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「悪いな、俺の分まで出してもらって」
「なに、気にする必要はないよ。昨夜のお詫びなんだから」
朝食を終え、店主に六十クレドを支払って宿の修繕を回避した凰乃は、その足で赤地区へと向かっていた。
灰地区の朝は遅い。
夜の喧騒がようやく引いて、代わりに生活の音だけが残っている。
煤けた壁にもたれて眠る男。空き瓶を蹴って走る子供。崩れかけた屋根の下で湯気を立てる小さな鍋。誰もが口数少なく、思い思いに朝を過ごしていた。
「灰地区はまだおねむのようだね」
「ここの連中が動き出すのは昼からだ。朝から活動するようなこともないしな」
「宿の客もそうだったね。朝食のときに私たちしかいなかったから、修繕が嫌で逃げ出したのかと思ったよ」
「ただでさえ昨夜に暴れたあとだからな。寝てるやつもいるし、単純に気を失ってるバカもいるだろう」
「キミは早起きなんだね」
「目が覚めただけだ。いつもならまだ寝てる」
「ふふっ、そうか」
含みのある笑みを浮かべる凰乃に、モルは顔を顰めた。
「言いたいことがあるなら言え」
「そう?」
と凰乃はモルの顔を覗き込んだ。
「私のことが気になってたんだろう?」
「危ねぇ言い方してんじゃねぇよ」
モルは鬱陶しそうに顔を逸らした。
「まぁお前がここに来た理由を知りたかったのは事実だ」
「ならもういいんじゃないかい? 知りたいことは知ったんだから、わざわざついてこなくてもいいんだよ」
「……そうなんだよな」
自分でも不思議だとでもいうように、モルは禿頭を撫でながら苦笑した。
凰乃としては煽ったつもりなのだが、まさかの反応に似たような表情を浮かべる。
モルは進行方向のさらに先。赤地区のある方を見つめながら言った。
「……悪の秩序を作る」
「?」
「お前言ってたな。善人を守るためでも、世界を良くするためでもなく、悪が悪でいられる場所を作りたいって」
「ああ」
凰乃は頷く。
「犯罪都市と呼ばれる国なら、私の目的を試すにはもってこいだと思った。まずはどの地区に行こうか迷ってたけど──赤地区を勧めた理由はなんだい?」
凰乃が赤地区へと向かっている理由。
他国で耳にした三つの悪を見て回るため、まずはどこへ行こうか考えていたとき、モルが赤地区を提案してきたのだった。
「意外だったよ。私の目的を聞いて関わろうとするなんて」
「そんなつもりはねぇよ」
「そうなのかい? その割には親切にもこうして付き合ってくれてるじゃないか。自分から提案した手前、私一人で赤地区へ向かわせるのは気が引けたとか?」
からかうようにモルの顔を覗き込む凰乃。
「うるせぇな」
とモルは鬱陶しそうにその顔を押し退けた。
楽しそうに笑う凰乃を見て、再度ため息を吐く。
「悪が悪でいられる場所──赤地区は、まさにそういう場所だ」
「そのようだね」
凰乃は小さく頷いた。
「赤地区を支配するカラーギャング、猩々緋。彼らが街の治安を守ってる、と噂で聞いたよ」
「赤地区は他と比べりゃ、死人の出ない街だ。喧嘩はあるが無差別じゃねぇし、夜も子供が出歩ける」
「犯罪都市とは思えない場所だね」
「……そうでもねぇよ」
苦笑するモルに、凰乃は小首を傾げた。
「悪がより強い悪によって……いや、暴力がより強い暴力によって抑え込まれてる」
「暴力で、暴力を?」
「ああ。猩々緋という暴力装置が機能してるから、住民の安全が保たれてる。まぁよくある話だ。新境連邦に属す国の治安を守る別天全席だって、見方を変えりゃ異能犯罪に対する暴力装置だ。赤地区では猩々緋がその役目担ってるってだけだ」
「なるほど」
凰乃は僅かに目を細めた。
暴力をなくしたわけではなく、欲望を否定したわけでもない。より大きな暴力を置くことで、他の暴力が向かう先を制限している。
つい先ほど、自分が語ったことを思い出す。
──悪が間違った相手に向かわないために。
──悪が安易な方へ流れ落ちないために。
「……面白いね」
