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新境ブラックボックス  作者: 錆雪
第三章 悪の秩序、その疑念
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 強烈な熱波と爆風。

 倉庫の床を炎が舐め、砕けた木箱の破片が四方へ飛び散る。壁際の鉄骨が軋み、天井から細かな瓦礫が降り注いだ。

 その爆心地に男は立っていた。

 爆風に押され、上体を僅かに反らしている。全身の皮膚は焼け爛れ、ところどころ傷口が熱で焼き塞がっていた。決して無傷ではない。むしろ、立っていることさえ不思議なほどの重傷だった。

 それでも男は笑っていた。

 ゆっくりと上体を戻し、前を見据える。

 その視界に、拳が飛び込んできた。


「──ッ!?」


 赤嶺だった。

 爆風に耐えるだけで精一杯だった男とは違い、赤嶺は爆風の中を突き進んでいた。踏み込んだ足が床板を砕く。拳が風を切り、遅れて倉庫の空気が震えた。

 技術も駆け引きもない、ただ圧倒的な暴力。

 真正面から振り抜かれた拳が、男の顔面を捉えようとする。

 躱せる速度ではなかった。

 普通の人間なら反応する暇もなく頭蓋ごと砕かれていただろう。

 しかし、拳は空を切った。


「──あぁ?」


 男の身体が崩れるように沈んだ──いや違う、影だった。男の輪郭が黒い泥のように溶け、床へと沈み込んでいく。赤嶺の拳はその残像を貫いただけだった。

 直後、赤嶺の背後から黒い杭が突き出した。

 赤嶺は振り向きざまに肘を振るい、迫る杭を叩き折る。砕けた影が煙のように散った。


「面倒くせぇ異能だな」


 倉庫の隅に積まれた木箱の影から、男が滲むように姿を現した。息は荒く、肩も激しく上下している。顔色は悪く、焼け爛れた肌が痛々しい。

 それでも、口元には笑みが浮かんでいた。


「だから言ったろ……アンタは最後だって」

「テメェ如きが相手を選んでんじゃねぇよ」


 赤嶺が再び歩き出す。

 紅牙、黒杭、ミリアもそれぞれ男へ向き直った。

 そのときだった。

 赤嶺の足が不意に止まった。


「……?」


 視線が倉庫の入口付近へ向く。

 そこには誰もいない。

 少なくとも、紅牙たちの目にはそう映っていた。


「ちょっと、何を見てるの?」


 ミリアが怪訝そうに尋ねる。

 赤嶺は答えないまま同じ場所を見ていて、その視線を追うように男も振り返った。

 その瞬間、男の顔色が変わった。


「……来た」


 そこには一人の女が立っていた。

 白を基調としたスーツには一切の汚れがない。しかし、清潔な印象はなかった。生地の至るところに大小さまざまな〈影〉の文字が刺繍されていた。縦に並ぶもの、斜めに走るもの、重なり合うもの。文字はまるで生き物のように、見る角度によって位置を変えているように見える。白いはずのスーツが、奇妙なほど黒く感じられた。

