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酒場の扉を押し開けた瞬間、空気が変わった。
外よりも湿っていて重い。タバコと酒と油の匂いが混ざり合い、喉の奥に絡みつく。呼吸をするたび、この街の内臓に踏み込んだような感覚がした。
何より音が多い。
笑い声、罵声、グラスがぶつかる乾いた音。椅子を引きずる耳障りな摩擦音。外の雑音とよく似ているが、こちらの方がずっと濃い。
席が人で埋まっているからだろうか。広くはないが狭くもない店内は、妙な閉塞感があった。
人の多さによる息苦しさか、それとも足を踏み入れた途端に向けられた視線の多さか。
突き刺すような圧はない。
ただ、見定めるような注意深さみたいなものを感じる。
もっとも、この街において自分が異物であることなど凰乃も理解していた。それらの視線に構わずゆっくりと店内を見回す。
赤も、青も、黄もいない。
あるいは、いないように見えるだけかもしれない。どの席にも色はなく、あるのは年季の入った服と、擦り切れた表情と、油断のない視線だけ。
誰もが好き勝手にしているようで、誰もが誰かを見ている。
それでも顔ぶれはどれも柄が悪いが、不思議と殺伐とした雰囲気はなかった。
『ここにいること』『酒を飲むこと』『飯を食うこと』『馬鹿騒ぎをすること』──そのすべてが、彼らにとっては日常の延長なのだろう。
凰乃は店全体へと視線を這わせ、客を一人ひとりを眺めた。
同時に、この場の全員が『初めて見る顔が入ってきた』と理解していることを悟った。
白銀の髪に白い肌。
白を基調とした服装。
全体を構成する白の中で、まるで黒曜石のような艶を放つ漆黒の瞳。
灰色に沈んだ酒場の中で、凰乃の存在は明らかに浮いていた。
「よぉ」
男の一声が、その空気を破った。
軽く手を挙げただけの挨拶。
それだけで、僅かに張っていた空気が緩む。
「モルか。今日は早いな」
カウンターの向こうから低い声が返った。
店主は五十を超えていそうな男だった。細身ではあるものの背筋は真っ直ぐ伸び、腰には年季の入ったエプロンを巻いている。手元では使い込まれたグラスを淡々と磨いていた。
「連れだ」
モルと呼ばれた禿頭の男は、そう言って凰乃を親指で示した。
店主の視線が、今度はじっくりと凰乃に向けられる。値踏みではない。警戒でもない。ただ見慣れない存在を、見慣れないまま受け入れている目だった。
「……珍しいな」
「だろ」
「観光か?」
「さぁな」
それ以上の詮索はなかった。
店主はもう一度だけ凰乃を見てから、
「座れ。空いてるのはそこだけだ」
と、カウンターの端を顎でしゃくった。
モルが壁際の席へ向かおうとしたところで、凰乃がその腕を掴む。
「そこは私が」
先回りして腰を下ろし、隣を席を勧めた。
自然と店全体を見渡せる位置だった。客たちがこちらへの興味を完全に失ったわけではないが、露骨に注意を向けてくる者もいなくなった──モルが連れてきた客というのが、一つの判断材料になったのかもしれない。
「ここ、落ち着くね」
「変なガキだな。これだけ多くの注意を向けられたら、普通は居心地悪く感じるだろ」
「見られるのは慣れてるよ」
「まぁ、目立つもんな。お前の容姿──」
そこでモルは言葉を止めた。
そういえば、まだ互いに名乗っていなかったことに気づき、
「モルだ。そっちは?」
と手を差し出した。
「凰乃だ。よろしく、モル」
二人が握手を交わしていると、店主がカウンターへ二つのグラスを並べた。モルの前には年季の入った分厚いジョッキ。凰乃には少し小ぶりで縁が欠けたグラス。
「酒は飲めるか?」
心配でも配慮でもない。客として酒を出していいのか、ただそれだけを確かめる問いだった。凰乃が子供だからとか関係なく、客として平等に扱うその姿勢に思わず笑みが浮かぶ。
「嫌いじゃないよ」
ふん、と鼻を鳴らした店主は、背後の棚から瓶を一本取り出し、無言のまま注ぐ。琥珀色の液体がグラスに落ちる音は、周囲の喧騒よりもずっと落ち着いて聞こえた。
続いて店主は鉄板の置かれた調理台へ向かった。油を引き、何かを放り込む。じゅうっ、と乱暴な音が上がる。
肉だ。
分厚くはないが、安物特有の嫌な匂いはしない。刻んだ香草と一緒に焼かれ、上から雑に塩が振られる。火加減は強すぎず弱すぎず、慣れた手つきだった。
「ほらよ」
しばらくして、凰乃の前に皿が置かれた。焼いた肉、煮込んだ豆、見るからに硬そうなパン。見た目こそ質素だが、量は十分にある。
