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新境ブラックボックス  作者: 錆雪
第一章 悪の秩序、その胎動
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 酒場の扉を押し開けた瞬間、空気が変わった。

 外よりも湿っていて重い。タバコと酒と油の匂いが混ざり合い、喉の奥に絡みつく。呼吸をするたび、この街の内臓に踏み込んだような感覚がした。

 何より音が多い。

 笑い声、罵声、グラスがぶつかる乾いた音。椅子を引きずる耳障りな摩擦音。外の雑音とよく似ているが、こちらの方がずっと濃い。

 席が人で埋まっているからだろうか。広くはないが狭くもない店内は、妙な閉塞感があった。

 人の多さによる息苦しさか、それとも足を踏み入れた途端に向けられた視線の多さか。

 突き刺すような圧はない。

 ただ、見定めるような注意深さみたいなものを感じる。

 もっとも、この街において自分が異物であることなど凰乃も理解していた。それらの視線に構わずゆっくりと店内を見回す。

 赤も、青も、黄もいない。

 あるいは、いないように見えるだけかもしれない。どの席にも色はなく、あるのは年季の入った服と、擦り切れた表情と、油断のない視線だけ。

 誰もが好き勝手にしているようで、誰もが誰かを見ている。

 それでも顔ぶれはどれも柄が悪いが、不思議と殺伐とした雰囲気はなかった。

『ここにいること』『酒を飲むこと』『飯を食うこと』『馬鹿騒ぎをすること』──そのすべてが、彼らにとっては日常の延長なのだろう。

 凰乃は店全体へと視線を這わせ、客を一人ひとりを眺めた。

 同時に、この場の全員が『初めて見る顔が入ってきた』と理解していることを悟った。

 白銀の髪に白い肌。

 白を基調とした服装。

 全体を構成する白の中で、まるで黒曜石のような艶を放つ漆黒の瞳。

 灰色に沈んだ酒場の中で、凰乃の存在は明らかに浮いていた。


「よぉ」


 男の一声が、その空気を破った。

 軽く手を挙げただけの挨拶。

 それだけで、僅かに張っていた空気が緩む。


「モルか。今日は早いな」


 カウンターの向こうから低い声が返った。

 店主は五十を超えていそうな男だった。細身ではあるものの背筋は真っ直ぐ伸び、腰には年季の入ったエプロンを巻いている。手元では使い込まれたグラスを淡々と磨いていた。


「連れだ」


 モルと呼ばれた禿頭の男は、そう言って凰乃を親指で示した。

 店主の視線が、今度はじっくりと凰乃に向けられる。値踏みではない。警戒でもない。ただ見慣れない存在を、見慣れないまま受け入れている目だった。


「……珍しいな」

「だろ」

「観光か?」

「さぁな」


 それ以上の詮索はなかった。

 店主はもう一度だけ凰乃を見てから、


「座れ。空いてるのはそこだけだ」


 と、カウンターの端を顎でしゃくった。

 モルが壁際の席へ向かおうとしたところで、凰乃がその腕を掴む。


「そこは私が」


 先回りして腰を下ろし、隣を席を勧めた。

 自然と店全体を見渡せる位置だった。客たちがこちらへの興味を完全に失ったわけではないが、露骨に注意を向けてくる者もいなくなった──モルが連れてきた客というのが、一つの判断材料になったのかもしれない。


「ここ、落ち着くね」

「変なガキだな。これだけ多くの注意を向けられたら、普通は居心地悪く感じるだろ」

「見られるのは慣れてるよ」

「まぁ、目立つもんな。お前の容姿──」


 そこでモルは言葉を止めた。

 そういえば、まだ互いに名乗っていなかったことに気づき、


「モルだ。そっちは?」


 と手を差し出した。


「凰乃だ。よろしく、モル」


 二人が握手を交わしていると、店主がカウンターへ二つのグラスを並べた。モルの前には年季の入った分厚いジョッキ。凰乃には少し小ぶりで縁が欠けたグラス。


「酒は飲めるか?」


 心配でも配慮でもない。客として酒を出していいのか、ただそれだけを確かめる問いだった。凰乃が子供だからとか関係なく、客として平等に扱うその姿勢に思わず笑みが浮かぶ。


