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赤地区動乱編 悪の秩序、その胎動4

          4


 酒場の扉を押し開けた瞬間、空気が変わった。

 外よりも湿っていて、重い。タバコと酒と油の匂いが混ざり合い、喉の奥に絡みつく。呼吸をするたび、この街の内臓に踏み込んだような感覚がした。

 何より音が多い。

 笑い声、罵声、グラスが打ち合う乾いた音。椅子を引きずる耳障りな摩擦音。外の雑音とよく似ているが、こちらの方がずっと濃い。

 すべての席が埋まっているからだろうか。広くはないが狭くもない店内は、妙な閉塞感があった。

 人の多さによる息苦しさか、それとも足を踏み入れた途端に向けられた視線の多さか。

 突き刺さるほど圧はないが、探るような注意深さみたいなものを感じる。

 ただ、この街において自分が異物であることは承知のため、凰乃はそれらの視線に構わずゆっくりと店内を見回した。

 赤も、青も、黄もいない。あるいは、いないように見えるだけかもしれない。どの席にも色はなく、あるのは年季の入った服と、擦り切れた表情と、油断のない視線だけだった。

 誰もが好き勝手にしているようで、誰もが誰かを見ている。

 それでも顔ぶれはどれもガラは悪いが、殺伐とした雰囲気はない──ただ『ここにいること』が日常の延長であるように思える。

 店全体に視線を這わせ、客一人ひとりを眺めた凰乃は、初めて見る顔が入ってきたことを、この場の全員が理解したと悟った。

 白銀の髪。

 白を基調とした服装。

 全体を構成する白の中で、まるで黒曜石のような艶を放つ漆黒の瞳。

 灰色に沈んだ空間の中で、凰乃の存在は明らかに浮いていた。


「よぉ」


 男の一声が、その空気を破った。

 軽く手を挙げるだけの挨拶。

 それだけで、張り詰めていた空気が僅かに緩む。


「モルか。今日は早いな」


 カウンターの向こうから低い声が返った。

 店主は五十を超えていそうな男で、体格は細いが背筋だけは真っ直ぐ伸びていた。年季の入ったエプロンを腰に巻き、手元のグラスを拭いている。


「連れだ」


 モルと呼ばれた禿頭の男は、そう言って凰乃を親指で示した。

 店主の視線が、今度はじっくりと凰乃に向けられる。値踏みではない。警戒でもない。ただ見慣れない存在を、見慣れないまま受け入れている目だった。


「……珍しいな」

「だろ」

「観光か?」

「さぁな」


 それ以上の詮索はなかった。

 店主はもう一度だけ凰乃を見てから、


「座れ。空いてるのはそこだけだ」


 と、カウンターの端を顎でしゃくった。

 壁際に座ろうとしたモルの腕を掴み、「そこは私が」と腰を下ろす。自然と店全体を見渡せる席。客たちの視線は、こちらの興味を完全に失ったわけではないが、露骨に注意を向けてくるものもなかった──モルが連れてきた客というのが、一つの判断材料になったのかもしれない。