「……ちゃんと食べ物だ」
思わず漏れた凰乃の呟きに、モルが鼻で笑い、店主が言った。
「何を期待してたんだ?」
「もっとこう、正体がわからないモノが出てくるかと」
「それは別の店だ」
淡々と告げる店主は、凰乃たちに出した酒を自分のグラスにも注いだ。
「ここは飯を食う場所だ。賭けも、取引も、始末もやらねぇ」
「へぇ」
凰乃は僅かに目を細めた。
「随分ちゃんと線を引いてるんだね」
「だから常連がつく」
なるほどね、と凰乃は微笑んだ。
犯罪都市。無法地帯──そんな呼び名がついていても、どこもかしこも無秩序というわけではないらしい。この店には、この店なりの線がある。
店主はモルを一瞥し、グラスを掲げた。
それ以上は語らない。だが、それだけで十分だった。
凰乃もグラスを持ち上げ、三つの杯がぶつかり小気味いい音を奏でる。モルと店主は一気にグラスを空にする。一口だけ含んでいた凰乃は二人を見比べた。それから負けじと再びグラスに口をつけ、一気に煽る。
「……っ」
喉が焼けるような熱い。熱が食堂を駆け抜け、そのまま胃に落ちていく。思い切り顔を顰めた凰乃は、それでも空になったグラスを得意げに店主へ突き出した。
「下品な酒も、たまには悪くないね」
「いい飲みっぷりだ」
「ハッ、やるじゃねぇか」
モルと店主が揃って笑みを浮かべる。
店主がグラスに酒を注ぐと、それとは別にもう一つのグラスを取り出し、隣へ置く。
「だが、無理はすんなよ。潰れられても迷惑だ」
透明な液体。
凰乃はそのグラスを手に取り「大人だね」と苦笑しながら口をつけた。冷たい水が、口から胃にまで残っていた熱を奪っていく。
「うん、水が一番美味しいね」
「正直なのはいいことだ。ほら、飯も食え」
モルに促され、凰乃は皿へ手を伸ばした。フォークを肉に突き刺し、口元へ運ぶ。
噛み千切ろうと歯を立てた。
「んっ……」
ゴムのような弾力が凰乃の顎に跳ね返ってきた。
もう一度歯を立てる。が、
「んん……」
小さな顎が出せる最大限の咬合力を繰り出すも、一向に嚙み千切れる気配がなく、結局そのまま口の中へ押し込んだ。
頬を膨らませ、モグモグと咀嚼する。硬い。本当に硬い。けれど、噛めば噛むほど味が出る。脂も控えめで、腹にはしっかり溜まりそうだった。
「顎が疲れる。……でも、悪くないね」
素直な感想だった。
店主は一瞬だけ口元を緩めたが、すぐに元の無表情に戻った。
「口に入れたまま喋るな。行儀悪ぃぞ」
「へぇ、そういうの気にするんだね」
「俺はどうでもいい。お前のためだ──コイツみたいになっちまうぞ」
と店主はモルを見やった。
「俺みたいか。なら、立派に年を取った大人になれるな」
「この街に立派な大人はいねぇよ」
「それもそうだ」
モルは豪快に肉を噛み千切り、そのまま酒で流し込む。
凄いな、と素直に感心しながら、凰乃はモグモグと咀嚼を繰り返す。
「確かに、口に入れたまま喋るのは行儀が悪いけど」ともごもごとした声で凰乃が言う。「だとすれば、私はこの店で一生喋れないかもしれない」
「……食べやすいようにしてやるよ」
普段、凰乃のような少女が来る店ではないのだろう。適当に切り分けられていて、子供が食べるには一切れが大きい。気の毒に思ったのか、店主は凰乃に合わせた一口大へ切り分けていく。
ありがとう、と会釈する凰乃に、ゆっくり食え、と店主は離れていった。
「喉詰まらせるなよ」
「おいおい、随分と子供扱いしてくれるじゃないか」
「扱いも何も子供だろ」
「失礼だね。ほら、グラスを持ちなよ。一気飲み対決をしよう」
水ではなく酒の入ったグラスを手に持ち、凰乃は挑むように言った。
「……」
モルは凰乃を見た。次に酒を見る。そして、静かに首を横に振って両手をあげた。
「悪かった。俺の負けだ」
「酒に酔うのは早いよ?」
謝罪を引き出したことで気を良くしたのか、凰乃は勝ち誇ったように笑う。
傍から見れば完全にあしらわれているだけなのだが、どうやら先ほどの一杯だけで少し酔いが回っているようだった。本人だけがそれに気づいていない。
「素直なキミには私の酒もあげよう。遠慮なく飲むといい」
「……ああ、サンキューな」
いらないだけだろ、という言葉をモルは貰った──あるいは押し付けられた──酒と一緒に飲み込んだ。
凰乃はというと、未だに最初の一切れをモチャモチャと噛んでいる。
そんなときだった。
──きぃ。
酒場の扉が静かに開いた。




