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赤地区動乱編 悪の秩序、その胎動5

          5


 客の視線が一斉に入口へと向いた。

 凰乃も新たな客に目を向けるが、店全体を眺めていたから、乱雑だが統一された客の目線に感心する。敵意や警戒心はないが、誰もが注意を向ける。その時間は一瞬で、すぐに視線が戻された。


(私のときよりあっさりしてるな。今も私に意識が向いてる人は何人かいるのに……。常連の人なのかな)


 店内にいる客から、今入ってきた客へと視線を戻す。

 酔っ払いだ。

 そう判断するには十分な見た目だった。

 長い髪はぼさぼさ。肩は落ち、足取りも定まらない。シャツの前はだらしなく開き、ふらふらと中へ進んでくる──だが、凰乃は違和感を覚え、視線を足元へ下ろした。

 男の影が妙だった。

 天井から吊られた灯りは変わっていないのに、影の輪郭が僅かに遅れて床を這っている……気がする?

 酒のせいで視界がぼやけるからか、凰乃は目を擦り、また男の影を見やる。


(……気のせい? もう! 酒なんか飲まなきゃよかったよ)


 内心で後悔する凰乃は、すでに味はなくなったが飲み込むタイミングを失った肉を、水と一緒に胃へ流し込んだ。

 その間も視線は男に向いていた。


「……っ、あぁ……」


 低く掠れた声。

 独り言のようで、誰かに告白しているようでもあった。


「……次で、最後だってさ……」


 店内を満たす話し声よりも小さな音。

 しかし、その呟きは店にいる客全員の耳に届いたらしい。

 音が止み、視線が集まる。

 表情は様々だが、モルや店主のように眉を顰めている者が多い。


「ちゃんと、派手にやれって……盛り上げろって……」


 男は笑っていた。

 だが、笑い声はなかった。


「見所のない人生は……もう、読まれねぇって……」


 誰もが怪訝な顔で男を見ている──が。凰乃だけは、その呟きが何を意味しているのか理解した。

『次で最後』

『盛り上げろ』

『見所のない人生は読まれない』

 思い出すのは〈蔽圧〉との会話だ。

 読み物として弱く、物語にならない人生──これが最後、締め切り限界ギリギリ。

 そして、決定的な言葉を聞く。


「……異能書、返せばいいのか?」


 店の真ん中辺りで立ち止まり、頭を抱える男を見て、凰乃は目を眇めた。


(この人、異能者だ)

「今、何て言ったんだ?」


 隣に座るモルが眉を寄せる。位置的に一番離れた場所にいる凰乃に聞こえて、モルに聞こえていないわけがない。年のせいで耳が遠いのか、とも思ったが、男に近い席の客たちも一様に怪訝な顔をしているのを見て、彼らが異能を持たない一般人だと知る。

 ただ、今この瞬間において、異質な視線が一つだった。

 全員が男に注目するなか、凰乃を見据える好奇の視線。

 気づかれた、と凰乃は思った。

 別に異能者であることを気づかれたところで不自由はないのだが、何故かこのときは、感づかれたことに寒気がした。

 その視線に引っ張られるように、凰乃は顔を向けた。

 カウンター席の逆側。こちらとは一番離れた端の席。赤ら顔で、グラスを片手に、カウンターに突っ伏しながら、眠たげな目で、しかし妙に醒めた視線をこちらに向けている男と目が合った。

 灰地区に来てから数々の視線に晒された凰乃だが、ここまで露骨に見られたのは初めてだった。

 凰乃も察する──この男も異能者だと。

 赤ら顔の男はだらしない笑みを浮かべ、身体を起こしてカウンターに背を預けた。

 その瞬間、


「──浮雲!?」


 とモルが目を剥き、他の客たちも空気がざわついた。恐れや怯えの色はないが、関わらないようにしようという警戒心が、そこかしこで感じる。


「来てたのかアイツ。顔を伏せてたから気付かなかったぜ」

「誰だい? 有名な人?」


 モルの腕を突きながら凰乃が問う。


「ああ、この街で知らない奴はいねぇよ。名前は浮雲。異能者だ」

「そうなんだ」


 モルが口にした異能者という言葉。


(異能者はわかるのに、異能書を知らないのはどこも同じか。……それじゃあ)

「猿真似財団の職員がいるね」


 とモルにだけ聞こえるように言った。

 しかし、


「ああ? 何の職員って?」


 とモルは顔を顰める。

 その反応に凰乃は内心で頷いた。


(これも同じ反応だね。単語にノイズが入るのか、『猿真似財団』や『異能書』の言葉が通じない)


