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モルはすぐに言葉を返さなかった。
眉を顰め、凰乃を見つめたまま動かない。まるで今聞いた言葉の意味を、頭の中で何度も転がしているようだった。
「……悪?」
低く、確認するような声音。驚くでもなく、呆れるでもなく、ただ予想外の答えを耳にした人間の反応だった。
凰乃はそんなモルの様子を、どこか楽しげに眺めていた。
こうして誰かに話すのは初めてか──いや、二人目か。
ふと、遠く離れた場所で今も歩き続けている誰かの姿が脳裏をよぎる。
けれど、凰乃はすぐに意識を目の前へ引き戻した。
自分の容姿が他人へどのような印象を与えるのか、凰乃はよく理解している。白銀の髪も、透き通るような白い肌も、華奢な身体も、そして、その中で一際異彩を放つ漆黒の瞳も──どの国、どの街を歩いても凰乃は浮いていた。落ち着いた声音も相まって、何も知らない人間からは勝手に儚げな少女だと思われることも多い。
実際は、こうして犯罪都市と名高いラディウムまで一人でやってくるほど図太く、酒場で異能者が暴れようと、宿泊客同士で殴り合いが始まろうと、その程度では動じない胆力もある。
モルがどのような印象を抱いているのか知らないが、おそらくこれまで出会った人々と大差ないだろう。
「真面目に話す気はないってか?」
「失礼だね。至って真面目だよ」
「ラディウムに来たのは、悪が好きだからって?」
モルは短く息を吐き、額を押さえた。
見下ろすように向けられた視線は冷めていて、また凰乃が適当なことを言って煙に巻こうとしている、とでも思っているようだった。
凰乃はそれを察し、
「これは、私の人生にとって一番大事なことだ。それを話すのに、からかったり茶化したりはしないよ」
と、真面目な顔で言った。
モルは凰乃の顔をじっと見つめた。短い付き合いのなかで、こんなな顔をする凰乃は初めてみた。今まで交わしたやり取りを振り返ると、冗談を言ったり、おどけたりと、生意気な印象が強かった。どこか神秘的な容姿に似つかわしくない、妙に人間臭く、ユーモラスな性格。年相応の愛くるしさもあれば、腹立たしいのにどこか憎みきれないところもある。だからこそ、真剣な顔で『悪が好き』という目の前の凰乃と、モルの知る凰乃がどうにも重ならなかった。
「……それが、お前の本当の姿か」
「ふふっ、私は一度も偽ってないよ。どの私も本当さ」
そう言って笑う凰乃は、モルの知っている凰乃だった。
そんな彼女が、一度も偽っていないというのであれば、モルも受け入れるしかない──昨日までに知った少女も、今新たに見せられた少女も、どちらかが仮面というわけではない。
どちらも凰乃なのだ。
ずっと気になっていた理由。いざそれを聞くところまで来たというのに、モルの中には今更ながら怖気づくものがあった。
それでも、そんな自分の内心で苦笑しながら話を続ける。
「噂が本当か確かめに来た、……お前、そう言ったな」
「そんなことも言ったね」
「他国にまで知られるラディウムの噂といえば、三色のことだろう──まさかとは思うが、カラーギャングに入る気か?」
モルは眉を寄せて言った。
あくまで問い掛けであり、止めるつもりはないのだろう。ただ、その表情と声には明らかな不快感が滲んでいた。
凰乃はそれを見て苦笑する。
「随分嫌っているようだね」
「嫌いなわけじゃねぇ。ただ合わないだけだ」
「そうか」
凰乃は肩をすくめた。
「期待に添えるかは知らないけど、カラーギャングには入らないよ。確かに、ラディウムに関する噂で聞いたのは三色のカラーギャング──赤の『猩々緋』、青の『蒼月会』、黄の『黄金楼』が覇権を争っているということ」
三色のカラーギャング。
犯罪都市ラディウムを代表する三つの悪。
鉱山が枯れ、都市を支えていたものが失われたあと、生まれた空白を埋めるように根を張った勢力だった。
モルが頷く。
「ラディウムの治安を事実上支配してる三つの勢力だ。地区ごとに色が分かれてる。自分たち以外のやり方が気に入らねぇから、アイツらは争ってるんだ」
吐き捨てるように言うモルから、凰乃は窓の外に視線を向けた。
灰色の街並みの向こうにある、特定の色で染まる三つの地区を思い浮かべる。
「悪が好きだと言ったが、だからって別に善が嫌いなわけじゃないんだ。人を思いやり、助け合う。それを当たり前のようにやり続ける人たちを私は尊敬してる。目立たなくても、物語にならなくても、変わらない日常を守ろうとする──そういう人たちが、私は大好きだよ」
好きなものについて話す少女。
それだけなら微笑ましい光景だったかもしれない。
なのに、モルは気味の悪さを覚えていた。
