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客の視線が一斉に入口へと向いた。
凰乃も新たな客に目を向けるが、それ以上に気になったのは店内の反応だった。
乱雑でありながらも妙に統一された客の視線に感心する。敵意や露骨な警戒心はないが、誰もが一度は注意を向け、何者なのかを確かめる。そして、ほんの一瞬で興味を失ったように、それぞれの時間へ戻っていった。
(私のときよりあっさりしてるな。今だって私を気にしてる人は何人かいるのに……、常連の人なのかな)
凰乃は店内から、入ってきた客へと視線を戻した。
酔っ払い。
そう判断するには十分な姿だった。
長い髪はぼさぼさ。肩は落ち、足取りも覚束ない。シャツの前はだらしなく開き、ふらふらと店内へ進んでくる──だが、
「……?」
凰乃は僅かに眉を寄せ、視線を男の足元へ落とした。
影が妙だった。
天井から吊られた灯りは揺れていない。高原は何も変わっていない。にもかかわらず、男の影だけが──本人から少し遅れて床を這ったように見えた。
「……」
酒のせいで視界がぼやけるからか。凰乃は目元を擦り、もう一度見る。
普通の影だ。
(……気のせい? もう。酒なんか飲まなきゃよかったよ)
内心で後悔しばがら、凰乃はすでに味はなくなったが飲み込むタイミングを失った肉を水と一緒に胃へ流し込んだ。
その間も視線は男から外さなかった。
「……っ、あぁ……」
低く、掠れた声。
独り言のようで、誰かに告白しているようでもあった。
「……次で、最後だってさ……」
店内を満たす喧騒より遥かに小さな声。
しかし、凰乃にはハッキリと聞こえた。
そして次の瞬間、周囲の音が僅かに弱まった。何人かが男へ顔を向けている。表情は様々だが、モルも店主も怪訝そうに眉を寄せていた。
「ちゃんと、派手にやれって……盛り上げろって……」
男は笑っていた。
だが、笑い声はなかった。
「見所のない人生は……もう、読まれねぇって……」
周囲の客たちはますます怪訝そうな顔をする。
何を言っているのか、意味が分からない。誰の顔にもそう書いてある──が。凰乃だけは、その呟きが何を意味しているのか理解した。
『次で最後』
『盛り上げろ』
『見所のない人生は読まれない』
思い出したのは、蔽圧との会話だった。
読み物として弱く、物語にならない人生──これが最後、締め切り限界ギリギリ。
そして、
「……異能書、返せばいいのか?」
決定的な言葉が落ちた。
店の中央で立ち止まり、頭を抱える男を見て、凰乃は目を眇めた。
(この人──異能者だ)
「今、何て言ったんだ?」
隣に座るモルが眉を寄せた。位置的に凰乃の方が男から遠い。凰乃に聞こえて、モルに聞こえなかったはずがない。年のせいで耳が遠いのか、とも思ったが、男に近い席の客たちまで同じような反応していた。
聞こえなかったのではなく、理解できなかった。
そこで凰乃は察する──彼らが異能を持たない一般人だと。
ただ、今この瞬間において、一つだけ異質な視線があることに気づいた。
全員が長髪の男を見ている中、一人だけ、凰乃を見ている。好奇心を隠そうともしない視線。
(……気づかれた)
別に異能者だと知られることに不都合はない。特に隠しているわけでもない。それなのに──何故か、その視線に気づいた瞬間だけ、背筋を冷たいものが這った。
引っ張られるように、凰乃は顔を向ける。
カウンターの反対側。こちらから最も離れた端の席。一人の男がカウンターに突っ伏していた。赤ら顔で、グラスを片手に、眠たげな目をしている。
どうみても酔っ払いだ。
しかし、その視線だけが妙に醒めている。
真っ直ぐ、凰乃を見ていた。
灰地区に来てから幾度となく視線を浴びてきた凰乃だが、ここまで露骨に見られたのは初めてだった。
凰乃もまた察する。
(この人も──異能者)
目が合った。
赤ら顔の男はだらしない笑みを浮かべると、ゆっくり身体を起こしてカウンターに背を預けた。
その瞬間、
「──浮雲!?」
とモルが目を剥いた。
店内もにわかにざわつく。
恐れや怯えの色はないが、関わらないようにしようという警戒心が、そこかしこから滲み出していた。
「来てたのかアイツ。ずっと顔を伏せてたから気付かなかったぜ」
「誰だい? 有名な人?」
凰乃はモルの腕を突く。
