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新境ブラックボックス  作者: 錆雪
第二章 悪の秩序、その輪郭
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 猿真似ハネ曰く、

「秩序とは正しさではない。物語を長く楽しむための、ただの工夫じゃ」


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 酒場を出たあと、モルに案内されたのは路地裏の奥にある古い宿だった。外壁はところどころ抉れ、看板の文字も半分ほど剥げ落ちている。宿だと言われなければ廃墟と見紛うような外観。寝るためではなく、ただ雨風を凌ぐためだけに存在しているような宿だった。


「まともな宿がお望みなら別の地区に行け。ここじゃ、これでも上等だ。朝には飯も出るしな」

「まだ何も言ってないじゃないか」

「『まだ』ってことは、これから言うつもりだったんだろ? それに、不満が顔にありありと出てんだよ」

「失礼だね。私は元々こういう顔だよ」

「わかったわかった」


 モルは雑に手を振ってあしらう。

 その態度にムッとする凰乃(おうだい)だが、モルの言う通り、灰地区にある宿の中では十分マシな部類なのだろう。昼間に街を巡っていたとき、宿を謳いながら地面に茣蓙とボロボロの布が置かれているだけの場所を見かけた。申し訳程度の屋根の下に敷かれた三つの茣蓙。うち二枚が人で埋まっていたから、一応は商売として成り立っているのだろう。

 あれに比べれば、確かにここはちゃんと宿だった。

 モルが鍵を放り投げ、「おやすみ」と自分の部屋に消えていく。凰乃の部屋はモルの隣で、扉に鍵がついていることに妙な感動を覚えた。


「うん。ちゃんと宿じゃないか」


 部屋は狭い。窓も小さい。歩けば床が軋む。家具らしい家具といえば簡素な寝台が一つあるだけ。布団は薄かったが清潔ではあった。


「うんうん。ちゃんと宿じゃないか!」


 ──ドンッ!


「っ!?」


 乱暴な音がモルの部屋から聞こえた。

 壁を殴る音に肩を跳ね上げ、目を丸くする。だがすぐに状況を察し、凰乃の顔から驚きが消え、代わりに薄っすらと笑みが浮かぶ。

 深夜にデカい声を出せば、立地の治安も相まって当然な結果だ。落ち度は凰乃にある……が。


「ふふっ、やられっぱなしは主義じゃないんだ」


 壁に近づき、拳を握り、思い切り振りかぶって叩きつけた。凰乃の腕力など大したものではない。しかし、ボロ宿の薄い壁なら音を返すには十分だった。

 ジーン痛む手を押さえながら、反響する音に耳を澄ませながら、


「うん、まずまずだね」


 と凰乃は満足気に頷いた。

 やり返したことで溜飲が下がった凰乃は、晴れやかな気分で壁から離れた。今日はもう寝ようかな、とベッドへ向かう。

 そのとき。

 ──ドンッ!

 モルの部屋側から。

 続いて。

 ──ドンッ!

 

「……」


 反対側から。

 凰乃の目が、すうっと目が細くなる。

 しかし、自分を落ち着かせるように目を閉じ、ゆっくりと呼吸をすると、前髪をかき上げて微笑んだ。


「……面白い」


 上着を脱いで適当に放り投げると、モル側の壁に拳を振るった。

 そしてその反動を使って身体を回し、反対側の壁を蹴りつけた。


「わっ」


 蹴った衝撃を支えきれず、凰乃は不格好に床へ転がった。

 直後、ドンッ、ドンッと左右から返事がくる。

 床に転がる凰乃は一切反応せず、黙ってそれを聞いていた。一連の行動を不毛に思ったのか、それともある程度やり返せたことで満足したのか、もういっそこのまま寝てしまおうと天井を眺めていると、


 ──ドンッ!


