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赤地区動乱編 悪の秩序、その輪郭3

          3


「悪いな、俺の分まで出してもらって」

「なに、気にする必要はないよ。昨夜のお詫びなんだから」


 朝食を終え、店主に六十クレドを支払って宿の修繕を回避した凰乃(おうだい)は、その足で赤地区へと向かっていた。

 灰地区の朝は遅い。夜の喧騒がようやく引いて、代わりに生活の音だけが残っている。煤けた壁にもたれて眠る男、空き瓶を蹴って走る子供、崩れかけた屋根の下で湯気を立てる小さな鍋。誰もが口数少なく、マイペースに過ごしていた。


「灰地区はまだおねむのようだね」

「ここの連中が動き出すのは昼からだ。朝から活動するようなこともないしな」

「宿の客もそうだったね。朝食のときに私たちしかいなかったのは宿の修繕が嫌で逃げ出したのかと思ったけど、あれはまだ寝てただけなんだね」

「ただでさえ昨夜に暴れたあとだからな。寝てるやつもいるし、単純に気を失ってるバカもいるだろう」

「キミは早起きなんだね」

「目が覚めただけだ。いつもならまだ寝てる」

「ふふっ、そうか」


 含みのある笑みを浮かべる凰乃に、モルは顔を顰めた。


「言いたいことがあるなら言え」

「そう?」


 と凰乃はモルの顔を覗き込んだ。


「私のことが気になってたんだろう?」

「危ねぇ言い方してんじゃねぇよ」


 モルは鬱陶しそうに視線を外す。


「まぁお前がここに来た訳を知りたかったのは事実だ」

「ならもういいんじゃないかい? 知りたいことは知ったのだから、わざわざついてこなくてもいいんだよ」

「……そうなんだよな」


 自分でも不思議だとでもいうように、モルは禿頭を撫でながら苦笑した。

 凰乃としては煽ったつもりなのだが、まさかの反応に似たような表情を浮かべる。

 モルは進行方向のさらに先。赤地区のある方を見つめながら言った。


「……悪の秩序を作る」

「?」

「お前言ってたな。善人を守るためでも、世界を良くするためでもなく、悪が悪でいられる場所を作りたいって」

「ああ」


 と凰乃は頷く。


「犯罪都市と呼ばれる国なら、私の目的を試すにはもってこいだと思った。まずはどの地区に行こうか迷ってたけど──赤地区を勧めた理由はなんだい?」


 凰乃が赤地区へと向かっている理由。

 他国で耳にした三つの悪を見て回るため、まずはどこへ行こうか考えていたとき、モルが提案してきたのだった。


「意外だったよ。私の目的を聞いて関わろうとするなんて」

「そんなつもりはねぇよ」

「そうなのかい? その割には、親切にもこうして付き合ってくれてるじゃないか。自分から提案した手前、私一人で赤地区へ向かわせるのは気が引けたとか?」


 からかうようにモルの顔を覗き込む凰乃。


「うるせぇな」


 とモルはその顔を払った。

 楽しそうに笑う凰乃を見て、モルは再度ため息を吐く。


「悪が悪でいられる場所──赤地区はまさにそういう場所だ」


 モルの言葉に、凰乃は小さく頷いた。


「そのようだね。赤地区を支配するカラーギャング、猩々緋(しょうじょうひ)。彼らが街の治安を守ってる、と噂で聞いたよ」

「赤地区は他と比べ、比較的死人の出ない街だ。喧嘩はあるが無差別ではないし、夜も子供が出歩ける」

「犯罪都市とは思えない場所だね」

「……そうでもねぇよ」


 苦笑するモルに、凰乃は小首を傾げた。


「悪がより強い悪によって……いや、わかりやすく言うと、暴力がより強い暴力によって、だな。猩々緋という暴力装置が機能してるから、市民の安全が確保されている。まぁよくある話だ。新境連邦(しんきょうれんぽう)に属す国の治安を守る別天全席(べってんぜんせき)だって、いわば異能犯罪の暴力装置だ。赤地区では猩々緋が担ってるってだけ」

「キミが赤地区に住まない理由もそれかい?」


 凰乃の問いに、モルは暫し沈黙した。

 犯罪都市と呼ばれるラディウムで、赤地区は治安が維持されているほうなのだろう。話を聞くに、安全に住むのなら赤地区は最適だと思う。

 凰乃は急かすことなく黙って隣を歩きながら答えを待っていると、


「赤地区は暴力による秩序だ」


 とモルは億劫そうに口を開いた。


「一般市民にとってまだマシな考えを持つ猩々緋が支配してるから治安が保たれているが、連中が潰れたらどうなるかわからない。ただでさえ他の地区と争ってるのに、赤地区は赤地区内でも小競り合いが絶えねぇんだよ。暴力を管理する悪がいつ入れ替わるのか。常にだれかを殴り続けなければ保たれない街。暴力が見えないように配置された街」


 それが赤地区だ、とモルは言った。


「息苦しくて住んでられないだろう」


 前を見据えるモルの横顔を見上げながら、凰乃は小さく微笑んだ。

 噂に聞いていた赤地区は、犯罪都市の中で一番安全という話だった。

 しかし、実際にラディウムに住むモルが話した内容は、噂はあくまで噂でしかないということの証明だった。大きく外れてはいないが、あくまで表面的なことだけが伝わっている。その事実が面白く、赤地区に対する凰乃の期待は膨らむばかりだった。

 二人並んで歩く道は、朝の灰地区を抜け、緩やかな上りになっていた。灰地区は瓦礫や砂利が至るところに転がっていて、カラカラに乾いた硬い地面だったが、徐々に手入れがされた道へと変わっていく。踏みしめる地面は柔らかく、凰乃の小さな足跡がつくほどだ。景色にも彩りが出て、草木が目に付くようになる。


「赤地区が近いのかな」

「空気が違うだろ」

「うん、いい匂いがするね」


 そういう意味じゃねぇんだけどな、とモルは苦笑した。

 凰乃も冗談を言っただけだが、実際に油の焼ける香りが鼻腔をくすぐる。甘く焦げた匂いに、香辛料の刺激が重なって腹の奥が小さく鳴った。


「相変わらず、腹の減る匂いだな」


 モルがぼそりと呟いた。

 人の往来も増えていく。灰地区では伏し目がちだった視線が、ここでは前を向いている。挨拶を交わす声も聞こえる。笑い声もある。賑やかで明るい。危険な匂いもしない──ただ、空気の奥に張り詰めたものがあった。

 やがて道はゆるやかな角を曲がる。

 その先に、赤い灯りがいくつも揺れていた。

 提灯の光。屋台の炎。人の営みで溢れる街。

 境界に柵はなかった。門も看板もない。ただそこから先だけが、別の街の匂いをしている。

 凰乃は一歩踏み出しかけて──止まった。

 通りの脇に立つ男たち。彼らの身体には赤い布が巻かれていた。頭に巻く者、腕に巻く者、腰に巻く者など、どこかしらに赤が主張している。

 視線が合う。

 敵意はない。

 だが、値踏みするような沈黙があった。

 凰乃は小さく息を吸う。

 背後の灰色の街が、酷く遠く感じられた。

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