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赤地区動乱編 悪の秩序、その輪郭2

          2


 モルはすぐに言葉を返さなかった。

 眉を顰め、凰乃(おうだい)を見つめたまま動かない。まるで今聞いた言葉の意味を、頭の中で何度も転がしているようだった。


「……悪?」


 低く、確認するような声音。驚くでもなく、呆れるでもなく、ただ予想外の答えを耳にした人間の反応だった。

 凰乃はそんなモルの様子を、どこか楽しげに眺めていた。

 こうして誰かに話すのは初めてか──いや、二人目か。

 ふと、遠く離れた場所で今も歩き続けている誰かの姿が脳裏をよぎる。けれど、凰乃はすぐに意識を目の前へ引き戻した。

 自分の容姿が他人にどのような印象を与えるのか、凰乃はよく理解している。白銀の髪も、透き通った肌も、華奢な体躯も、その中で一際異彩を放つ漆黒の瞳も。どの国、どの街でも浮いていた凰乃は、落ち着いた声音も相まって勝手に儚げな少女だと思われる。

 実際はこうして犯罪都市と名高い国まで一人でやってくるほど図太く、酒場での荒事や昨夜の客同士の殴り合いにも動じない胆力がある。

 モルがどのような印象を抱いているのか知らないが、大方これまで受けたイメージと大差ないだろう。


「真面目に話す気はないってか?」

「失礼だね。至って真面目だよ」

「ラディウムに来たのは、悪が好きだからって?」


 モルは短く息を吐き、額を押さえる。見下ろすような視線は冷めていて、また凰乃が適当なことを言って煙に巻こうとしている、とでも思っているようだった。

 そんなモルの内心を察した凰乃は、


「これは私の人生にとって一番大事なことだ。それを話すのに、からかったり茶化したりはしないよ」


 と、真面目な顔で言った。

 モルは凰乃の顔をジッと見つめた。短い付き合いのなかで、こんなに真剣な顔をする凰乃は初めてみた。今まで交わしたやり取りを振り返ると、冗談を言ったり、おどけたりと、生意気な印象が強かった。どこか神秘的な容姿に似合わないユーモラスな性格は、年相応の愛くるしさや憎めなさがあり、だからこそ、『悪が好き』と真面目な顔をする目の前の凰乃と、記憶の中の凰乃が重ならなかった。


「……それが、お前の本当の姿か」

「ふふっ、私は一度も偽ってないよ。どの私も本当さ」


 そう言って笑う凰乃は、モルが抱く凰乃のイメージと同じだった。

 そんな彼女が、一度も偽っていないと言ったのだ──出会いから現在までで抱いた印象と、今新たに見せられた一面。ずっと気になっていた理由だが、このまま聞くことに怖気づく自分がいた。

 それでも、自分の内心に苦笑しながら、モルは話を続ける。


「噂が本当か確かめに来た、……お前はそう言ったな」

「そんなことも言ったね」

「他国にまで知られるラディウムの噂といえば三色のことだろう──まさかとは思うが、カラーギャングに入る気か?」


 モルは眉を顰めて言った。あくまで問い掛けであり、止める気はないのだろう。それでも表情や声には不快感があった。

 モルの顔を見て、凰乃は苦笑した。


「随分嫌っているようだね」

「嫌いなわけじゃねぇ。ただ合わないだけだ」

「そうか」


 と凰乃は肩をすくめる。


「期待に添えるかは知らないが、カラーギャングには入らないよ。確かに、ラディウムに関する噂で聞いたのは三色のカラーギャング──赤の『猩々緋(しょうじょうひ)』、青の『蒼月会(そうげつかい)』、黄の『黄金楼(おうごんろう)』が覇権を争っているということ」

 三色のカラーギャング。

 犯罪都市を代表する三つの悪。

 鉱山が枯れて以降、街の空白を埋めるように生まれた勢力だった。

 凰乃の言葉にモルが頷く。


「ラディウムの治安を事実上支配する三つの勢力で、地区ごとに色が分かれてる。自分たち以外のやり方が気に入らねぇから、アイツらは争ってるんだ」


 吐き捨てるように言うモルから、凰乃は窓の外に視線を向けた。

 灰色の街並みの向こうにある、特定の色で染まる境界を思い浮かべる。


「悪が好きだと言ったが、だからって別に善が嫌いなわけじゃないんだ。むしろ人を思いやり、優しくして、助け合う彼ら善人を私は尊敬している。尊いと思う」


 そう話す凰乃の表情はどこまでも穏やかだった。愛しいものを想うその優しげな眼差しは、灰地区には不釣り合いで、だからこそ妙な魅力があった。


「善人でいることは大変だよ。誰かが困っていたら立ち止まる。自分のことで精一杯なのに、ほんの少しの余裕を分け与えようとする。基本的に彼らは世界の中心にならない。物語にもならない。何も起こらなくても、変わらない日常こそを求めるから。私は、そういった人たちが大好きなんだ」


