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赤地区動乱編 悪の秩序、その輪郭4

          4


 通りへと一歩踏み出した瞬間、音に包まれた。

 楽しげな笑い声。飛び交う呼び込みの声。金属がぶつかる音。油の爆ぜる音。

 灰地区では遠かった音が、赤地区ではどれもが近い。


「……すごいね」


 思わず漏れた凰乃(おうだい)の呟きは、すぐに人の声にかき消された。視界の端を人が横切り、肩が触れる。咄嗟に謝罪を口にしようとしたが、ぶつかった男は一瞬だけこちらを見るだけで何事もなかったかのように歩いていく。


「……」


 気にした様子もなく去っていくその背中を、凰乃は不思議そうに眺めた。少し掠った程度とはいえ、犯罪都市と呼ばれる街だ。因縁でもつけられるかと思ったが、男は僅かですら嫌な顔を浮かべることはなかった。

 だが、理由はすぐにわかった。

 立ち止まれないのだ。

 男が二、三歩進んだところで、今度は別の人と肩が触れ合う。さらにその横を、焼きそばやタコ焼きを抱えた客がすり抜けていく。誰も足を止めない。謝罪の声も上がらない。

 通りは人で詰まっていた。避けようとしても避けきれない。気にしていたら前へ進めない。

 ぶつかること自体が、ここでは特別な出来事ではなかった。人が多すぎて、衝突は前提になっている。

 だから誰も怒らない。

 怒るほどの意味をそこに見出していない。

 灰地区とは異なる住人の特徴に思わず笑みがこぼれる。

 すると、


「凰乃!」


 とモルの呼ぶ声が聞こえた。

 声の方向へ目を向けると、逆側の通りにモルが立っていた。人ごみを掻き分けてモルの許へと向かうと、一気に人の密度がなくなった。

 いや、人の数は相変わらず多い。

 人の流れがなくなったのだ。


「座れる場所もあるんだね」


 人が行き交う通りと比べ、ここらは乱雑に置かれた椅子やテーブルで埋まっていた。


「中央通りは人の往来が激しいからな。屋台を見て回るにはいいが、座って食うなら外れの通りに来ればいい」

「それでも人は多いね」


 どのテーブルも人で埋まっていて、椅子を確保できなかった人たちは壁にもたれたりその場で屈んでいたりと、人が流れないだけで人数自体にそれほど差は感じなかった。

 お祭り騒ぎの空気を全身で感じながら、周囲を興味深く眺めていると凰乃は気が付いた。

 時折、視線がこちらに向けられていることに。

 屋台の裏。

 通りの角。

 人の流れが途切れる場所。

 そこに立つ男たちの身体には赤い布が巻かれていた。主張は強くない。が、隠す気もない。彼らは街の一部としてそこにいた。

 視線が合う。

 すると、男は何も言わずただ一度だけ頷いた。

 敵意はないが、見逃しているわけでもない。


「……すごい見られてるね」


 凰乃の呟きにモルは疑問を浮かべた。しかし、その視線を追った先にいる連中を見て合点がいったようだった。


「俺たちはここの住人じゃないからな。赤地区に限らずだが、灰地区以外では他所の地区から来た奴は常に監視されてると思っていい。同じ地区の人間以外は、基本的に不穏分子扱いが常だからな──けどまぁ、何もしなきゃ何もしてこねぇから気にするな。俺たちはただの客。厄介者じゃねぇ」

「ふふっ、そうだね」


 意味深に笑う凰乃に、モルは露骨に眉を寄せる。


「……頼むから、変なことしてくれるなよ?」


 何も答えず黙って笑みを返す凰乃に、モルがわざとらしくため息を吐いた時、少し先で声が荒れた。


「金が足りねぇって言ってんだろう!」


 屋台の前で男が店主に詰め寄っていた。赤い顔に大きな声。詳しい経緯はわからないが、一目見ただけで客の男が言いがかりをつけているとわかった。

 周囲の客は距離を取ったが、誰も逃げ出すことはない。


「灰地区の奴か」


 とモルは呆れ混じりに言った。


「知り合いかい?」

「いや。ただ、やり口が灰地区でよくあるやつだからな。釣りが足りない、といちゃもんをつける。灰地区の場合、大抵殴り合いになってそれで終わるんだが──」


 言い終わるより早く、赤い布が動いた。構成員が二人。一人が無言で間に入り、もう一人が男の背後に立って肩を掴んだ。

 触れられたことで反射的に振り返ろうとしたその時、説明もなく、警告もなく、鈍く短い音が鳴り、それをかき消すように男の呻き声が響いた。

 男は地面に膝をついてえずく。

 構成員はそれ以上手を出さず、ただ一言告げた。


「そういうのは他所でやってくれ」


 腹を押さえて唾液を垂らす男は、うずくまったまま顔だけをあげて構成員を睨みつける。殴られっぱなしが気に入らないのか、震える手で構成員の脚を掴んだ。このまま黙って引く気がないことを察した構成員は、対面にいるもう一人に目配せする。小さなため息と頷きを合図に、男の首根っこを掴んで路地の奥へと消えていった。

