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猿真似ハネ曰く、
「観られぬ物語は存在せんのと同じじゃ」
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街灯の届かない場所に夜は集まる。
涼やかな月光が膜を張るように、中心街から流れてくる喧騒や明かりを弾いていた。まるで音や光の居場所など初めからないとでもいうように、静寂と闇だけが周囲に居座る。
そんな場所に、声だけが入り込んでくることは珍しくない。
乱暴で、短気で、必要以上に大きい耳障りな声。
心地よい静寂に混じるノイズに、少女は足を止めて振り返った。音の方角を確かめると、そこは闇が溜まる路地裏。一度意識してしまったせいか、先ほどよりもやけに鼓膜を叩いてくる。
少女は小さくため息を吐き、そちらへ足を向けた。
わざわざ街の影へと身を隠しているくせに、随分と自己主張の激しい騒音だ。
そんな呆れを滲ませながら路地を覗くと、そこには予想通りの光景があった。
ガラの悪い男が三人。一人の市民を壁に押し付け取り囲んでいた。何が面白いのか、顔をにやつかせる三人。そのうちの一人が市民の腹に拳をたたき込み、くの字に折れる身体を髪を掴んで無理やり引き起こした。
目元だけを覗かせジッと眺めていた少女は、つまらなそうに目を細める。ただ暴力を振りたいだけなら相手などいくらでもいるだろうに、わざわざ善良な市民を選んで危害を加える。その行為に呆れながらも、彼らの目的が暴力そのものではないことも察していた。
案の定、市民から金を巻き上げ始める。
それを見届けてから、少女は夜の路地へと足を踏み入れた。
場にそぐわない音はやはり異彩を放つ。少女が彼らの声をノイズと捉えたように、向こうも少女の足音はノイズだったのだろう。
路地裏に反響する軽やかな足音に、三人の視線が一斉に少女を捉えた。
「……ガキ?」
突然の乱入者に警戒を浮かべていた男たちだが、現れたのが若い女だとわかるや、すぐに先ほどと同じにやけ面に戻った。
「どうしたんだ? こんな時間に。女の子一人じゃ危ないぞ」
言葉とは裏腹に親切など欠片もない下卑た表情と粘つくような声音。すでに貰うものは貰ったから市民は用済みなのだろう。乱暴に突き飛ばしたのは解放してやったからではなく、これから始まる品性の欠片もない行為に邪魔だっただけ。
逃げるなら今しかない。
ここに残ったところで何もできないのに、自分よりも酷い目にあうだろう少女が心配で立ち去れない。だからって男たちに立ち向かうこともできず、痛む腹を押さえて立ち尽くすだけ──それとも、目の前にいる少女に視線を奪われたからだろうか。
月明かりを受けて浮かび上がる肌は、血の通った人間のものとは思えないほど白い。夜に紛れるはずの身体は、逆に闇から切り抜かれたように際立っていた。腰まで伸びる白銀の髪が微かな風に揺れる。その一本一本が淡い光を含み、現実の色彩から僅かに外れている。膝上までのワンピース。肩に羽織るカーディガンは、まるで月光を纏う羽衣にも見えた。
白を基調とした装い。
それは清らかさというより、闇の中でなお己の存在を主張するための色に思えた。
そして、何より目を奪われたのは──その瞳だ。
闇を限界まで磨き上げたような底の見えない黒。本来なら光を映すはずの場所には何も映していない。にもかかわらず、不純物をろ過し、あらゆる穢れを取り除いた、最高密度の夜空のような輝きを宿している。
相反するはずの二つが、平然と同居していた。
市民はそこで、遅れて気づく──もしかすると、逃げるべき相手を間違えたかもしれない、と。
一方、男たちが少女に抱いた感想はまるで違うらしい。舐めるように全身に這わす視線は徐々に危ない色に染まっていく。
少女の姿が男たちの背に隠れたとき、市民の肺が、これまで息を止めていたことを訴えた。大きく空気を吸い込む。しかし、思いのほか大きな呼吸音が漏れ、咄嗟に口を手で押さえた。
そんな無意識の行動に困惑しながらも、息を潜めるように一歩、また一歩と後退る。
一体何から逃げようとしているのか、市民自身にもわからなかった──が、
「……どうして、あの人からお金を取ったんだい?」
という声に足が止まった。
その声は低くも高くもなく、夜に溶けるように静かだった。
「あぁ?」
男たちが市民を振り返った。
