26話 新しい朝
小森は目覚めと同時に、今まで感じたことのない程の爽快感に身を震わせた。
寝起きとは思えないほど意識はスッキリして、視界がより開けて見えるのだ。
「おお……なんだか力がみなぎるぞ……」
万能感とでも呼ぶべきか。
電気を点けていないはずの部屋なのに天井の染みまでしっかりと見えている。
頰をつねって夢かどうか確認する気も起きないほど意識は鮮明で、体は思いのままに反応する。
試しに『ベッドから手を使わずに起か上がる』ことが出来るかを試してみる事にした。いわゆる飛び跳ね起きというやつだ。
「んー……ほいっ!」
くの字に曲げた体をバネが弾む要領で力を込めると、オリンピックの体操選手よろしく、両足から綺麗に着地することができた。
シミュレーションしたとおりに身体が動き、寸分違わぬ結果をもたらしたのだ。
「よく分かんないけど、俺、進化した……?」
低気圧が過ぎ去って調子がいいとかいう理由では到底足りないほどの変化だ。
猿がゴリラになったとか、鶏が空を飛べるようになったとか、そういう次元の変化である。それはもはや進化と形容した方がしっくりくる。
たくさんの疑問符を周囲に浮かべたあと、一旦それらを保留にして部屋を出た。
廊下は暗く、照明のスイッチを切り替えても反応しない。どうやら、まだ停電から復旧していないようだった。
リビングの方からわずかな明かりと揺らめく影法師が見える。
誰かが先に起きてきているらしい。
気分の良くなっていた小森は、自分が灯りを持っていないことと、『暗視』が出来るようになっていたこともあって、ちょっとイタズラをしてやろうと考えた。
廊下の角からリビングを覗く。
誰かがこちらに背を向ける形で席に着いているのが見えるが、ローソクの明かりが逆光になって判然としない。
しかし、そのシルエットがどうにも不思議な形をしていた。
頭の方から二つ、大きな影が伸びてぴこぴことせわしなく動いているのだ。
心音の高まりを感じる。
これは……このシルエットはどう考えても獣の耳だ!
すでに小森からはイタズラをしようなどという気持ちは消え去り、目の前にいる動物が何なのかを確認する事で頭がいっぱいになっていた。
一歩ずつ距離を詰めていくにつれて、正体が見えてくる。
それは予想していた通り、獣の耳であることが分かった。
豊かなベージュ色の毛に覆われた耳の主は、何やら机の上に本を広げて読んでいるようだった。
「……ぬん♪」
機嫌良さそうにページをめくる手は、やはりベージュ色の毛に覆われてもふもふである。
小森は口から心臓が飛び出さないよう、左手を口にあてた。
なんだこれは! ヌーがもモフモフヌイグルミみたいになってる! 僥倖!
制御不能の感情を抑えることに精一杯になっている小森は、無自覚に右手が伸びていることに気付かない。
「……ぬん♪」
そして、ヌーがページをめくった瞬間。
小森の右手は無意識にヌーの『ケモ耳』を撫で上げた。
「ぬ。ぬわぁーーーーっ!?」
「あ、すまん」
ヌーは椅子から転げ落ち、そのまま四つん這いになり威嚇のポーズをとったかと思うと、バランスを崩してうつ伏せに倒れた。
「……ぬあぅー。」
ヌーは力なく腹ばいになり、目をバッテンにした。
今やヌーの一挙手一投足が小森のケモナー琴線に触れている。
「かっかわいい……! それ、着ぐるみ……じゃないよな!? どうなってるんだヌー!」
「ぬうぅ……。起きたらこうなってた。」
「もっとよく見せてくれッッ」
ぬーぬーと悩ましげな声をあげながら身体を隠そうとするヌーだが、実際のところ、あまり隠せていない。
手足が少し短くなり、代わりに胴体が伸びているので手の届く範囲が狭くなっているのだ。
といっても全身がふわふわの毛に覆われているので、特に隠す意味はない。
「なんてこった……」
小森は震えた。
まるで猫が二本足で立っているみたいだと思った。
下半身はタオルを巻いているのでよくわからないが、巻いている位置的に、腰はだいぶ低いところにあるらしい。
人と獣の間の絶妙なバランスの存在になったヌーを見て、小森は我を失っていく。
「ヌー、吸ってもいいか」
「……は?」
小森はそう言うなり、ヌーを持ち上げた。
「こう、顔をうずめてだな」
スゥーーーー。
「ぬわぁーーー!?」
伸びきったヌーの胴体に顔面を押し付ける小森。ふかふかの毛に埋もれながら、恍惚の表情を浮かべていた。
「ッハァ……めっちゃいい匂いだぞぉヌー……」
「もっ……もうやめろよぉっ。へんたいっ。」
ヌーは離れようとしない小森の後頭部を何度も打ちつけた。
しかし、ふかふか肉球パンチは小森を気持ちよくさせるだけである。
「ッスハー! このくせになる匂い……晴れてる日のインコみたいな――」
「小森さん! 大変です! 外! 外が!」
あかりが玄関側から顔を出すと、懐中電灯をぶんぶんと振り回しながら叫んだ。
「ぐわぁ! 眩しい! 」
「あっ、すみません」
小森が強烈な閃光をうけて怯んだスキに、抜け出したヌーは玄関の方へと向かった。
「外がなんだって? まだ停電が復旧しないのと関係があるのか」
「ええっ、ええっ、大いに! とにかく来てください」
取り乱すあかりに言われるまま、小森は玄関へ向かう。
台風の影響で電柱でも倒れているのかもしれない。
あるいは浸水の被害か。
とにかく、良くない事が起きているのは確かだろう。
あらゆる最悪の想定をすることで、何があっても動じないよう心に保険をかけた。
「なんだ。これ。」
開いた扉に手をかけたまま、ヌーが固まっている。そこから外に出るでもなく、呆然と立ち尽くしていた。
「ヌー、外はどうなっ……て…………?」
「森……。」
ヌー越しに見えた世界は、一言で言うと、森だった。
電柱はおろか、小森たちの知る木漏れ日通りの面影はなく、コンクリートや鉄筋の代わりに、大自然の木々が悠々と生えている。
どこを見ても自然のものしかない。
木。枝。
草。葉。
岩。土。
まるで、最初からここは大自然の森の中で、小森たちの方が異物であるかのように、見渡せば見渡すほど存在感の差を突きつけられた。