 店主や周囲の客はその背中を暫く眺めていたが、姿が見えなくなるとすぐに通りは元の音で溢れかえった。面倒くさそうに小さく息を吐き、何事もなかったかのように次の客に料理を差し出す店主。その背後で子供が串焼きをねだって母親の手を引っ張っている。

 凰乃は消えていった路地と周囲の客を交互に見やる。

 音が戻るまでの一瞬、通りを満たした奇妙な静けさ。その静けさがこの街の異常さを際立たせていて、普通に生活する一般市民たちが暴力に慣れていることを理解する。

 乱暴。

 だが、無差別じゃない。

 誰かが殴られた。

 だが、誰も巻き込まれていない。


「……美しいね」


 思わず零れた言葉に、モルが怪訝そうな顔を向けた。


「どこがだ」

「線がはっきりしてる」


 善人に向かない。

 逃げ場を与えない。

 やった分だけ返ってくる。

 凰乃は、胸の奥が静かに満たされていくのを感じていた。

 この街の悪は、今日を生き延びるための答えを確かに持っている。


「赤地区に来て揉め事はまだ一件だけ。今日は平和なほうだ」

「赤地区に来てまだ数十分だが、普段はもっとあるのかい?」

「目に付くトラブルがあの程度だからな」


 モルは構成員たちが男を連れ去った路地を一瞥した。


「さっきみたいな灰地区の人間が起こすトラブルはよくあるんだよ。街のルールを顧みずに、我を通してバカを見る奴が。赤地区にとっても取るに足らない出来事だ──ただ、これが黄や青の連中とのトラブルになると話は変わる」


 モルが周囲に視線を巡らせる。それを追うように凰乃も視線を向けると、金の装飾品をつけているグループや、青のスーツやネクタイに身を包む者たちがいた──目立つ色だとわかった途端、それまで気が付かなかった存在が急に輪郭を持つ。

 ただ。


「……当たり前のようにいるんだね。気が付かなかったよ」


 存在を認識したからこそ意識することができただけで、注意を向けなければ目立つ色でも街に溶け込む。それとも、凰乃の観察が甘かっただけなのか。

 一度意識すれば嫌でも目立つ彼らを見て、凰乃は反省するように苦笑した。


「赤地区に来たことで猩々緋(しょうじょうひ)のことばかり考えてたけど、彼らは常に争ってる関係なんだから、当然他所の街にだって繰り出してるよね」

「毎度毎度やり合うために来るわけでもないけどな。普通に客として来ることもある。逆に赤地区の連中が黄や青の街に行くことだってあるからな」

「不思議な関係だね。縄張り争いをしてるのに、出入りを禁止しないなんて」

「禁止にしてないだけで、別に歓迎もしてないだろうけどな。相手の縄張りに入るんだ。何をされても文句は言えねぇ。あえてその身を晒して抗争の口実作り、っていう考えもあるだろうしな」

「……なるほど」


 蒼月会(そうげつかい)黄金楼(おうごんろう)

 見れば普通に食事を楽しんでいるように思えるが、彼らの視線を追うとその先には必ず猩々緋の構成員がいた。そして猩々緋側もまた、街全体を見ているようでいて、視線の多くは黄や青に注がれている。

 互いに意識はしているけれど動く気配はない。


「表立って争うことはないのかい?」

「人目につくような争いは基本的に聞かないな。勢力争いは常に起こっているだろうが、それは水面下での話だ。衆人環視の中で争えば一般市民に被害が出る。もし他所の地区の市民に手を出したとなれば、逆に自分たちの地区の市民が襲われる危険が生まれる。相手に要らぬ免罪符を与えるようなことはしないだろうよ」

「ふふっ、それもそうだね」

「……楽しそうだな」


 今の話を聞いて何がおかしいのか、とでも言いたげな表情をモルは浮かべた。


「どこもちゃんと悪党でいいな、と思ったんだよ」


 一般市民に手を出さない訳は、無関係な人間を巻き込まないためではなく、不用意に相手に攻め入る隙を与えてしまうから、という利己的な考えからだ。市民を守るためではなく、あくまで自分たちが不利にならないための措置。

 逆にいえば、自分たちが不利にならない状況、もしくは有利に運べる環境が揃えば、一般市民の安否は度外視されるということ。


「今の均衡が美しいだけに、その懸念はいただけないな」


 屋台の火が揺れる。

 笑い声が弾む。

 人々は何事もない日常を楽しんでいる。

 その足元で目に見えない力関係が張り巡らされ、暴力は暴力によって抑え込まれている。

 かろうじて保たれている均衡──それが崩れる瞬間を、凰乃は少しだけ見てみたいと思った。

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