「嫌いじゃないよ」


 ふん、と鼻を鳴らした店主は、背後の棚から瓶を一本取り出し、無言のまま注ぐ。琥珀色の液体がグラスに落ちる音は、周囲の喧騒よりもずっと落ち着いて聞こえた。

 続いて店主は鉄板の置かれた調理台へ向かった。油を引き、何かを放り込む。じゅうっ、と乱暴な音が上がる。

 肉だ。

 分厚くはないが、安物特有の嫌な匂いはしない。刻んだ香草と一緒に焼かれ、上から雑に塩が振られる。火加減は強すぎず弱すぎず、慣れた手つきだった。


「ほらよ」


 しばらくして、凰乃の前に皿が置かれた。焼いた肉、煮込んだ豆、見るからに硬そうなパン。見た目こそ質素だが、量は十分にある。


「……ちゃんと食べ物だ」


 思わず漏れた凰乃の呟きに、モルが鼻で笑い、店主が言った。


「何を期待してたんだ?」

「もっとこう、正体がわからないモノが出てくるかと」

「それは別の店だ」


 淡々と告げる店主は、凰乃たちに出した酒を自分のグラスにも注いだ。


「ここは飯を食う場所だ。賭けも、取引も、始末もやらねぇ」

「へぇ」


 凰乃は僅かに目を細めた。


「随分ちゃんと線を引いてるんだね」

「だから常連がつく」


 なるほどね、と凰乃は微笑んだ。

 犯罪都市。無法地帯──そんな呼び名がついていても、どこもかしこも無秩序というわけではないらしい。この店には、この店なりの線がある。

 店主はモルを一瞥し、グラスを掲げた。

 それ以上は語らない。だが、それだけで十分だった。

 凰乃もグラスを持ち上げ、三つの杯がぶつかり小気味いい音を奏でる。モルと店主は一気にグラスを空にする。一口だけ含んでいた凰乃は二人を見比べた。それから負けじと再びグラスに口をつけ、一気に煽る。


「……っ」


 喉が焼けるような熱い。熱が食堂を駆け抜け、そのまま胃に落ちていく。思い切り顔を顰めた凰乃は、それでも空になったグラスを得意げに店主へ突き出した。


「下品な酒も、たまには悪くないね」

「いい飲みっぷりだ」

「ハッ、やるじゃねぇか」


 モルと店主が揃って笑みを浮かべる。

 店主がグラスに酒を注ぐと、それとは別にもう一つのグラスを取り出し、隣へ置く。


「だが、無理はすんなよ。潰れられても迷惑だ」


 透明な液体。

 凰乃はそのグラスを手に取り「大人だね」と苦笑しながら口をつけた。冷たい水が、口から胃にまで残っていた熱を奪っていく。


「うん、水が一番美味しいね」

「正直なのはいいことだ。ほら、飯も食え」


 モルに促され、凰乃は皿へ手を伸ばした。フォークを肉に突き刺し、口元へ運ぶ。

 噛み千切ろうと歯を立てた。


「んっ……」


 ゴムのような弾力が凰乃の顎に跳ね返ってきた。

 もう一度歯を立てる。が、


「んん……」


 小さな顎が出せる最大限の咬合力を繰り出すも、一向に嚙み千切れる気配がなく、結局そのまま口の中へ押し込んだ。

 頬を膨らませ、モグモグと咀嚼する。硬い。本当に硬い。けれど、噛めば噛むほど味が出る。脂も控えめで、腹にはしっかり溜まりそうだった。


「顎が疲れる。……でも、悪くないね」


 素直な感想だった。

 店主は一瞬だけ口元を緩めたが、すぐに元の無表情に戻った。


「口に入れたまま喋るな。行儀悪ぃぞ」

「へぇ、そういうの気にするんだね」

「俺はどうでもいい。お前のためだ──コイツみたいになっちまうぞ」


 と店主はモルを見やった。


「俺みたいか。なら、立派に年を取った大人になれるな」

「この街に立派な大人はいねぇよ」

「それもそうだ」


 モルは豪快に肉を噛み千切り、そのまま酒で流し込む。

 凄いな、と素直に感心しながら、凰乃はモグモグと咀嚼を繰り返す。


「確かに、口に入れたまま喋るのは行儀が悪いけど」ともごもごとした声で凰乃が言う。「だとすれば、私はこの店で一生喋れないかもしれない」

「……食べやすいようにしてやるよ」


 普段、凰乃のような少女が来る店ではないのだろう。適当に切り分けられていて、子供が食べるには一切れが大きい。気の毒に思ったのか、店主は凰乃に合わせた一口大へ切り分けていく。

 ありがとう、と会釈する凰乃に、ゆっくり食え、と店主は離れていった。


「喉詰まらせるなよ」

「おいおい、随分と子供扱いしてくれるじゃないか」

「扱いも何も子供だろ」

「失礼だね。ほら、グラスを持ちなよ。一気飲み対決をしよう」


 水ではなく酒の入ったグラスを手に持ち、凰乃は挑むように言った。


「……」


 モルは凰乃を見た。次に酒を見る。そして、静かに首を横に振って両手をあげた。


「悪かった。俺の負けだ」

「酒に酔うのは早いよ?」


 謝罪を引き出したことで気を良くしたのか、凰乃は勝ち誇ったように笑う。

 傍から見れば完全にあしらわれているだけなのだが、どうやら先ほどの一杯だけで少し酔いが回っているようだった。本人だけがそれに気づいていない。


「素直なキミには私の酒もあげよう。遠慮なく飲むといい」

「……ああ、サンキューな」


 いらないだけだろ、という言葉をモルは貰った──あるいは押し付けられた──酒と一緒に飲み込んだ。

 凰乃はというと、未だに最初の一切れをモチャモチャと噛んでいる。

 そんなときだった。


 ──きぃ。


 酒場の扉が静かに開いた。

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