小さく漏れた言葉に、モルが横目を向ける。
「何がだ?」
「いや、実際に見るのが楽しみになっただけさ」
微笑んだ凰乃がモルを覗き込んだ。
「キミが赤地区に住まない理由もそれかい?」
その問いに、モルは暫し沈黙した。
犯罪都市と呼ばれるラディウムで、赤地区は治安が維持されているほうなのだろう。話を聞くに、安全に暮らすことだけを考えるなら、灰地区よりもずっと適しているはずだ。
凰乃は急かすことなく、黙って隣を歩きながら答えを待っていると、
「赤地区は、暴力による秩序だ」
とモルは億劫そうに口を開いた。
「住民にとっちゃまだマシな考えを持つ猩々緋が支配してるから、今は治安が保たれてる。だが、連中が潰れたらどうなるかわからなねぇ。ただでさえ他の地区と争ってるってのに、赤地区は赤地区内でも小競り合いが絶えねぇんだよ。誰が一番強いのか、誰が暴力を管理するのか。いつそいつが入れ替わるのか──常に誰かを殴り続けなければ保たれない街。暴力が見えないように配置された街」
それが赤地区だ、とモルは言った。
「息苦しくて住んでられないだろう」
「安全なのに?」
「ああ」
モルは迷わず頷いた。
「灰地区じゃ殴られるのも殴り返すのも自分の勝手だ。赤地区じゃ、その喧嘩にまで誰かの都合がついて回る。俺には合わねぇよ」
「……そうか」
肩を竦めるモルの横顔を、凰乃は見上げた。
しばらく眺めていると、自然と口元が緩む。
少しだけ、この男を気に入った理由がわかった気がした。
噂に聞いていた赤地区は犯罪都市の中でも一番安全という話だった。しかし、実際にラディウムで暮らすモルが語る赤地区は、それだけではない。
噂は間違っていない。
ただ、表面しか伝わっていないのだ。
平穏はある。それを維持するために、見えないところで暴力が使われ続けている。
その事実が面白かった──自分の考える『悪の秩序」と、どこか似ている。
だからこそ、どこか違うのか、凰乃は知りたくなった。
二人並んで歩く道は、朝の灰地区を抜け、緩やかな上り坂へと変わっていた。瓦礫や砂利が転がっていた乾いた地面も、徐々に手入れがされた道へと変わっていく。踏みしめる地面は柔らかく、凰乃の小さな足跡が残るほどだ。景色にも彩りが増えて、灰地区ではほとんど見なかった草木が、道端にちらほらと姿を見せ始める。
「赤地区が近いのかな」
「空気が違うだろ」
「うん、いい匂いがするね」
そういう意味じゃねぇんだけどな、とモルは苦笑した。
凰乃も冗談を言っただけだが、実際に食欲を刺激する匂いが鼻腔をくすぐっていた。油の焼ける香。甘く焦げた匂い。そこに香辛料の刺激が重なって、朝食を食べたばかりだというのに腹の奥が小さく鳴った。
「相変わらず、腹の減る匂いだな」
モルがぼそりと呟く。
人の往来も増えていく。灰地区では伏し目がちだった人々の視線が、ここでは前を向いている。挨拶を交わす声も聞こえる。笑い声もある。賑やかで明るい。危険な匂いもしない──ただ、その奥にはどこか張り詰めたものがあった。
やがて道は緩やかな角を曲がる。その先に、赤い灯りがいくつも揺れていた。
提灯の光。屋台の炎。人の営みで溢れる街。
境界示す柵はない。門も看板もない。それでも、そこから先だけが明らかに別の街だった。
凰乃は一歩踏み出しかけて──止まった。
通りの脇に数人の男たちが立っていた。彼らの身体には赤い布が巻かれている。頭、腕、腰など、場所はそれぞれ違う。だが、その誰もが自分の所属を示すように、どこかしらに赤をみにつけていた。
視線が合う。敵意はなく、威圧もない。
ただ、見知らぬ人間が何者なのか──値踏みするような沈黙があった。
凰乃は彼らを見つめ、そしてその向こうに広がる赤い街へ目を向けた。
悪が、悪を抑える街。
暴力が、暴力を管理する街。
自分が作ろうとしている理想に似ていて、おそらくまったく同じではない秩序。
凰乃は小さく息を吸った。
門も柵もない。
それでも凰乃には──そこに一本の境界線が引かれているように見えた。




