2
2
その男の身なりはこの街には似合っていなかった。
いや、街だけではない。時間とも、場所とも、何もかもが絶妙に嚙み合っていない。
白を基調としたスーツは不自然なほど汚れ一つなく、路地裏の淀む湿った空気さえ、男の輪郭を避けているように見えた。
暗がりでも目立つ白。
しかし、それは最初の印象にすぎない。なぜならそのスーツの大半は黒に侵食されていたからだ。生地一面に同じ文字が繰り返し織り込まれている。
──〈蔽〉と〈圧〉。
方向も大きさも不揃いな二文字が、表地だけでなく袖口や襟、果ては裏地にまでびっしりと刻まれていることを凰乃は知っている。
細かな刺繍でしかない。
それなのに、ジッと眺めていると文字そのものが蠢いているように見えてくる。
何度も見ているはずなのに、目が慣れることはなかった。
凰乃は気味悪そうに顔を顰め、こちらを見下ろしている男のスーツへ手をかざした。
白い掌から闇が滲みだす。
それは渦を巻きながら丸みを帯び、やがて怪しげな黒い火球へと姿を変えた。
決して明るくはないのに、薄闇の中で黒々と輝いている。
凰乃はメラメラと燃える火の玉を見せつけるように左右へ揺らし、薄く笑うと──そのまま男の太ももへ押し付けた。
ぽすっ、となんとも気の抜けた音を残し、火球が消えた。ただ太ももに触れただけで、スーツが燃えることもなければ、先ほど逃げていった男たちのように身体をすり抜けることもない。
浮かべていた笑みは鳴りを潜め、確認するように何度か男の足をぺしぺしと叩いてから、つまらなそうに息を吐いた。
「やっぱり、私は触れる。それなのに攻撃は通らない。……つまんないね」
スーツから手を離した凰乃は、今度は向かいの壁に手を突き出した。
掌の奥で、黒が蠢く。
それは何もないところから生まれた闇ではない──三人分の体重。三人分の転倒。無様に地面へ叩きつけられた衝撃。闇が吸い込んだすべてのエネルギーが、そのまま沈殿していた。
胸の奥が重い。
息を吐くたびに骨の内側が軋む。
先ほど一瞬だけ顔を歪めたのも、そのせいだった。
大の男三人が倒れ込んだ衝撃波、決しては軽くない。
そのせいでと言うべきか、そのおかげでと言うべきか、掌に集めた闇がゆっくりと熱を帯びていく。燃えているわけではない。ただ、行き場を失った衝撃が、別の形へ変換されているだけ。
やがて、新たな黒い火球が生まれた。
明かりを放つことはない。それなのに、薄闇の中で異様なほど存在感を放っている。圧縮された闇から、変換された熱が滲み出していた。
凰乃は腕を真っ直ぐ伸ばし、手首のスナップだけでそれを放った。
音もなく壁へぶつかった──爆発は起きない。燃え上がる炎もない。ただ、壁の表面を走るように、温度だけが跳ね上がった。
拡散した熱が凰乃の肌を撫でる。同時に石が軋み、拳大に亀裂が走った。耐えきれなくなった破片が、パラパラと地面へ落ちていく。崩れた壁に焦げ跡はない。ただ、触れずともわかるほどの熱だけが、そこに残っていた。
「これが、正しい結果だよ」
「随分と壁には容赦がない」
男は火球を押し付けられた太腿をわざとらしく払いながら、凰乃の隣へ屈み込んだ。
「暴力の矛先を選ぶ。それが今のキミの美徳だ」
「……褒めてる?」
「編集的にはね──ただ、その線の外にいるのが僕だ」
凰乃は隣に屈む男を一瞥し、肩を竦めた。
「一般市民じゃないなら気にしないよ」
「悪人でもないんだけどなぁ」
「主人公でもないもんね」
「おっと! これは手厳しい」
言葉とは裏腹に楽しそうに笑う男を見て、凰乃は「それで?」と先を促した。
「今日は何の用事で来たんだい? 蔽圧」
蔽と圧。
二つの文字を纏った白いスーツ姿の男──蔽圧は凰乃に微笑みかけた。
「覚えててくれたんだね」
「忘れてたとしても思い出すよ。名札を着てるようなものじゃないか」
それはそうだ、と蔽圧は愉快そうに頷いた。それから徐に手をかざす。すると、何もなかったはずの掌に一冊の本が現れた。
革装丁の真っ白な本。汚れ一つない表紙には題も絵柄もない。