「ああ、この街で知らない奴はいねぇよ。名前は浮雲。異能者だ」
「そうなんだ」
異能者。
その言葉自体は、モルにも通じる。
(異能者はわかるのに、異能書は知らない。やっぱり、どこへ行っても同じなんだね。……それじゃあ)
凰乃は少しだけ身を寄せ、モルにだけ聞こえる声で囁いた。
「猿真似財団の職員がいるね」
「ああ? 何の職員って?」
モルが怪訝そうに顔を顰める。
予想通りの反応だった。
(これも同じ。単語にノイズが入るのか、『猿真似財団』や『異能書』も非異能者にはまともに認識できない)
何でもないよ、と凰乃は首を横に振り、浮雲と長髪の男に向き直った。
周囲のざわめきに押されたのか、頭を抱えていた長髪の男も顔を上げ、浮雲を見ていた。
「……アンタ、有名人か?」
カウンターにもたれている浮雲は、面倒そうに首を横に振る。
「やめてくれ、有名人とか。ただの酔っ払いだ」
謙遜じゃなく本心で言っているのだろう。周囲の反応を心底鬱陶しそうにしている。
三十代後半くらいだろうか。ぼさぼさの長髪に無精髭。怠そうな顔。眠たげな三白眼気味の瞳は、酔いとは関係なく元からなのだろう。シャツのボタンは留められておらず、腰回りもだらしない。組んだ素足から脱げたサンダルが床に転がっているのに、拾おうとする素振りすらなかった。
どこを見ても、疲れ切った大人にしか見えない。
でもよく見れば、身体の芯には鋼のような筋肉が隠れていた。
凰乃は二人を見比べる。
(何か似てるね、この二人。でも、明らかに立場が違う──残酷なくらい、主人公としての格に差がある)
片やこの街で誰もな名を知る主人公に、片や物語そのものから見放されようとしている主人公。
その証拠に、先ほどまで店内の注意は長髪の男に集まっていた。
それが、今や誰もが浮雲を気にしている。何を言うのか、どう動くのか、何をするのか──長髪の男も別に蔑ろにされているわけではないけれど、場の中心は完全に浮雲へ移っていた。
まるで長髪の男の存在そのものが、浮雲を動かすための舞台装置へと成り下がったように。
それを──本人も悟ってしまった。
「……」
男の顔が歪んだ。焦り、怒り、悔しさに羞恥。何が一番大きいのか、あるいはそのすべてが余すことなく渦巻いているのか。
見ていられないほど、哀れだった。
男自身、自覚したことを凰乃は見抜く──浮雲と自分を隔てる、圧倒的な格を。
気怠そうな姿勢も、眠たげな目も、脱げたサンダルを放置していることすら、自分にはないものを持つ人間の余裕に見えてしまう。
抱える感情は、見える世界を歪ませる。
「……アンタを殺れば」
男が一歩、浮雲に近づいた。焦点の合わない瞳。だがその奥にだけ妙な熱が宿っている。
そのとき、凰乃は気付いた──男の足元に落ちる影が蠢いていることに。
(やっぱり見間違いじゃなかった。この人、影を操る異能者?)
灯りは変わらない。けれど、男から伸びる影が意志を持ったように動いている。
浮雲も気付いているだろう。にもかかわらず、身構えることもなく、ただ男を見据えながらグラスを煽るだけ。
垂れ下がっている男の手が開く。それを待っていたように、足元の影が腕へ向かって伸びていく。
「俺が、まだ主人公として──」
「おい、邪魔だ」
男のすぐ近くの席から低い声が飛んだ。
「さっきからぶつぶつうるせぇんだよ」
「こっちは飲みに来てんだ、帰れ」
「何だ主人公って?」
テーブル席に座る三人組。非異能者の男たちだった。苛立ちを隠しもしない声音で、長髪の男を睨んでいる。
長髪の男がゆっくりと顔を向けた。不快そうに歪んだ顔。横槍を入れられたことへの苛立ちが、三人の苛立ちと真っ向からぶつかる。
そのとき、一人が嘲るように笑った。
(──まずい)
凰乃は顔を顰めた。
何を言うのか、その表情からわかってしまった。
「テメェのような主人公がいるわけねぇだろ」
瞬間、男が抱える感情が殺意に塗り替わった。足元の影が弾けるように伸びると、男の手へ収束し、武骨な黒い棒を形作った。
「な、なんだそれ!?」
男たちは慌てて椅子から立ち上がり、逃げるように後退る。だがもう遅い。長髪の男は影の棒を振り上げ、そして力任せに振り下ろした。
誰もが血を見ると思った。しかし──嘲笑していた男の頭に当たる寸前で、影の棒がぴたりと止まった。
「……っ!?」