三人の視線を受け、矛先がまたこちらに向いたのかと肩をビクつかせた──わけではなかった。そもそも市民の視線は男たちなど捉えておらず、左右の壁や足元へと落ち着きなく彷徨わせていた。
まだこの場にいることに顔を顰める者、挙動不審な態度を鼻で笑う者、ただ市民のことを話題に出されたから振り返っただけの者。
三者三様の反応を見せた男たちは、すぐに少女へと向き直り、一様に口元を吊り上げた。
「盗ったんじゃねぇよ。アイツがくれたんだよ。なぁ?」
「そうそう、友達なんだよ俺ら」
ニヤニヤと笑い合う男たち。
そんな彼らを見上げながら、少女は納得したようにコクコクと小さく頷いた。
「はぁ……。わかってたけど、しょうもないね、キミたち」
白けきった嘆息。あからさまな嘲弄。疑いようもない侮辱。
自分たちが何を向けられたのか一瞬で理解した彼らは、眉間にしわを寄せ、怒気を孕んだ声で少女を威圧した。先ほど市民を殴った男が、少女の胸倉を掴もうと手を伸ばす。
「おいガキ。あんま調子乗んな──」
男の手から逃げるように、少女が一歩後ろ下がる。
しかし、少女の小さな歩幅ではすぐに距離を詰められるだろう。それでなくとも相手は三人。自分よりも遥かに身体の大きな大人だ。最初の一手を逃れたところで、続く二手三手からは避けられない。
──それが普通の少女だったらの話だが。
「うおっ!?」
伸ばした手を躱され、逃がすまいと一歩踏み込んだ男が、そのまま無様に倒れ込んだ。咄嗟に両手をついて受け身を取ったため、地面に顔を打ちつけることはなかったが、男は驚きと困惑を浮かべながら自分の足元を振り返った。
「何やってんだお前?」
「ダサすぎだろ!」
うつ伏せに倒れている仲間を見て笑う二人──だが、
「ちょっ、なんだよこれ!」
という男の怒号にその笑みが消えた。
男は立ち上がろうともせず、悪態を吐きながら腕立て伏せの体勢で身じろぎを繰り返す。
あまりにも必死なその姿に、ようやく他の二人も異変に気付いた。
地面についている男の両手がなくなっていた──いや、なくなったように見えているだけ。暗い路地でわかりにくいが、両手が真っ黒な何かに覆われていた。
そしてそれは両手だけでなく、両足も同じだった。
「な、なんだこれ!」
異変は倒れている男だけでない。残る二人も膝から下が黒に染まっていた。まるで地面に埋まっているかのように、両足がびくともしない。感覚はあるのに視認できない。その気味悪さに耐えかね、足を覆っている何かを振り払おうと手を伸ばし──そこで気づいた。
両足のみならず、地面までもが闇に覆われていることに。
そしてその闇は、周囲の壁にまで至っていた。
固体なのか液体なのか気体なのか。質感すら定かではない漆黒が、地面も建物も呑み込んでいる。街灯も届かない路地裏とはいえ、細く切り取られた空からは月明かりがぼんやりと差し込んでいるはずのに、少しの明るさも感じられない。
そんな完全な闇の中。
まるで宇宙に輝く天体のように、少女の姿だけが鮮明に浮かび上がっていた。
彼らはようやく気付く。
少女の異質さに──そして、異常さに。
少女が一歩踏み出すと、残る二人は反射的に後退ろうとした。足元が動かない状態では当然下がることなどできない。すでに少女への恐怖が理性を上回っていたのだろう。動かない足を忘れるほど勢いよく後ろへ下がろうとしたせいで、二人の上体はそのまま漆黒の地面へ倒れ込んだ。
頭や背中を打たないよう、咄嗟に背中越しに手を伸ばす。
それでもある程度の痛みは覚悟していたが、倒れたときに感じた衝撃は皆無だった。
まるで衝撃が吸収されたかのように感覚がない──だからといって安心などできるわけもなく、腕や腰に纏わりつく闇によって、今度こそ完全に身動きを封じられた。
倒れた二人には目を向けず、少女は最初に倒れた男の傍で屈み、ポケットから奪った金を取り出した。そのまま市民の元へと歩いていく。地面を覆う闇の上を歩いている間は、足音どころか僅かな振動すら起きないのに、闇を抜けて石畳へ足を踏み出した瞬間、世界が正常に戻ったみたいに軽やかな足音が鳴った。
いっそ可愛いらしいほど小さな足音。
にもかからず、市民の鼓膜をうるさいほど震わせていた。
自分より背が低く、身体も細い少女。
それなのに、一歩近づいてくるたび、その存在の大きさに気圧される。思わず後退ってしまった市民は、怯えを見せてしまったことで気を悪くさせたかもしれない、と不安になった。
しかし、少女は気にした素振りもなく握っていた金を差し出した。
