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赤地区動乱編 悪の秩序、その輪郭1

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 猿真似ハネ曰く、

「秩序とは正しさではない。物語を長く楽しむための、ただの工夫じゃ」


          1


 酒場を出たあと、モルに案内されたのは、路地裏の奥にある古い宿だった。外壁は所々が抉れていて、看板の文字も半分ほど剥げていて読めない。宿だと言われなければ廃墟と見紛う外観。寝るためではなく、ただ雨風を凌ぐための宿だった。


「真面な宿がお望みなら別の地区に行け。ここじゃあこれでも上等だ。朝には飯も出るしな」

「まだ何も言ってないじゃないか」

「『まだ』ってことは、これから言おうとしたんだろ? それに不満が顔にありありと出てんだよ」

「失礼だね。私は元々こういう顔だよ」

「わかったわかった」


 と、モルは雑に手を振ってあしらう。

 その態度にムッとする凰乃(おうだい)だが、モルの言う通り、灰地区にある宿の中では十分マシなのだろう。昼間に街を巡っていたとき、宿を謳いながら地面に茣蓙とボロボロの布が置かれただけの場所があった。申し訳程度の屋根の下に敷かれた三つの茣蓙。その内の二つが人で埋まっていたから、一応商売として成り立っているのだろう。

 あれに比べれば確かに、ここはちゃんと宿だった。

 モルが鍵を放り投げ、「おやすみ」と自分の部屋に消えていく。凰乃の部屋はモルの隣で、扉に鍵がついていることに妙な感動を覚えた。


「うん。ちゃんと宿じゃないか」


 部屋は狭い。窓も小さい。軋む床に簡素な寝台が一つ。布団は薄かったが清潔ではあった。


「うんうん。ちゃんと宿じゃないか!」


 ──ドンッ!

 と乱暴な音がモルの部屋から聞こえた。

 壁を殴る音に肩を跳ね上げ、目を丸くする凰乃。だがすぐに状況を察し、表情からは驚きが消え、薄っすらと笑みを浮かぶ。

 深夜にデカい声を出せば、立地の治安も相まって当然な結果だ。落ち度は凰乃にある……が。


「ふふっ、やられっぱなしは主義じゃないんだ」


 壁に近づき、拳を握り、思い切り振りかぶって叩きつけた。凰乃の力では大した威力にはならないだろう。しかし、ボロ宿の薄い壁なら十分に音は響く。

 拳に伝わるジーンとした痛みに、反響する音に耳を傾けながら、


「うん、まずまずだね」


 と凰乃は満足気に頷いた。

 やり返したことで溜飲が下がった凰乃は、今日はもう寝てしまおう、とベッドへ向かう。

 ──ドンッ!

 ──ドンッ!

 一つはモルの部屋。もう一つは逆側の部屋。

 スーッと目が細くなる凰乃。しかし、自分を落ち着かせるように目を閉じ、ゆっくりと呼吸をすると、前髪をかき上げて微笑む。


「……面白い」


 上着を脱いで適当に放り投げると、モルの部屋側を叩き、その反動を使って逆側の壁を蹴りつけた。蹴った衝撃を支えきれず、凰乃は不格好に倒れる。すぐに左右から打突音が聞こえる、地面に転がる凰乃は一切反応せず、黙って聞いていた。一連の行動を不毛に思ったのか、ある程度やり返せたことで満足したのか、もういっそこのまま寝てしまおうと天井を眺めていると、鈍い音と共に天井が揺れた。

 あれだけ壁を殴る音が響けば、当然上の階まで被害は及ぶだろう。

 吊り下げられた電球が揺れるのを目で追いながら他人事のように考えていると、ドンッ、ドンッ、ドンッと音が波及していく。

 凰乃のいる階だけでなく、上の階、更には下の階からも壁を殴る音が続いていた。

 音が重なるたびに宿全体が揺れる。

 ──そして。


「おいゴラァア! うるせぇぞテメェら!」


 と部屋を出て騒ぐ者も出てきた。


「ふふっ、騒がしい街だ」


 自分を棚に上げる凰乃は、続々と廊下に出てくる宿泊客の怒号を聞きながら、一人ベッドへと向かう。怒鳴り声に混じって床や壁が激しい音を立てる。人を殴る音も聞こえ、その中にはモルの声もあった。

 そして、ガチャガチャとドアノブを捻る音とともに、ドンドンと扉を叩かれる。


「おい凰乃! なに一人だけ引き籠ってんだ! 出てこい!」


 外からモルの騒ぎ声がした。

 凰乃は鬱陶しそうに眉を寄せ、電気を消して横になる。決して快適とはいえない寝心地だが、今日一日歩き回った疲れか、それともアルコールによる酩酊感か、目を瞑ってすぐに意識が深く沈んでいった。

 それが昨夜の出来事。

 あの後どうなったのだろうと思いながら、凰乃は顔を洗って部屋を出る──廊下は荒れに荒れていた。手すりが折れていたり、電球が割れていたり、壁に穴が開いていたり。この惨状から昨日の暴れ具合を察する。


