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凰乃が言い終えるより早く、床が爆ぜた。
赤嶺の姿が弾丸のように掻き消える。一瞬にして浮雲との距離をゼロにし、踏み込みだけで床板が砕け散った。弾き飛ばされた椅子が壁に激突し酒場全体が揺れる。
それと同時に、拳が振り下ろされた。技術も駆け引きもない、ただ真正面から相手を叩き潰すためだけの一撃。躱すという選択肢すら許さない、純粋な暴力だった。
しかし、浮雲はカウンターにもたれた姿勢をほとんど崩さなかった。眠たげな瞳を僅かに細め、肩を数センチほど傾ける。
それだけで、赤嶺の拳は空を裂いた。
浮雲の頬を掠め、そのままカウンターへ突き刺さる。分厚い木材が砕け、無数の破片が宙を舞う。飛び散った木片が棚を直撃し、並んでいた酒瓶が次々と割れた。琥珀色の液体が雨のように降り注ぐ。
「──お、おいゴラァァアアッ!!」
店主の怒号が酒場に響き渡った。
「何してくれてんだテメェはッ!!」
しかし、赤嶺も浮雲も振り向かない。
それどころか、凰乃を除く三人もまた浮雲だけを見据えていた。
凰乃は顔を真っ赤にする店主を一瞥すると、視線を赤地区の三人へ移す。凰乃は気づいていた。三人とも僅かだが椅子から腰を浮いていたことに──おそらく、赤嶺が先に動かなければ、浮雲へ躍りかかっていたのは彼らだったかもしれない。
やがて静かに腰を下ろす三人を見て口元を緩めた凰乃は、再度赤嶺のほうへ向き直った。
赤嶺はカウンターを貫いて床板にまで亀裂を走らせた拳を引き抜こうともせず、獣のような目で浮雲を睨み上げる。
「テメェ……赤地区に奴を寄こしたってのは、本当か?」
低く押し殺した声。
返答次第では次の暴力が生まれるだろう問いかけに、浮雲は気怠げに視線を落とした。
「そうだね」
赤嶺の額に青筋が浮かび、顎を砕く勢いで拳が跳ね上がった。
目にもとまらぬ速さ。
だが、浮雲はまたしても最小限の動作で躱した。顎を僅かに上げる。眼前を通り過ぎた拳の風圧が、ぼさぼさの前髪を揺らした。
「……話を聞く気はあるのかい?」
「ほう。厄介事をこっちに押し付けた理由がちゃんとあるってのか?」
肩を竦める浮雲に、赤嶺は一歩踏み込んで顔を詰めた。
空気が軋む。
一般客が残っていれば呼吸すらままならないであろう張り詰めた空気のなか、それでもこの場にいる者たちは誰一人として臆していなかった。
もっとも、壊れたカウンターを前に頭を抱えている店主だけは別だった。
凰乃はそんな店主へ歩み寄り、そっと肩に手を置いた。
「気の毒にね。怪我はないかい?」
「……お前、いい奴だな」
「おいおい、私は悪人だよ」
「……確かに、お前が余計なことを喋ったせいでこうなったんじゃねぇか」
「おいおい、それは違うさ。壊したのは赤嶺で、その原因は浮雲。私は真実を口にしただけだよ」
「……はぁ」
悪びれもせず微笑む凰乃に、店主は深いため息を吐いた。
凰乃はその肩をぽんぽんと叩き、赤嶺へ向き直る。
「赤嶺。カウンターを殴ったことで多少は溜飲が下がっただろう? どうやらキミは私よりも浮雲のことを知っているようだし、彼が意味もなく影の異能者を赤地区に向かわせたわけじゃないことくらいわかるんじゃないかい?」
鼻先が触れるギリギリの距離で浮雲を睨みつけていた赤嶺は、顔を離して凰乃を一瞥した。
「そりゃあ意味はあんだろうよ。だが俺の知るコイツは、面倒だから他所に押し付けたとかぬかす野郎だ」
「……ふむ、それもそうだね」
「こらこら、凰乃ちゃん」と浮雲は苦笑する。「確かに俺は面倒くさがりだけど、これに関してはキミにも理由を話しただろう?」
「ふふっ。そうだったね。忘れてたよ」
悪戯っぽく笑う凰乃に、
「頼むよ友よ。また殴られる」
と浮雲困ったように肩を落とした。
凰乃は満足したのか、元の席へ戻って腰を下ろす。お猪口にオレンジジュースを注ぎ、「美味しい」と何事もなかったかのように飲み始めた。
そのあまりのマイペースさに毒気を抜かれたのか、赤嶺は鼻を鳴らしカウンター席に座った。浮雲を正面から見据え、足を組んで顎をしゃくる。