 好きなものを楽しそうに話す少女。

 あまりにも場違い過ぎて、モルは気味の悪さすら感じた。凰乃が本心で語っていることが伝わるからこそ、目の前の少女を不気味に思う。

 その瞬間、凰乃が浮かべる笑みの種類が変わった。


「私はね、悪にも品性は必要だと思ってる」


 凰乃の視線だけがモルに向いた。窓の外からモルに移っただけ──それだけなのに、モルは瞬きも呼吸も忘れるほどの寒気を覚えた。

 ただ視線が向けられただけで、何をされたわけでもない。凰乃の姿もそのままであり、差し込む陽光に照らされる様は眩しすぎるくらいだ。

 それなのに、凰乃を取り巻く空気のすべてが、黒く染まったような気がした。


「ふふっ」


 清らかな微笑を耳にし、ハッとしたモルは呼吸を思い出す。瞬きを繰り返し、背筋を伝う寒気を誤魔化しながら凰乃を見やると、そこには変わらぬ白さを纏う少女が座っていた。


「善悪というのは、人間として大切な要素だ。どちらか一方を排除したら、それはもう人間ではないナニカだ──善を尊いと思うことと同じくらい、私は悪も尊いと思っている」

「……」


 モルは何も言わない。

 いや、何も言えない。

 黙って耳を傾けているように見えるだけで、内心は凰乃の得体の知れなさに言葉を失っていた。

 そんなモルに構わず、凰乃は続ける。


「人に施しを与えるように、人から奪うことも一つの欲望。人に優しくするように、人に暴力を振るうのも一つの欲求。人を守るように、人を殺すことも一つの衝動。これらは人間に備わった根源的な本能だ。否定してはいけない」


 一息つくように、凰乃はすでに冷めたスープを口に運ぶ。ゆっくりと飲み込み、パンを千切ってゆっくり咀嚼する。

 どこにでもある日常風景。

 しかし、この光景を取り巻く雰囲気は、どこまでも異質で異常だった。

 凰乃があえてゆっくりと咀嚼しているのは、モルに考える時間を与えているからかもしれない。

 凰乃自身、自分の言ってることが理解されると思っていない。そもそも理解を求めていない。自分の考えを形にするだけだ。

 パンを飲み込み、モルを見る。何か言うかと間を持ったが、モルは何も言わず凰乃を見つめるだけだった。

 凰乃は小さく肩をすくめ、指先についた粉を払って手を組んだ。


「誤解しないでほしいんだが、私は別に暴力が好きなわけでも、殺人が好きなわけでもない──悪が好きなんだよ」

「……お前のいう悪ってのは、なんだ?」


 呼吸を整え、絞り出すようにモルは言った。

 そんなモルに、


「ようやく口を開いてくれたね。会話は大事だよ」


 と、凰乃は笑う。


「人間が一番嘘をつかなくなる瞬間──悪は、人間の本音だよ」

「……人間の本音」

「善は理想、悪は本音。善人でいるには努力がいる。我慢して、譲って、飲み込んで。もちろん一切の打算や苦もなく行える人もいるだろうが、そういう人はごく僅かだ。大抵の人は自分のために善を行う」


 一方で、と凰乃は言う。


「悪でいるのは楽だ。欲しいものがあれば力で奪える。怒りも衝動も、全部正直に吐き出せる。やりたかった──それだけで成立する。どこまでも正直で、美しいと思わないかい?」


 モルは同意を口にせず、黙って眉根を寄せた。

 凰乃は特にがっかりもせず、二、三度頷いて続ける。


「真面な人間ならブレーキを踏むところを、悪は欲望に従って押し通す。これは醜さではなく美しさであり、弱さではなく誠実さだと私は思う──とはいえ、悪は些か正直すぎるんだよね。だから間違える」

「何をだ?」


 思わず漏れたようにモルが低く呟いた。

 凰乃は小さく笑い、


「向きだよ」


 と指先で宙に線を引くような仕草をした。


「自分よりも弱いものに向かう。抵抗しないもの、奪いやすいもの、壊しても反撃してこないもの──そういう相手を選んでしまう。楽だからね。痛みも、覚悟も、責任もいらない」


 ただ事実を並べるように、淡々とした声で言う。


「でも、それはもう美しくない」


 凰乃はつまらなそうに言い切った。


「正直であることと、卑怯であることは違う。悪が悪でいるためには、越えてはいけない線がある。悪にも品性が必要──大好きだからこそ、放っておかない。悪が間違った相手に向かないために。悪が安易な方へ流れ落ちないために」


 凰乃は穏やかにほほ笑んだ。


「私は、悪の秩序を作る」


 その言葉は静かだった。

 だが、確かな重さを持っていた。

 正義の名を借りない、悪のための秩序。


「善人を守るためではない。世界を良くするためでもない──悪が胸を張って悪でいられる場所を作りたい」


 モルは言葉を失っていた。

 理解できない。

 だが、否定もしきれない。

 目の前の少女は、正義よりも冷静で、悪よりもずっと人間だった。


「……それ、正義よりよっぽど怖ぇぞ」


 長い沈黙の末、ようやく吐き出せた言葉は、凰乃への純粋な畏怖だった。

 聞かなければよかったと思う反面、自分も無関係ではないのだと悟る。

 この話をする前に、凰乃が言った言葉が脳裏を過った──キミも無関係ではない、と。

 凰乃はその言葉を否定しなかった。

 ただ、どこか満足そうに微笑んだ。

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