殴られると思った男は尻餅をつき、自分を落ち着かせるように荒い呼吸を繰り返す。周囲の客たちも息を呑んでいた。完全に殴るつもりだったと誰もが思っていたからこそ、寸前で止めたことに驚いている。
しかし、この場で最も驚きを浮かべていたのは、他でもない長髪の男だった。
「……は?」
唖然と自分の手を見る。影の棒を握っている右手。そこに、見覚えのない黒が纏わりついていた。手首から先を覆う、影よりも深い黒。自分で生み出したものではない異物がそこにあった。
「な、なんだ……これ?」
固体でも液体でも気体でもない。
手を覆っているのに触れられている感覚すらない。
それでも確かに纏わりついていることはわかる不気味さ。動かそうにもビクともせず、残る左手で剝がそうと爪を立てる──と。触れた指先まで黒に染まった。
「なっ……!?」
白い紙へ隅を垂らしたように、指先から掌へ、掌から手首へと黒が静かに広がっていく。
「なんだよ、これ! 何なんだよっ!!」
自身に起こる異変に喚く長髪の男──その様子を、凰乃は無表情で眺めていた。
余裕のなかった長髪の男がバカにされたとき、激高して暴力を振るうことは読めていた。
だから事前に闇を走らせていた。自分の足から椅子の脚へ、客の足元からテーブルの下へ、床に落ちる影に潜ませるように少しずつ闇を這わせていた。
そして長髪の男まで届いたとき、振り下ろされた腕へ闇を纏わせ、その勢いをまるごと奪った。
凰乃は尻餅をついている男を見て、小さくため息を吐いた。
(ここで血が流れるのは違う──これは悪じゃない。ただの醜い失敗だ)
人を嘲り、怒りを買った。その結果、起こる出来事は自分で背負うべきものだ。
自己責任。
自業自得。
「て、テメェ! 調子に乗るんじゃねぇぞ!」
尻餅をついていた男が勢いよく立ち上がり、長髪の男の顔面を殴った。
鈍い音が響き、殴られた衝撃によろける。しかし、長髪の男はやり返すこともせず、未だ自身の両手を覆う闇だけを呆然と見つめていた。
そのとき、凰乃は視線を感じた。顔を向けると──浮雲と目が合った。凰乃が行った対処に感心した、と浮かべている笑みが語っているように見えた。
人助けをしたと思われるのも癪で、凰乃はすぐに視線を長髪の男へと戻す。同時に、展開していた闇を引き戻した。
絡んでいた三人組は溜飲が下がらないのか、長髪の男に詰め寄っていた。
そんな彼らに、
「おいテメェら! やるなら外でやれ!」
と、店主の怒号が飛んだ。
三人はなおも長髪の男へ詰め寄っていたが、店主に睨まれると舌打ちし、男の服を乱暴に掴むとそのまま外へと引き摺っていく。
すでに両手から闇は消えていた。何不自由なく動く。ただ、長髪の男は両手から消えた闇を目で追っていた。影から影へと移動していく闇。床を伝い、椅子の下を抜け、闇が還っていく。それが行き着く先は、カウンターの一番端に座る真っ白な少女。
「……」
凰乃と男の視線がぶつかった。
白い肌へ闇が吸い込まれていく。
それを見た瞬間、長髪の男は泣き笑うように顔を歪めた。
凰乃は何の感情も浮かべず、その表情を見つめる──長髪の男が何を思ったのか、何となくわかった。
きっと、彼が浮雲に対して思ったことと同じだろう。
「……主人公として負けを認めたね」
何の感慨もなく、ただ事実を確認するように呟いた。
その声は、隣に座るモルにも聞こえなかった。
しかし、凰乃を見ていた長髪の男、そして浮雲の二人には伝わったようだった。
酒場の外へと引き摺られ、扉が閉まる寸前に見えた男の姿は、力なく俯いていた。
敗者──その言葉が、よく似合っていた。
浮雲はカウンターへ向き直り、凰乃を一瞥する。
「……面白い子だ」
その視線に気付いていたが、凰乃は無視して肉を口へ運ぶ。
もぐもぐと咀嚼しながら、隣のモルを見上げた。
「退屈しないね」
「……落ち着いてるな」
あれだけの騒ぎがあったというのに、慌てることも怯えることもしない。モルはそんな凰乃を、少し意外そうに見ていた。
「慣れてるからね」
「ははっ。まぁ、灰地区に来るような奴だ。いちいち荒事に一喜一憂しねぇか」
凰乃は笑みを浮かべ、咀嚼を繰り返す。
「……一口サイズでも、この肉は硬いね」
そういいながらも、凰乃の視線は閉じた扉へ向けられていた。
外に連れ出された男。その影が最後に見せた、不自然な揺らぎ。
あれは、まだ終わっていない。