「聞いてやるよ。話せ」
「話の途中で殴りかかってくるのはやめてくれよ?」
「それは内容次第だ」
「おっかないねぇ」
言葉とは裏腹に、浮雲は一切の警戒心もなくカウンターへ頬杖をついた。
「影の異能者……いや、彼はもう影の穢主か──先に結論を言っておくけど、この段階で殴るのは禁止だぜ」
「いいから話せ」
「キミが言った通り、面倒だから赤地区に押し付けた」
赤嶺の眉尻が引き攣った。
だが、舌打ちするだけに留まり、拳が出ることはなかった。
「おー」
と凰乃が感心したように拍手をする。
「やめなさい」
ミリアが窘めた。
「今は茶化すな」
黒杭も呆れたように言う。
紅牙だけは何も言わず浮雲を見据えていた。
「彼とはこの酒場で会ってね。あの時点でほぼ手遅れ感はあったんだ。いつ異能が暴走して穢主になってもおかしくなかった」
浮雲は『異能が暴走して』表現した。
これは非異能者である紅牙たちにも伝わるよう、あえてそう言いかえたのだろう。
その言葉が指しているものを凰乃と赤嶺は知っている──猿真似財団による異能書の破棄。
凰乃は男との初邂逅の時を思い返した。
あの男は、すでに追い詰められていた。
主人公であることに固執し、自分の物語が終わることを恐れていた。
そこへ現れた浮雲。
同じ異能者でありながら、明らかに格の違う存在。
さらに一般客を襲おうとしたところを、凰乃に阻まれた。
自分が主人公であると証明したい男にとって、あの一連の出来事は屈辱だったに違いない。
もっとも、物語の価値を決めるのは異能者自身ではない。
どれだけ足掻こうと、どれだけ見ごたえのある人生を送ろうと、最後に頁を閉じるのは猿真似ハネだ。
主人公の意志など、その判断にはほとんど関係がない。
だからこそ、穢主化の危険が迫っていると感じた浮雲が事前に対処しようとしたこと自体は理解できた。
「ここで暴れた後、他の客たちに外へ連れ出されてたよね。わざわざ追いかけたんだ?」
「その辺で穢主になられても困るからね」
「そのせいで、こちらが割を食ったわけか」
黒杭が嫌味っぽく言うが、浮雲は軽く肩をすくめるだけだった。
「でも、あの状態の彼とよく話ができたね」凰乃は興味深そうに首を傾げる。「まぁキミを見て自分との差を思い知らされていたようだったし、意外と素直に話を聞いたのかな?」
「ひと悶着はあったよ。絡んでた三人の客は殺されていたしね」
浮雲はなんてことないように言った。
その三人組を知っている凰乃も、その状況に立ち会っていない赤嶺たちも、特に反応することはなかった。
すでに身内を殺されている赤嶺たちにとって、男がさらに三人を殺めていたところで今更驚くような話ではないのだろう。
浮雲は赤地区の四人を見やる。
「面倒な処理を避けるため、灰地区で異能災害が起こる前に赤地区へと誘導したのはその通りだけど、キミたちに期待してたのも本当なんだぜ?」
「……どういうことよ?」
怪訝そうに尋ねるミリアに浮雲が答える。
「キミたちの実力は認めてるんだ。不用意に街を荒らす奴が現れれば、猩々緋を筆頭にしてキミたちが対処するのはわかっていた。実際、影の穢主は赤地区で人を殺し回っていたと聞いたよ」
まるで噂を耳にしたかのような口ぶりの浮雲に、凰乃は一人ほくそ笑む。
後がなくなった主人公に見どころを作るための舞台として赤地区を勧めた結果、どのような展開になるのかなどわかっているだろうに。
加えて、男が酒場で口にしていた言葉。
『次で最後』
『盛り上げろ』
『見所のない人生は読まれない』
あれほど追い詰められた男が最後に何をしようとするのか、答えは難しくない。
名のある人物を倒し、自分こそが主人公であると証明する。
赤地区には、その相手が揃っている。
赤嶺を筆頭とする、裏社会の実力者たち。
直接的に赤嶺たちを殺ればいいと話したわけではないだろうが、それに近しい内容で男を唆したのは容易に想像できる。
そして浮雲自身、手遅れになる前に対処してくれると考えていた──つまり、男が暴れ回ることも、それによって赤地区に被害が出ることも、ある程度は織り込み済みだったのだ。