「よく眠れたか?」


 階下に降りると、簡単な朝食が並んでいた。硬いパンと具が少ないスープ。それでも温かくて普通に有難かった。

 先に席に着いていたモルが、恨めしそうな顔をしていた。目元が腫れていて、口の端は切れていた。


「おかげさまでね。キミはどうだい?」

「寝れたと思うか?」


 とモルは目元の痣を見せつける。

 スープを啜る凰乃は、そんなモルを見て首を傾げた。


「酷い怪我だけど、何かあったのかい?」

「……ほぅ。この期に及んで惚けるか」

「なんだい? 怒ってるのかい?」


 凰乃は呆れを浮かべ、わざとらしく溜息を吐いた。パンを半分千切り「ほら」と差し出すが、「いらねぇよ」とモルは手を振る。それに構わず凰乃は千切った半分をモルの皿に置いた。


「確かに、夜中に大きな声を出した私が悪い。静かにしろと壁を殴って私に伝えるのも、まぁ許容範囲だろう」

「その割にはやり返してきたけどな」


 半目で指摘してくるモルに、シーっと凰乃は人差し指を口に当てた。

 その仕草にイラっとしたのだろう。眉間に皴を作るモルだが、これ以上言っても意味がないと口を噤む。けれど、ただ黙っていることもできなかったらしく、凰乃を真似て口に指を当てるも、それは人差し指ではなく中指だった。

 今度は凰乃が眉間に皴を作ったが、話が進まないから無視をする。けれど、ただ黙っていることもできなかったらしく、モルにあげたパンを掴み、「返してくれ」と齧った。


「他の客が部屋から出てきたとき、キミは自分の意志で外に出たんだろう? 私に壁を殴り返された苛立ちを我慢できずに、呼ばれたわけでもないのに部屋を出て、騒ぐ他の客に混じって殴り合った──その結果負った怪我を、私のせいにされても困るよ」

「……」


 諭すように言う凰乃に憤りを感じながらも、言っていることは正しいためにモルは反論できない。きっかけは凰乃がデカい声を出したことだが、相手は子供だ。最初の一発は言い訳できても、その後の二発三発は大人げなかったとしかいいようがない。他の客と殴り合ったのだって、凰乃の指摘通り苛立ちを発散するためだった。

 モルは溜息を吐き、「そうだな」と頷いた。


「酒が入ってたとはいえ、昨日はみっともない姿を晒しちまった」

「昨日は? ふふっ、鏡見なよ」


 頬を引き攣らせるモルは頬杖を突き、凰乃を見やった。


「自分だけ無関係みたいな顔してるけどな、朝飯食い終わったら昨日の宿泊客全員で宿の修繕と清掃だから」

「えっ? 私も?」

「金はあるのか?」

「金?」

「宿泊代の十倍を払えば許してくれるらしい。払えねぇなら直せってことだ」

「いくらなんだい?」

「一泊三クレドだ」

「ということは、三十クレドでいいんだね」


 言うが早いか、凰乃は懐から革袋を取り出し、十クレド硬貨を三枚テーブルに置いた。


「なかなか安いね。いい宿じゃないか」

「……お前、いくら入ってるんだそれ?」


 パンパンに膨れる革袋を見て、モルは怪訝な顔をした。

 凰乃は微笑みを返し、


「これはキミの分だ。その怪我は自業自得だが、私がうるさかったのも事実。これでチャラにしてくれ」


 と、三枚の硬貨を差し出した。

 懐に革袋をしまい、凰乃はそのまま食事を再開する。すでにモルの前に置いた硬貨のことなど気にもせず、硬いパンを千切ってはスープに浸して口に運んでいた。

 モルは目の前に置かれた三十クレドをしばらく見つめていたが、手を付けることはせず、真っ直ぐ凰乃を見た。


「……で。お前は何でラディウムに来たんだ?」


 モルの声音が変わったことに気付き、凰乃はスープから顔を上げた。こちらを見やるモルと視線が合う。モルの問いに凰乃はすぐには答えなかった。モルの表情や声音の変化から、その問いの答えをずっと気になっていたことを知る。適当にはぐらかしたり、誤魔化したりもできるだろう。が、それをすればモルとの関係はこれっきりになるだろうと想像できて、それは少し惜しいと感じてしまう。

 凰乃は手にしていたスプーンを離し、ゆっくりと咀嚼する間にどう話そうか考えていたが、説明が難しく、とりあえずはこの沈黙をなくそうと口を開いた。


「随分と気になってるみたいじゃないか」

「昨日も言ったが、わざわざ来るようなところじゃねぇんだよ、灰地区は。ましてやお前のような子供が。それもそんな大金抱えて」

「お金は普通に稼いだんだよ。あっても困らないからね」

「金を持ってることを不思議に思ってるわけじゃねぇ。金を持ってるくせに灰地区に来たってことが謎なんだよ。ここは金を持ってても大した使い道なんかねぇ。金を手にした奴の殆どは黄地区に羽目を外しにいくか、美味い飯でも食いに赤地区に行く──凰乃。お前、本当に何しに来たんだ?」


 冗談や軽口は受け付けないとでも言いたげなほど真面目な顔。酒場で飯を奢ったり、宿を紹介したり、こうして朝食を一緒に食べたりと、殊更凰乃に構うのは、モルの性格もあるのだろうが、それ以上に凰乃の存在が異質過ぎるからだろう。

 心配や不安ではなく、このまま見過ごすには得体の知れない不気味さが付き纏う。故に訳を聞かずにはいられない。

 モルの真剣な表情と問いかけに、凰乃は頬を掻きながら苦笑した。


「……そんな顔をされると話しづらいんだけど」


 一度視線を外し、小さく息を吐いて、


「まぁ隠すつもりもないし、キミも無関係じゃないし」


 と凰乃は呟き、モルに視線を戻して微笑んだ。


「私はね、悪が好きなんだよ」

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