「ここ、落ち着くね」

「変なガキだな。これだけ多くの注意を向けられたら、普通は居心地悪く感じるだろう」

「見られるのは慣れてるよ」

「まぁ、目立つもんな。お前の容姿──」


 そう言ってから、まだ名前を知らないことに気づき、


「モルだ。そっちは?」


 と手を差し出した。


「凰乃だ。よろしく、モル」


 握手を交わしていると、店主がグラスを二つ並べた。モルの前には年季の入った分厚いジョッキ。凰乃には少し小ぶりで縁が欠けてる杯。


「酒は飲めるか?」


 心配でも配慮でもない。客かどうかを測るための、ただの確認だった。


「嫌いじゃないよ」


 ふん、と鼻を鳴らした店主は、背後の棚から瓶を一本取り出し、無言で注ぐ。琥珀色の液体がグラスに落ちる音は、周囲の喧騒よりもずっと落ち着いて聞こえた。

 続いて店主は鉄板の置かれた調理台へ向かった。油を引き、何かを放り込む。ジューっと乱暴な音が立つ。

 肉だ。

 分厚くはないが、安物特有の嫌な匂いはしない。刻んだ香草と一緒に焼かれ、上から雑に塩が振られる。火加減は強すぎず弱すぎず、慣れた手つきだった。


「ほらよ」


 と皿が出された。焼いた肉に、豆を煮たものと固そうなパンが添えられている。見た目は質素だが、量はある。


「……ちゃんと食べ物だ」


 思わず漏れた凰乃の呟きに、モルが鼻で笑い、店主が言う。


「何を期待してたんだ?」

「もっとこう、正体がわからないモノが出てくるかと」

「それは別の店だ」


 淡々と告げる店主は、凰乃たちに出した酒を自分のグラスに注いだ。


「ここは飯を食う場所だ。賭けも、取引も、始末もやらねぇ」

「随分ちゃんと線を引いてるんだね」

「だから常連がつく」


 なるほどね、と凰乃は微笑む。

 この街は、どこでも無秩序というわけではない。場所ごとに守るべき線がある。

 店主はモルを一瞥し、グラスを掲げた。それ以上は語らない。だが、その一言で十分だった。

 凰乃もグラスを持ち上げ、三つの杯がぶつかって小気味いい音を奏でる。モルと店主が一気にグラスを空にするのを見て、一口含んだだけだった凰乃は自分も、と再度グラスに口をつけ一気に煽る。喉が焼けるような熱さに顔を顰めながらも、空になったグラスを店主に突き出した。


「下品な酒も、たまには悪くないね」

「良い飲みっぷりだ」

「ハッ、やるじゃねぇか」


 モルと店主が揃って笑みを浮かべる。

 店主がグラスに酒を注ぐと、それとは別にもう一つのグラスを凰乃に出した。


「だが、無理はすんなよ。潰れられても迷惑だ」


 透明な液体が入ったグラスを掴み、「大人だね」と凰乃は苦笑した。口から胃にかけて感じる熱を、ひんやりと冷まし、奪っていく。


「うん、水が一番美味しいね」

「正直なのはいいことだ。ほら、飯も食え」


 モルに促され、凰乃は皿に手を伸ばし、フォークに刺した肉を食べる。噛み千切ろうとしたが硬くてできず、結局そのまま頬張った。口いっぱいに含んだ肉を噛み締める。硬いが、噛めば噛むほど味が出る。脂も控えめで、腹に溜まりそうだった。


「顎が疲れる。……でも、悪くないね」


 素直な感想だった。

 店主は一瞬だけ口元を緩め、すぐに元の無表情に戻る。


「口に入れたまま喋るな。行儀悪ぃぞ」

「へぇ、そういうの気にするんだね」

「俺はどうでもいい。お前のためだ──コイツみたいになっちまうぞ」


 と店主はモルを見やった。


「俺みたいか。なら、立派に年を取った大人になれるな」

「この街に立派な大人はいねぇよ」

「それもそうだ」


 モルは豪快に肉を噛み千切り、酒で流し込む。

 凄いな、と素直に思いながら、凰乃はモグモグと咀嚼を繰り返す。


「確かに、口に含んだまま喋るのは行儀が悪いけど、だとすれば、私はこの店で一生喋れないかもしれない」

「……食べやすいようにしてやるよ」


 普段、凰乃のような少女が来る店じゃないのだろう。適当に切り分けられているが、子供が食べるにはサイズが大きい。気の毒に思ったのか、店主は凰乃に合わせた一口サイズに切っていく。

 ありがとう、と会釈する凰乃に、ゆっくり食え、と店主は離れていった。


「喉詰まらせるなよ」

「おいおい、随分と子供扱いしてくれるじゃないか」

「扱いも何も子供だろ」

「失礼だね。ほら、グラスを持ちなよ。一気飲み対決をしよう」


 水ではなく酒の入ったグラスを手に持ち、凰乃は挑むように言った。

 そんな凰乃に、モルは首を横に振って両手を挙げる。


「悪かった。俺の負けだ」

「酒に酔うのは早いよ?」


 モルの謝罪に気を良くしたのか、凰乃は茶化すように言った。傍から見れば完全にあしらわれているだけなのだが、たった一杯の酒で酔ったのか、そんなことにも気づかずに凰乃は笑う。


「素直なキミには私の酒もあげよう。遠慮なく飲むといい」

「……ああ、サンキューな」


 いらないだけだろ、という言葉をモルは貰った(押し付けられた?)酒と一緒に飲み込んだ。

 凰乃が未だに一口目の肉をモチャモチャと噛んでいるとき。


 ──きぃ。


 酒場の扉が静かに開いた。

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