 何でもない、と凰乃は首を横に振り、浮雲と長髪の男に向き直った。

 周囲の反応に押されてか、頭を抱えていた男は顔を上げ、浮雲を見た。


「……お前、有名人か?」


 カウンターにもたれている浮雲は、面倒そうに首を横に振る。


「やめてくれ、有名人とか。ただの酔っ払いだ」


 謙遜じゃなく本心で言っているのだろう。周囲の反応を心底鬱陶しそうにしている。

 三十代後半だろうか。ぼさぼさの長髪に無精髭。怠そうな顔。眠たげな三白眼気味の瞳は、酔いとは関係ないのだろう。シャツのボタンは閉めておらず、腰回りもだらしない。どこを見ても『疲れた大人』感しかない。でもよく見れば、身体の芯には鋼のような筋肉が隠れていた。

 両者に視線を這わし、


(何か似てるね、この二人。でも、明らかに立場が違う──残酷なくらい、主人公としてのステータスに差がある)


 と、凰乃は目を細めた。

 片や知名度のある主人公に、片や追い込まれて後がない主人公。

 その証拠に、先ほどまでは長髪の男に注意が向いていたのに、今や関心は浮雲に注がれている。長髪の男も別に蔑ろにされているわけではないけれど、メインとなっている浮雲がどう動くのか。そのための装置に成り下がっている。

 店内を満たす空気を敏感に感じたのか、それとも後がない故の危機感からか。誰も自分を見ていないことに気づいた瞬間、男の顔が歪んだ。

 見ていられないほど哀れな姿。

 男自身、自覚したことを凰乃は見抜く──浮雲と自分を隔てる、圧倒的な格を。

 見た目だけでいえば、凰乃以上に目立つ存在はいない。浮雲の身なりもみすぼらしく、この酒場に無理なく馴染んでいる。ぷらぷらと揺らす組んだ足は素足だ。サンダルが床に転がっていても気にした素振りすらない。事情を知らなければ、浮雲の方が哀れに思うくらいだらしない。

 抱える感情は見方を限定する。

 浮雲と比較し、自分を下に見積もってしまったことで、カウンターにもたれる気だるそうな姿も、余裕の表れに思えてしまう──いや、実際にそう思ったことだろう。

 焦りか、怒りか、恥か、悔しさか、それら全てか。


「……アンタを殺れば……」


 男が一歩、浮雲に近づく。焦点の合わない目。だがその奥にだけ妙な熱が宿っている。

 そのとき、凰乃は気付いた──男の足元に落ちる影が蠢いていることに。


(影が動いてる。やっぱり見間違いじゃなかった。この人、影を操る異能者?)


 灯りは変わらない。けれど、男から伸びる影が意志を持ったように動く。

 浮雲も気付いているだろう。にもかかわらず、身構えることもなく、ジッと男を見据えながらグラスを煽るだけ。

 垂れ下がっている男の手が開かれた。その手に吸い込まれるように、足元の影が伸びていく。


「俺が、まだ主人公として──」

「おい、邪魔だ」


 男のすぐ近くの席から低い声が飛んだ。


「さっきからぶつぶつうるせぇんだよ」

「こっちは飲みに来てんだ、帰れ」

「何だ主人公って?」


 テーブル席に座る三人組。非異能者の男たちだった。苛立ちを隠しもしない声音で、長髪の男を睨んでいる。

 長髪の男がゆっくりと声の方へ向く。その顔は不快に歪んでいた。横槍を入れられたことへの苛立ちが、非異能者たちの苛立ちと真っ向からぶつかる。

 そのとき、非異能者たちの一人が、嘲るように笑みを浮かべた。


(──まずい)


 その表情に、凰乃はこの先の展開を想像し、顔を顰めた。

 案の定、凰乃の予想通りになる。


「テメェのような主人公がいるわけねぇだろ」


 その瞬間、長髪の男が抱える感情が殺意に塗り替わった。足元の影が一気に伸びると、男の手には武骨な黒い棒が握られていた。


「な、なんだそれ!?」


 男たちは椅子から立ち上がり、逃げるように後退るが、それに構わず長髪の男は影の棒を力任せに振り下ろした。

 誰もが血が流れることを覚悟したそのとき──嘲笑していた男の頭に当たる寸前で、影の棒が止まった。

 殴られると思った男は尻餅をつき、自分を落ち着かせるように荒い呼吸を繰り返す。周囲の客も完全に殴るつもりだと思っていたため、寸止めしたことに驚いていた。

 しかし、この場で一番驚きを浮かべていたのは、他でもない長髪の男だった。

 唖然としたまま、影の棒を握る自分の手を見つめる。振り回すときにうっかり手を離さないよう、ただ影の棒を握るのではなく、手首から先を覆うように影が纏っている──そんなこと、長髪の男はしていなかった。