 鈍い音と共に天井が揺れた。

 今度は上の階だった。


「……」


 あれだけ壁を叩いていれば、当然上の階まで響くだろう。

 吊り下げられた電球がゆらゆらと揺れるのを目で追いながら他人事のように考えていると、ドンッ、ドンッ、ドンッと音が波及していく。

 凰乃のいる階だけでなく、上の階、更には下の階からも壁を殴る音が続いていた。

 誰かが壁を叩けば、別の誰かが叩き返す。それに苛立った誰かがさらに壁を殴る。

 音が重なるたび、宿全体が軋んだ。

 ──そして。


「おいゴラァア! うるせぇぞテメェら!」


 ついに、部屋から飛び出す者が現れた。


「ふふっ、騒がしい街だ」


 原因の一端を担った少女は、自分のことを棚の遥か上へ放り投げた。

 続々と宿泊客が廊下に出てくる。怒号、罵声、床を踏み鳴らす音に壁を叩く音。そのうち、人を殴ったらしい鈍い音まで混ざり始めた。

 そして、


「テメェ、やんのか!」


 というモルの声も聞こえた。


「……元気だねぇ」


 凰乃は立ち上がり、一人寝台へ向かう。

 すると、ガチャガチャガチャッと激しくドアノブを回す音が聞こえ、続いてドンドンドンッと扉を叩かれた。


「おい凰乃! なに一人だけ引き籠ってんだ! 出てこい!」


 廊下からモルの声が響いた。

 凰乃は鬱陶しそうに眉を寄せ、電気を消して寝台へ横になる。

 決して快適とはいえない寝心地だが、今日一日歩き回った疲れか、それともアルコールによる酩酊感か、目を閉じてすぐに深い眠りへ落ちていった。

 ──それが昨夜の出来事。

 結局、あの後どうなったのだろう。

 そんなことを考えながら、顔を洗った凰乃は部屋を出た。


「……」


 廊下は荒れに荒れていた。手すりが折れていたり、電球が割れていたり、壁には穴まで開いていた。この惨状から、昨日の騒ぎがどれほどのものだったのかを察する。


「よく眠れたか?」


 一階に降りると、簡素な朝食が用意されていた。硬いパンと具の少ないスープ。質素ではあるが温かく、それだけで十分に有難かった。

 先に席に着いていたモルが、恨めしそうな顔で凰乃を見ていた。片目の周りが腫れていて、口の端は切れていた。


「おかげさまでね。キミはどうだい?」

「寝れたと思うか?」


 とモルは目元の痣を見せつける。

 スープを啜る凰乃は、そんなモルを見て首を傾げた。


「酷い怪我だけど、何かあったのかい?」

「……ほぅ。この期に及んで惚けるか」

「なんだい? 怒ってるのかい?」


 凰乃は呆れを浮かべ、わざとらしくため息を吐いた。パンを半分千切る。


「ほら」

「いらねぇよ」


 とモルが手を振る。それに構わず凰乃は千切った半分をモルの皿に置いた。


「確かに、夜中に大きな声を出した私が悪い。静かにしろと壁を殴って私に伝えるのも、まぁ許容範囲だろう」

「その割にはやり返してきたけどな」


 半目で指摘される。

 凰乃は人差し指を唇へあてた。


「シー」

「……」


 その仕草にイラッとしたのだろう。モルの眉間に皺が寄る。しかし、何か言い返したところでどうせ意味がないと思ったのか口を閉ざした。

 けれど、ただ黙っていることもできなかったらしく、凰乃を真似るように口元へ指をあてた。

 それは人差し指ではなく中指だった。


「……」


 今度は凰乃の眉間に皴が寄った。

 話が進まないから無視をする。

 けれど、ただ黙っていることもできなかったらしく、先ほどモルにあげたパンを掴んだ。


「返してくれ」

「お前が寄越したんだろ」


 そのまま一口齧り、何事もなかったように続ける。


「他の客が部屋から出てきたとき、キミは自分の意志で外に出たんだろう?」

「……」

「私に壁を殴り返された苛立ちを我慢できずに、呼ばれたわけでもないのに部屋を出て、騒ぐ他の客に混じって殴り合った──その結果負った怪我を、私のせいにされても困るよ」

「……」


 モルは何も言えなかった。

 諭すように言う凰乃に憤りを感じながらも、言っていることは正しい。きっかけは凰乃がデカい声を出したことだが、相手は子供だ。最初の一発はまだしも、その後も殴り返したのは大人げなかったとしかいいようがない。まして他の宿泊客と殴り合ったのは、凰乃の指摘通り苛立ちを発散するためだった。