「逃げていいよ。でも、次は自分で考えて」
ジッと市民を見上げる。
その真っ黒だが妙な輝きを宿す瞳に釘付けになっていると、
「……いらないのかい?」
と少女が小首を傾げた。
市民はハッと我に返り、慌てて金を受け取って視線を逸らす。
これ以上、この少女を見てはいけない。
これ以上、接点を持ってはいけない。
本能めいた警告に従うように、市民は何度も頭を下げ、礼を口にしながら走り去っていった。
その姿が見えなくなるまで眺めていた少女は、踵を返して男たちの元へと戻る。
これから自分たちはどうなるのか。
息を呑んで少女を見つめる男たちは、反省や後悔ではない、保身のためだけに謝罪を口にしようとした。
その時、自分たちに纏わりついていた闇が蠢き、少女の身体へと吸い込まれていった。壁や地面を覆っていたものも、すべての闇が少女の元へと還っていく。その小柄な体躯では到底収まりきらないだろう質量の闇が、一片たりとも残すことなく吸収されていった。
最後の闇を呑み込んだ瞬間。
「──っ」
小さなうめき声とともに、少女の顔が僅かに歪んだ。
ただそんなことよりも身体の自由が戻ったことに意識を奪われ、勢いよく立ち上がると少女から距離を取る。
ここで一目散に逃げださないのは、少女に背を向けることを恐れてだろうか。異質な存在と向き合い続けるより、視界から外してしまう方が危険だと、本能が告げているのかもしれない──どちらにせよ、その警戒に意味などなかった。
すでに少女は、彼らへの興味を失っていたのだから。
「ん?」
警戒心を露わにジッとこちらを見据える三人に、少女は怪訝な表情を浮かべた。
暫く視線を合わせていると、ふと思いついたように口を開く。
「脅した。殴った。奪った」
一つ、二つ、三つ──数えるように指を折る。
「悪いことをしたからって特別になれるわけじゃない。それはただ、楽なほうを選んだだけ。悪は否定しない。善と同じくらい大事なことだと私は思ってる──でもね、向けちゃいけない相手がいることを理解しなきゃいけない」
底の見えない黒い瞳が、三人を捉えた。
「キミたちは、線を越えた」
ゾッとするほど冷めた瞳と声。決して大きな声を出したわけじゃないのに、その言葉は腹の底まで沈み込むような重さを持っていた。
恐怖に身体を強張らせる男たちに、少女はひらひらと手を振った。
「逃げていいよ。でも、忘れないでね」
許された。そう思った。
言われるがまま一斉に駆け出す。少女へ背中を向けた瞬間、その存在も、闇の名残も、思考の外へと弾き出された。生き延びるための衝動だけが、彼らの足を動かしていた。
遠ざかっていく背中を一瞥し、そこまで必死に逃げるなら暴力なんかやめればいいのに、と少女は呆れ混じりに苦笑する──と、そこで少女は人影に気づいた。
路地と通りの境目。
道を塞ぐように立っている。隠れるでもなく、避けるでもない。まるで最初からそこにいたかのように。
路地を駆ける男たちは減速しない。このままではぶつかるだろうし、その前に道を塞いでいることに腹を立て一悶着起こすかもしれない。
まぁ、少し怖い目にあわせた直後だし大丈夫だろうけれど、それでも、この後あの人影がどう動くのか少し気になった。
少女は壁へ背を預け、その行く末を眺めることにした。
人影が微動だにせず、男たちも止まる気配がない。
距離が縮まる。
あと数歩。
──ぶつかる。
そう確信した瞬間、面倒そうに成り行きを眺めていた少女の表情が変わった。
乱雑な足音が路地裏から消え、遠ざかっていく。
それ以外の音はなく、徐々に静寂が場に満ちた。
──ぶつからなかった。
完全に正面衝突する軌道だった。
なのに男たちは、人影など存在しなかったかのように通り抜けていった──まるで蜃気楼の中を駆け抜けたように。
「……はぁ」
驚きに目を見開いていた少女だったが、やがて億劫そうにため息を吐いた。
その場にしゃがみ込み、壁に背を預けて、こちらへ歩いてくる人影を見つめた。
一度目にすれば嫌でも忘れないだろう奇抜な身なり。にもかかわらず、妙に存在感がない。
見えている。そこにいる──なのに、意識から零れ落ちそうになる。
まるでこの世界とは別のレイヤーにいるような、奇妙な希薄さ。
先ほどよりも静まり返った路地裏を、その人影は歩いてくる。
足音一つも立てず、やがて少女の眼前で立ち止まった。
穏やかな表情──少なくともそう呼ぶしかない表情を浮かべるその男は、小さく拍手をして言った。
「やあ、凰乃。いい導入だったよ」