「な、なんだ……これ?」


 影よりもさらに黒い何かで手が覆われていた。固体でも液体でも気体でもない。手を覆っているのに触れた感触すらない。それでも確かに纏わりついていることはわかる不気味さ。動かそうにもビクともせず、もう片方の手で剝がそうと爪を立てる──と。触れた指先から黒い何かが覆っていく。白い紙に垂らした墨汁が広がっていくように、指先から手の平、手の平から手首へと黒で塗り潰される。

 自身に起こる異変に喚く長髪の男──その様子を、凰乃は無表情で眺めていた。

 余裕のなかった長髪の男がバカにされたとき、激高して暴力を振るうことは読めていた。

 だから事前に闇を走らせていた。自分の足から椅子の脚へ、客の足元からテーブルへと、影に潜ませるように闇を重ねていった。

 そうして長髪の男の足元に到達したとき、瞬時に振り下ろした手に闇を纏わせて勢いを奪ったのだ。

 凰乃は床に座っている男を見て、小さくため息を吐いた。


(ここで血が流れるのは違う──これは悪じゃない。ただの醜い失敗だ)


 理由はどうあれ、長髪の男を嘲ったのは彼だ。その結果、起こる責任は彼が背負うもの。

 自己責任。

 自業自得。

 そしてそれは、長髪の男にもいえることだった。


「て、テメェ! 調子に乗るんじゃねぇぞ!」


 よろけて尻餅をついていた男が立ち上がり、長髪の男の顔面を殴った。

 しかし、長髪の男はやり返すこともせず、未だ自身の両手を覆う闇を見つめていた。

 凰乃は視線を感じ、そちらを見やる──浮雲と目が合った。凰乃が行った対処に感心した、と浮かべている笑みが語っていた。

 人助けをしたと思われるのも癪で、凰乃はすぐに視線を長髪の男へと戻し、展開していた闇も引き戻す。

 絡んでいた三人組は溜飲が下がらないのか、長髪の男に詰め寄っていた。

 そんな彼らに、


「おいテメェら! やるなら外でやれ!」


 と、店主が怒号を飛ばす。

 三人は長髪の男を乱暴に掴み、外へと引き摺っていく。

 すでに両手から闇は消えていた。何不自由なく動く。ただ、長髪の男は両手から消えた闇を目で追っていた。影から影へと移動していく闇。それが行き着く先は、カウンターの一番端に座る真っ白な少女。

 長髪の男と凰乃の視線がぶつかる。

 白い肌に闇が吸い込まれていく様を見て、長髪の男は泣き笑うように顔を歪めた。

 凰乃はそれを何の感情もなく見つめる──長髪の男が何を思ったのか。凰乃は何となくわかった。

 彼が浮雲に対して思ったことと同じだろう。


「……主人公として負けを認めたね」


 何の感慨もなく、ただ事実として呟いた。

 その言葉は、隣に座るモルにも聞こえなかった。

 しかし、凰乃を見ていた長髪の男、そして浮雲の二人には伝わったようだった。

 酒場の外へと引き摺られ、扉が閉まる瞬間に見えた男の姿は、力なく俯く敗者だった。

 浮雲はカウンターに向き直り、凰乃を一瞥する。


「……面白い子だ」


 その視線に気付いていたが、凰乃は無視して肉を口に運ぶ。

 咀嚼しながら隣のモルを見上げた。


「退屈しないね」

「……落ち着いてるな」


 あの騒ぎでも慌てず、怯えもしていない凰乃を、モルは意外そうに見やった。


「慣れてるからね」

「ははっ。まぁ、灰地区に来るような奴だ。一々荒事に一喜一憂しねぇか」


 凰乃は笑みを浮かべ、咀嚼を繰り返す。


「……一口サイズでも、この肉は硬いね」


 そういいながらも、凰乃の視線は扉の方に向いていた。

 外に連れ出された男。その影が最後に見せた動き。

 あれは、まだ終わっていない。

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