見ている。
「生きたいとか死にたいとか、そういう問題じゃ、なくて……っ、家族に、親に愛されたいって……離れたくないって、それだけのこと、なんですよ……!」
「奏音、ちゃ……っ」
名前を呼んでしまって、ハッとして口を覆う。
誰も反応していない。奏音ちゃんから、目を逸らせない。
「どれだけ酷い目にあったって、どれだけ辛い思いをしたって、それでも、どうしても……どうしても、嫌いになれないんです。『信じたい』って気持ちが、抜けないんですよ……!」
流れる涙を、強引に袖口で拭う。
どうにか必死に笑おうとしているのが、分かる。
頑張って頑張って、ようやく彼女は歪な笑みを浮かべた。
「信じてもらえないと思いますけど……あたしには、前世の記憶っていうのがあるんです」
それは『セレナ・ルバート』ではなく、『月ヶ瀬奏音』としての言葉。
本当は、話させるべきではないのかもしれない。それでも、俺も明里さんも到底止める気にはなれなかった。
「あたし、小さなアパートで……小さな、家で。お母さんと、ふたりで暮らしてたんです……」
シベリウスたちも何も言わず、黙って話を聞いていた。
彼らも、奏音の必死な様子を見て思うところがあったんだと思う。
「ふたりだった時は、幸せだったんです。あんまり裕福じゃなかったんですけど、お母さん、あたしの誕生日はすごく祝ってくれて。その時に流行ってる物を、高い物でも関係なく買ってくれたことが何回もあって……嬉しかった」
ゲーム機とか、その辺りかな。
環境にはよるけど、母子家庭でってなると確かに大変だと思う。
「あたしが11歳の時に、お母さんに、彼氏ができたんです。お母さん、お父さんが死んでから……ずっとひとりで頑張って、あたしのこと育ててくれたから……っ、
あたし、あたしは……っ、その人に殴られても蹴られても、家から放り出されても、我慢しようって……我慢、してて……」
……嘘、だろ。
「お母さんが幸せそうに笑ってるのが、嬉しかったんです。邪魔したくなかったんです。お母さんの幸せを、壊したくなかったんです……!」
奏音ちゃんと出会った日のことを、数ヶ月前のことを、思い出す。
『月ヶ瀬奏音。18歳です。……だから享年は、16歳ですね』
あまりにも、若すぎる死。
衝撃を受ける俺たちの前で、彼女は誤魔化すように笑った。
『死んじゃいました。……えへへ、理由は聞かないでもらえると嬉しいです』
理由は聞かないで、と言った。
だから、触れなかった。
「何度も、周りに相談しようと思いました。でも、こんな話をしたら引かれるんじゃないかって……学校にも行かせてもらえてて、たまにはお小遣いもくれるし、高校生になってから勝手に始めたバイト代を取り上げられることもなくって。それなのに『辛い』っていうのは、あたしの甘えなんじゃないかって……」
……そういえば彼女が、転生者会議中に妙な反応をしたことがあった。
「そう思ったら、誰にも、何も言えなくて……っ、誰かに頼る気には、なれなくて……っ! 引かれるのも、甘えだって言われるのも、嫌で……そんなこと考えてるうちに、誰のことも信じられなくなって……!」
『今のバセットでも多分、それこそ親友レベルの関係性を誰かと築くのはかなり難しいタイプだと思いますよ。……まあ、広く浅い付き合いなら、余裕で出来そうですが』
「お母さんを恨もうって、変な彼氏を連れ込んできて、助けてもくれないお母さんを嫌いになろうって……あたしは何も悪くないんだって、そう思おうとしました。でも……っ、でも……!」
『いっそ、親を嫌いになれたら。期待せずにいられたら。本当に楽なんでしょうけどね』
「お母さんが好きだって気持ちは、愛して欲しいって願う気持ちは、最後の最期まで消えなかった……!」
彼女が妙な反応をした時の話題は、どちらもバセットの話だった。
俺にも明里さんにも分からないバセットのことを、彼の思いを、奏音ちゃんだけは機敏に察知できていた。
「……っ、消えて、くれなかったんです……!」
それは、奏音ちゃん自身も抱いていた感情だったからだ。
——たとえ命を落としても、消えることのない願いだったからだ。
そのまま泣き崩れた彼女の身体を、明里さんが支える。
一緒になって座り込んだ彼女もまた、泣いていた。
「……」
そんな時、布擦れの音が聞こえた。
視線を、動かす。バセットが、申し訳なさそうに眉尻を下げていた。
「おれの、せい……ですね。酷いこと思い出させて、口にさせちゃって……辛い思い、させてしまいましたね……」
声が、震えている。