 モルはため息を吐き、「そうだな」と頷いた。


「酒が入ってたとはいえ、昨日はみっともない姿を晒しちまった」

「昨日は? ふふっ、鏡見なよ」

「……」


 頬を引き攣らせるモルは頬杖を突き、恨めしそうに凰乃を見やった。


「自分だけ無関係みたいな顔してるけどな、朝飯食い終わったら、昨日の宿泊客全員で宿の修繕と掃除だからな」

「えっ? 私も?」

「金はあるのか?」

「金?」

「宿泊代の十倍を払えば許してくれるらしい。払えねぇなら直せってことだ」

「いくらなんだい?」

「一泊三クレドだ」

「ということは、三十クレドでいいんだね」


 言うが早いか、凰乃は懐から革袋を取り出した。ずしりと膨らんだ袋。口を開き、十クレド硬貨を三枚掴み、テーブルに置いた。


「なかなか安いね。いい宿じゃないか」

「……お前、いくら入ってるんだそれ?」


 パンパンに膨らんだ革袋を見て、モルが怪訝そうな顔をする。

 凰乃は微笑みを返し、


「これはキミの分だ。その怪我は自業自得だが、私がうるさかったのも事実。これでチャラにしてくれ」


 と、硬貨をモルの前へ滑らせた。

 懐に革袋をしまい、凰乃はそのまま食事を再開する。すでにモルの前に置いた硬貨のことなど気にもせず、硬いパンを千切ってはスープに浸して口に運んでいた。

 モルは目の前に置かれた三十クレドをしばらく見つめていたが、手を付けることはせず、真っ直ぐ凰乃を見た。


「……で。お前は何でラディウムに来たんだ?」


 モルの声音が変わったことに気付き、凰乃はスープから顔を上げた。

 こちらを見やるモルと視線が合う。

 モルの問いに凰乃はすぐには答えなかった。表情や声音も、今までと違う。軽口を叩くときのモルではなかった。

 その問いの答えをずっと気にしていたのだろう。

 適当にはぐらかすこともできる。誤魔化すことだって難しくないが──それをすれば、おそらくモルとの関係はこれっきりになると想像し、それは少し惜しいと思った。

 凰乃は手にしていたスプーンを置き、口の中に残っていたパンをゆっくりと咀嚼する。その間にどう説明したものか考えてみるも、うまく言語化できるか難しい。

 そもそも、自分でもまだ完全に答えを見つけていない。

 ならとりあえず、この沈黙だけでも終わらせようと口を開く。


「随分と気になってるみたいじゃないか」

「昨日も言ったが、わざわざ来るようなところじゃねぇんだよ、灰地区は。ましてやお前のような子供が。それも、そんな大金抱えて」

「お金は普通に稼いだんだよ。あって困るものでもないからね」

「金を持ってることを不思議に思ってるわけじゃねぇ。金を持ってるくせに、灰地区に来たってことが謎なんだよ。ここじゃ金があったって大した使い道なんかねぇ。金を手にした奴の殆どは黄地区に羽目を外しにいくか、美味い飯でも食いに赤地区に行く──凰乃。お前、本当に何しに来たんだ?」


 冗談や軽口は受け付けないとでも言いたげなほど真面目な顔。酒場で飯を奢ったり、宿を紹介したり、こうして朝食を一緒に食べたりと、モルが殊更凰乃に構うのは、元々の性格もあるのだろう。

 ただそれ以上に、凰乃という存在があまりにも異質なのだ。

 心配や不安とも違う。このまま見過ごすには、得体の知れない不気味さが付き纏う。

 故に聞かずにはいられない。

 モルの真剣な表情と問いかけに、凰乃は困ったように頬を掻いた。


「……そんな顔をされると話しづらいんだけど」


 一度視線を外し、小さく息を吐いた。


「まぁ隠すつもりもないし、キミも無関係じゃないしね」


 呟きと同時に、ふと笑う。

 モルに視線を戻すと、錐で穿ったような深く黒い瞳がまっすぐ捉えた。


「私はね、悪が好きなんだよ」

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