ただ背表紙にだけ【闇を操る異能──凰乃】と刻まれていた。
「キミの異能書」
蔽圧は本を開き、凰乃に見せるようにパラパラと捲った。
「あの革命のときから現在進行形でキミの人生が物語として記され続けている本」
「知ってるよ。私が主人公の物語だろう?」
わかってることを何で改めて言ってるんだこの人は、と凰乃は内心で疑問を浮かべた。
最新のページが開かれると、真っ白な紙面に文字がひとりでに浮かび上がっていた。今この瞬間の出来事が、リアルタイムで文章へ変わっていく。
蔽圧はその一文を指差し、苦笑した。
「(わかってることを何で改めて言ってるんだこの人は)、か。心の中ではそんなことを思ってるんだね」
「趣味が悪いね。人の心情を勝手に覗くなんて」
「これが仕事だから仕方がない。楽しみでもあるし、役目でもある」
キミの役割が主人公であるようにね、と蔽圧は目を細めて笑った。
「……自分の人生の主人公は自分」
凰乃の呟きに、蔽圧は「その通り」と笑みを深めた。
「この世は誰もが主人公だ。自分の人生を歩むことは義務であり、愉快な物語を紡ぐことは使命である──つまらない物語しか作れない主人公に、価値はないからね」
そう言って凰乃の顔を覗き込む蔽圧の視線には、確かめるような、試すような、あるいは煽るような、様々な思惑が入り混じっていた。
凰乃は横目で見返し、冷めたように鼻を鳴らす。
「主人公を諦めたキミが随分と偉そうじゃないか」
「アハハッ、本当に容赦がない、でも、確かにその通りだ。ボクはもう主人公じゃないし、脇役ですらない。この世界の登場人物にボクの名前はない。歩むべき人生がないんだ」
開いているページを撫でながら、蔽圧は続ける。
「主人公を諦めたボクは裏方だ。キミたちのような現役の主人公を観測し、歩んだ人生を書物として残す──それをあの人に献上するための、ただのシステムだ」
猿真似ハネっていう名前だったかな、と凰乃の心の中で呟く。
直後、白紙だった場所へその言葉が刻まれた。
蔽圧はそれを読み、頷く。
直接話さなくても会話できそうだな、と凰乃は内心で思う。そう思えば、また文字が増える。
「確かにできるけど、この異能書はキミとボクの会話帳じゃない。今この瞬間の出来事は、キミの物語には不要なことだ」
指先が文章の上をなぞった。文字が消える。インクが薄れたわけでも、削り取られたわけでもない。まるで最初から何もなかったかのように、そこには真っ白なページだけが残っていた。
「猿真似ハネは、キミたちが物語に出てくるのを良しとしないのかい?」
「そんなことはないよ。ボクが必要ないと思っているだけで、他の財団職員には、自分たちとのやり取りを幕間として残す者もいる。編集は全てボクら職員に一任されているからね。だからこそ、少しでも面白い物語を紡いでほしいのさ。キミには期待している。だから異能書を渡したんだ」
「そんなこと言われてもねぇ。私は私のやりたいことをやるだけだよ」
「それでいいさ。それを見たいんだから」
蔽圧は満足そうに笑い、異能書を閉じる。ぱたんっ、という乾いた音が路地裏に響き、その余韻が消えるのと同時に、本そのものも跡形もなく消えた。
「誰もが主人公。でも、誰でもいいわけじゃない。ボクなりに魅力的な主人公を選んだつもりだ。異能書を渡したときにも言っただろうけれど、ボクはキミに期待している──それに、ハネさんだってキミに期待しているんだよ」
思いも寄らない言葉に、凰乃は僅かに目を見開いた。
「へぇ……、意外だね。キミの話を聞くに、もう何千年も前から人の人生を読み物として楽しんでる変わり者なのだろう? 大げさじゃなく、何百億、何千億っていう人生を読んできたんじゃないかい?」
「あの人は人間が大好きだからね」
「そんな人がどうして私を? 自分でいうのも何だが、見てて楽しい人生を歩んできたとは思わないよ。強いて挙げるなら、過去の革命ぐらいか」
「あれは良かったねぇ」
「ただあの出来事も、中心にいたのは私じゃない」