「異能災害が起こる前に排除してくれると思っていただけに、この結果は俺としても予想外さ」
まるで、責任のすべてが自分にあるわけではないと言いたげだった。
紅牙たちの纏う空気に剣呑さが混じる。
凰乃は口元を隠し、小さく笑った。
(今の推測を口にしたら、どうなるかな)
そんなことを考えていた、そのときだった。
「……なるほどな。そういうことだったのか」
全員の視線が赤嶺へ集まった。
凰乃は意外そうに目を細める。
てっきり赤嶺も紅牙たち同様に怒りを露にすると思っていた。
だが、その顔に浮かんでいたのは含みのある笑みだった。
確かに、浮雲の言うことにも一理ある。
影の穢主が赤地区で人を殺めてから、今日まで数日が経っていた。これが一般住民を狙った蛮行ならば言い訳もきくだろうが、被害者は紅狼鬼、薔薇悪鬼、黒狗の構成員。赤地区の裏社会で生きる者たちだった。
しかし、彼らは互いに疑い、猩々緋の関与を疑い、目の前の事件に潜む異能者の存在を見抜けなかった。結果として、男に数日もの猶予を与えてしまった。
その落ち度を、赤嶺は冷静に受け止めているのだろうか。
凰乃はそう考えた。
だが、赤嶺の笑みに妙な違和感を覚え、小さく首を傾げる。
「ずっと引っかかってたんだよ。アイツが俺たちの前に現れたとき、妙なことを言ってやがった」
赤嶺は組んだ足を戻し、膝に肘を置いて上体を前へ倒した。
紅牙、ミリア、黒杭を流し見る。
「アイツは、コイツら三人を見て『本当にここだった』と言った。それから俺を見て『なんでアンタがここにいる』と口にした──だから俺は、奴の裏には誰かがいると思ってたんだ。蒼月会か黄金楼か。どっちかが絡んでるんじゃねぇかってな」
そして、浮雲へ視線を戻す。
「だが、どうやら唆したのはテメェだったらしい。くだらねぇネタばらしを食らっちまったぜ」
「はははっ、お気に召さなかったようだね」
「ああ、気に入らねぇな、色々とよぉ」
赤嶺の瞳が鋭くなる。
「話を聞けば、影の穢主に余計なことを吹き込んだのは数日前だって言うじゃねぇか。たが、俺が奴と顔を合わせたのは今日だ──ついさっきのことだぜ?」
紅牙たちへ顎をしゃくる。
「俺はウチの連中を信頼してる。コイツらが抱えてる雑兵どもだって、まぁ最低限だが信用はある。少なくとも、身内を売るような奴らじゃねぇことは確かだ。仲間が殺されてるなら尚更だ」
カウンターに頬杖を突く浮雲は何も言わず、視線だけで先を促す。
それを受けた赤嶺は立ち上がり、ぐっと顔を寄せて凄む。
「わからねぇか? 影の穢主はコイツ三人があの倉庫にいることを知っていた。あの倉庫がコイツらの会合に使われていることは、俺は当然のこと、青や黄の連中だって知ってるだろうよ──だが、余所者の異能者が知っていたのは何故だ? 繰り返すぜ。身内を売るような奴を抱えているチームは、この場にはいねぇ。ましてや仲間を殺した相手だ。そんな奴が目の前に現れりゃ、是が非でも始末する」
鼻先が触れそうな距離。
赤嶺は浮雲を真っ直ぐに睨みつけた。
「赤地区の暴力ってのは、そういうもんだ」
凰乃は赤嶺の横顔を見つめた。そこに浮かんでいるのは、単なる怒りではない。浮雲という男への、心底からの嫌悪だった。
そして、ようやく凰乃も理解する。
赤嶺が問題にしているのは、浮雲が男を赤地区へ向かわせたことだけではない。
男が旧来勢力の頭目たちと出会うよう、誰かが舞台を整えていたこと。
そこまで浮雲が関与していたのではないか、と疑っているのだ。
紅牙たちも同じ結論に辿り着いたらしい。
三人の視線が、浮雲に集まる。
その視線を真正面から浴びながら、浮雲は無防備にも額に手を当て、天井を仰いだ。
「……見た目の獰猛さに反して、本当に頭が回るよね。キミはさ」
「褒めてもテメェへの嫌悪は消えねぇぞ」
「褒めたつもりはないよ。面倒な奴だな、と思っただけ」
浮雲はため息を吐きながら顔を下ろし、赤嶺を正面から見据える。
「キミが察した通りさ──旧来勢力のボスが集まる場所を影の穢主に教えたのは、俺だよ」