凰乃が嘘をついているからではなく、本心で語っていることが伝わるからこそ、目の前の少女を不気味に思う。
これほど『善』を愛おしそうに語る少女が、同じ口で『悪』を好きだと言った。
その二つが、凰乃の中では何一つ矛盾していない。
そして、凰の笑みが僅かに変わった。
「私はね、悪にも品性は必要だと思ってる」
凰乃の視線がモルに向いた。窓の外からモルに移っただけ──それだけなのに、モルは瞬きも呼吸も忘れるほどの寒気を覚えた。
ただ視線が向けられただけで、何をされたわけでもない。凰乃の姿もそのままであり、差し込む朝の光に照らされる様は眩しすぎるくらいだ。
それなのに、凰乃を取り巻く空気だけが、黒く染まったような気がした。
「ふふっ」
清らかな笑い声を耳にし、我に返ったモルは呼吸を思い出す。瞬きを繰り返し、背筋を伝う寒気を誤魔化しながら凰乃を見やると、そこには変わらぬ白さを纏う少女が座っていた。
「人に何かを与えたいと思うように、人から何かを奪いたいと思うことある。人に優しくしたいと思うように、人を傷つけたいと思うこともある。誰かを守りたいと思うように、誰かを殺したいと思うことだってある──欲望、欲求、衝動。呼び方なんて何でもいい。そういうものは、本能として人間の中に最初からある」
一息つくように、凰乃はすでに冷めたスープを一口飲んだ。ゆっくりと飲み込み、パンを千切ってゆっくり咀嚼する。
どこにでもある朝食の風景。
しかし、そこで語られているものだけが、どうしようもなく異質で異常だった。
凰乃は急かさない。
モルに考える時間を与えるように、ゆっくりとパンを噛む。
凰乃自身、自分の言ってることが理解されると思っていない。そもそも理解を求めていない。自分の中にあるものを言葉にしているだけ。
やがてパンを飲み込み、モルを見た。何か言うかと間を持ったが、モルは何も言わず凰乃を見つめるだけだった。
凰乃は小さく肩をすくめ、指先についたパン屑を払って両手を組んだ。
「誤解しないでほしいんだけど、別に私は暴力が好きなわけでも、殺人が好きなわけでもない──悪が好きなんだよ」
「……お前のいう悪ってのは、なんだ?」
呼吸を整え、絞り出すようにモルは言った。
凰乃は嬉しそうに笑う。
「ようやく口を開いてくれたね。会話は大事だよ」
「茶化すな」
「茶化してないさ」
凰乃は続ける。
「善は理想、悪は本音」
短く言い切った。
「善人でいるには努力がいる。我慢して、譲って、飲み込んで。自分の欲望より誰かを優先しなきゃいけないこともある──それに比べて悪でいるのは楽だ。欲しいものがあれば奪えばいい。腹が立ったのなら殴ればいい。怒りも欲望も衝動も、全部そのまま吐き出せる。どこまでも正直で、美しいと思わないかい?」
モルは答えなかった。眉間の皺だけが深くなる。
凰乃は特に落胆するでもなく、二、三度頷いた。
「真面な人間ならブレーキを踏むところを、悪は欲望のまま押し通す。これは醜さではなく美しさであり、弱さではなく誠実さだと私は思う──ただね、悪は些か正直すぎるんだよね」
「……正直すぎる?」
「うん。だから間違える」
「何をだ?」
思わず漏れたようにモルが低く呟いた。
凰乃は小さく笑い、
「向きだよ」
と指先で宙に一本の線を引いた。
「自分より弱いものへ向かう。抵抗しないもの、奪いやすいもの、壊しても反撃してこないもの──そういう相手を選んでしまう。楽だからね。痛みも、覚悟も、責任もいらない」
ただ事実を並べるように、淡々とした声で言う。
「でも、それはもう美しくない」
凰乃はつまらなそうに言い切った。
「正直であることと、卑怯であることは違う。悪が悪でいるためにも、越えてはいけない線がある。悪にも品性が必要なんだよ──私は悪が好きだ。好きだからこそ、放っておかない。悪が間違った相手に向かないために。悪が安易な方へ流れ落ちないために」
凰乃は穏やかにほほ笑んだ。
「私は、悪の秩序を作る」
静かな言葉だった。
声を這ったわけでもなく、宣言するような大仰さもない。
だが、確かな重さを持っていた。
正義の名を借りない、悪のための秩序。
「善人を守るためではない。世界を良くするためでもない──悪が胸を張って悪でいられる場所を作りたい」
モルは言葉を失っていた。
理解できない。
それでも、ただの戯言だと否定もしきれなかった。
目の前の少女は本気だった。
善を愛し、悪を愛す。そのうえで、どちらかを正しいものとして選ぼうともしていない。
「……それ、正義よりよっぽど怖ぇぞ」
長い沈黙の末、ようやく吐き出せた言葉は、凰乃への純粋な畏怖だった。
凰乃は否定しない。
ただ、どこか満足そうに微笑む。
モルはその顔を見ながら、先ほどの言葉を思い出す──キミも無関係ではない。
今になって、その言葉だけが妙に重く感じられた。