そして彼は、重い口を開いた。
「……。そうですよ。おれ、馬鹿みたいなこと、考えちゃったんです」
口元が、歪に弧を描く。
「ひとりだけ生き残って、どうするんだって……そうなったらもう、一生叶わないじゃないかって……意味、無いじゃないかって」
家族が死んでしまえば。
ひとりになってしまえば。
——彼が『家族』から愛されることは永遠にないだろう。
「分かってます。……ちゃんと、分かってるんです。どれだけ願ったって、それは手に入らないんだって。本当は、本当はずっと前から分かってました。気づいてました」
握りしめていた右手の拳に左手の爪を立てて。
彼は、精一杯笑った。
「あはは、馬鹿っすよねー」
どうして。
どうして笑うんだよ。
どうして今、自分を作るんだよ。
「自分は本当に救いようが無い人間っすね。本当に愚かな人間だなって思うっす」
「……バセット」
「呆れてもらって良いっすよ。ていうか、呆れられて当然というか。シベリウス殿下は、自分を助けるために色々言ってくれたのに、それを突き放すような真似をして……ほんと、情けな——」
「バセット!」
腕を、伸ばす。
そのまま、バセットの身体を抱き込んだ。
「オルフェウス殿下……?」
「何が……何が馬鹿だ! 何が愚かだ! 呆れるもなにも、そんなの、当たり前の願いだろ!!」
ただ、愛されたかった。
バセットも、奏音ちゃんも。
——それ以外、何も望んでいなかったのに。
「君は何もおかしなことは言ってない! 子どもが親の愛を欲しがって、何が悪いんだよ!!」
この子は、そんな小さな願いさえ踏み躙られた。
それなのに自分を馬鹿だと言う。甘えていると、情けないと言う。
馬鹿なのは、親の方だろうが!
この子が自分を蔑む必要なんて、どこにもないだろう!?
「オルフェウス殿下……あの、自分は、大丈夫。大丈夫っすから……」
「そういうのはもう、良いんだよ!!」
とにかく、演じることを覚えた。
周りに嫌われないように、振る舞うようになった。
本心は語らず、誰かに手を伸ばすこともなく。
ただただ、顔色だけを窺う日々——そんなの、おかしいだろ!!
「……っ、君は、君たちは、何も悪くないんだよ……っ!」
この子たちが、一体何をしたって言うんだよ!
産まれてきたことが、そこにいることが、罪だっていうのか!?
「無理ばかりして、我慢ばかりして……弱音を吐くことさえ、簡単には、できなくなって……」
どちらも様子がおかしい時はあったのに、俺は追いかけなかった。
嫌がられようが、逃げられようが、もっと踏み込めば良かった。
せめて『何を言っても大丈夫な人』、『気にかけてくれる人』でありたかった。
「気づけなくて……ごめん……」
涙が、止まらない。
良くないのは分かってる。
でも、もう、どうしようもなかった。
「バセット……俺のせいで、余計に苦しませて……ごめんな……」
彼の頭を撫でる。
金色の美しい髪が、指と指の間に入り込む。
「だから、なんで……なんで、あなたが謝るんですか……?」
弱々しく、か細い声が返ってきた。
「おれは、あなたを殺していたかも、しれないのに……どうして、泣くんですか……?」
肩が、身体が、震えている。
この子が今、抱いている感情は分からない。
俺ができるのは、この子の傍にいることだけだ。
「どう、して……」
ぎゅっと、服を掴まれた。
いなくならないで、と。傍にいて、と。
音のない願いが、聞こえたような気がした。
「っ、ふ……っ、うっ、うぅ……っ、あ……」
「……バセット」
腕に力を込める。
脆く崩れてしまいそうな子どもに、ここに居るよと訴えかける。
「うあああぁあ……っ」
顔は見えない。
けれど、堰を切ったように、彼が泣き出したことは分かった。
——バセット・アリアダ・オフィクレイド。
彼の告発により、新たな革命に加担する人間の存在が暴かれた。
国内の下位貴族たちを抜き打ちで調査したところ、多数の関与、不正が発覚した。
中でもオフィクレイド男爵家は王太子の殺害を企て、息子にその実行を繰り返し命じた。
しかし一向に実行されないことに業を煮やし、ついには毒薬を用意して封筒に入れ、学園内へ送りつけるという、決して許されない大罪を犯した。
よって爵位剥奪の上、一族は公開の場で斬首刑に処された。
なお告発者である彼に関しては『告発者庇護令』の対象者であると認められ、斬首刑は適用されなかった。
爵位剥奪に伴って彼は平民に降ることになったが、国に対する貢献度の高さを鑑みて、それ以上の刑罰は課せられないことが決定された。