凰乃の脳裏に、一人の少年が浮かんだ。
故郷を去り、こうして数々の国を見て回るようになったきっかけをくれた人物。
人生を変えてくれた英雄。
その姿を思い浮かべるだけで、自然と口元が緩んだ。
「ノラの方が、主人公として魅力的だろう」
どこか誇らしげに凰乃は言った。
「猫屋ノラは魅力的だよ。彼の物語はすでに何冊も生まれている。ハネさんもノラの人生を楽しんでくれているしね──ハネさんが期待していることをキミは意外だと言ったけど、正直その期待の殆どはノラのおかげだ」
「ノラの?」
「今の彼を形作った要素にキミが大きく関係している。だから、ハネさんも待ってくれているんだよキミが主人公として歩き出すのをね」
その言葉で凰乃は察した。
どうして蔽圧が現れたのか。
そして、彼が先ほど口にした、いい導入だった、という言葉の意味を。
「革命のあと、国を出てからのキミは……正直に言うと、読み物としては弱かった」
凰乃は何も言わない。
否定も肯定もせず、ただ黙って続きを聞く。
「見聞を広げる。価値観を確かめる。うん、悪くはない。でも──それだけだ。流されて、考えて、立ち止まって。『何をする主人公なのか』がずっと曖昧だった」
凰乃の一挙手一投足が異能書には記される。
何を見たのか、何を聞いたのか、何を感じ、何を考えたのか。
そのときの心情すら余すことなく記録されるのだから、蔽圧は凰乃と全く同じ経験を積んできたといっても過言ではない。
それに、彼が異能書を渡したのは凰乃だけではない。
今や世間に名を馳せるほど有名になった猫屋ノラにも渡している。彼の歩んできた人生と比べ、ここまでの凰乃の歩みが物足りなく映るのも頷けた。
「退屈、とは言わないさ。ただ、物語にならなかった──でも、さっきのは違う。今日まで深めてきたキミの思想が、ようやく芽を出した。さっきの出来事をプロローグにして、キミの人生はようやく『続きが読みたい物語』になった」
凰乃は蔽圧と視線を合わせた。
しばらくジッと見つめるたあと、小さく肩をすくめる。
「それは脅しかい? ここで猿真似ハネに見せるに足る出来事を起こせ、と」
「どう受け取るのかはキミ次第さ。キミの人生だ。選択も、それに伴う責任も、すべてキミのモノだよ──ただ、……そうだな。これはキミを主人公として選んだ編集者であり、読者でもあるボク個人の贔屓だけど、これが最後だと思っていい」
凰乃を見つめる瞳には、期待と憂い。相反する感情が、ごちゃ混ぜになって宿っていた。
「締め切り限界ギリギリだ。これ以上の先延ばしは不可能。今日まで散々取材はできただろう? ここからは、主人公として愉快な人生を執筆する段階だ。しかし、チャンスは一度きり。この世界に、主人公は腐るほどいる。キミの物語がここで打ち切られるのか、それとも、この先も続いていくのか──主人公に大切なのは、続きが気になるかどうかだとボクは思う。そう考えると、さっきの出来事は導入として素晴らしい」
期待しているよ。
最後にそう言い残し、蔽圧の輪郭が薄れていく。白いスーツも、穏やかな笑みも、路地裏の空気へ溶けるように消えていった。
路地には凰乃一人。
正面の壁に留まっていた熱もいつしか失われ、辺りは再び静寂に包まれる。
「……期待、か。自分の人生を諦めたくせに、随分と好き勝手言ってくれるね」
壁に背を預け、顔を上げて、建物に挟まれた細い夜空を見上げた。
その遥か先にいるであろう、他者の人生を読み物として楽しむ観測者を思う。
「見られることを意識した人生ほど、退屈なものはない。そう思わないかい?」
まるで誰かに語り掛けるように、凰乃は呟いた。
「まぁ、言われなくてもやるさ。そろそろノラにも会いたいしね。彼に見合う悪人にならなければ──主人公としてね」
黒い瞳が、細く切り取られた夜空を移す。
「悪を選ぶことと、悪に堕ちることは違う」
それは誰かに聞かせる言葉であると同時に、自分自身へ課す宣言でもあった。
「それを体現しようじゃないか──親愛なる読者、猿真似ハネ」