 赤嶺は、その装いに見覚えがあった。

 猿真似財団──異能書を管理し、異能者の人生を物語として楽しむ者たち。

 赤嶺は紅牙たちを一瞥した。

 三人とも怪訝そうにこちらを見ている。

 やはり、見えていない。

 財団職員の姿を認識できるのは、この場では赤嶺と影の異能者だけだった。


「……なんだ?」

「誰かいるの?」


 黒杭が低く問い、ミリアの声にも僅かな不気味さが混じっていた。

 だが、男には二人の声など届いていなかった。


「見てただろ!? 俺の物語を! 俺がどれだけやれたか!」


 女へ向かって叫ぶその声は興奮に震えていた。


「見ていましたよ」


 財団職員は男を見つめ、にっこりと微笑んだ。


「三勢力を煽り、街を掻き回し、舞台を整えた。なかなか健気でしたね」


 柔らかな声。

 男の顔に安堵が広がる。


「なら……!」

「ですが」


 たった一言。

 それだけで、男の表情が強張った。

 女の笑みは変わらない。変わらないまま、声だけが冷たくなった。


「最後まで足掻くその姿勢は、私としては悪くなかったと、これならもう少し期待できるかと、そう思ったのですが──どうやらハネ様には刺さらなかったようです」


 男の顔色から血の気が引いた。


「……え?」


 職員の女は小さく咳払いをした。


「これは猿真似ハネ様からのお言葉です──『混乱はあった。死体もようけ出た。じゃが、そこに驚きはない。痛みはあっても美しさがない。其方は舞台を整えることばかりに必死で、肝心の己を一度も曝け出さなんだ』」

「ち、違う! それはこれから──」

「『主人公になりたかったのであろう? ならば他人を動かす前に、己が燃えねばならぬ』」

「待て……!」


 男が後退る。


「待て……待ってくれ! まだこれからだ! 赤嶺を殺して、他の三人も潰して、そしたら──」


 女は男の訴えに耳を貸さなかった。


「『締め切りじゃ』」


 その一言に、男の身体が凍りつく。


「『ここまでよう頑張った。悔やむ必要はないぞ。妾の興味はここまでじゃが、其方は別の主人公たちの糧となるのじゃ』」

「……やめろ」

「『打ち切り後も、大団円を迎えた後でも、読者はおらずとも物語は続く──これからは好きに生きよ』」


 職員の女は短く息を吐き出し、呼吸を整えた。

 男を見据え、微笑んだ。


「以上が、ハネ様から預かったお言葉です。ハネ様はちゃんと読まれていましたよ。アナタの最後の足掻きを」

「……やめろ」


 男の声は、ほとんど息のようだった。

 職員の女の手に一冊の白い本が現れた。表紙には題名も装飾もない、白い革で装丁された何の変哲もない本。ただ、背表紙にだけ文字が刻まれていた。

【影を操る異能──■■】


「やめろ……!」

「アナタの異能書はここで破棄します」


 職員の女は丁寧に頭を下げた。


「お疲れさまでした」

「やめろォォォッ!!」


 男が飛びかかった。影が腕となり、職員の女へ襲い掛かる──しかし、伸びた影は女の身体をすり抜けた。まるで、そこに何も存在していないかのように。

 女は本を開いた。

 最後の頁へ指をかける。

 そして。


 ──ビリッ。


 紙の裂ける小さな音。

 それを聞いたのは、この場では赤嶺と男だけだった。


「────ッ!!」


 男の絶叫が倉庫全体を震わせる。

 同時に、影が爆発するように広がった。床一面を黒が覆い、壁を這い、天井へ伸びる。倉庫の明かりが一瞬にして呑み込まれ、昼間だというのに夜よりも深い闇が満ちていく


「ぐ、ぁ……ぁぁぁあぁあぁあ!!」


 男は胸元を押さえ、全身から影を噴き出す。


「うわっ!?」

「今度はなんだ!」

「……異能が暴走しているのか」


 ミリアと黒杭が即座に飛び退き、距離を取った。

 紅牙は一瞬だけ目を見開き、低く呟いた。だがその声には、僅かな違和感が滲んでいた。

 ただの暴走ではない。

 目の前で起きている現象は、明らかに異質だった。


「ああああああああああああッ!!」


 男の身体が影に吞み込まれていく。黒い筋が皮膚の下を這うように全身へ広がり、幾重にも絡みつく。人の輪郭を残したまま、中身だけが塗り替わっていくようだった。

 赤嶺はその光景から視線を外さず、歯を食いしばる。


(あの女が異能書を破った瞬間に……)


 何が起きているのか、すべてを理解できたわけではない。

 だが、一つだけ確信していた──あれが引き金だ、と。

 赤嶺は財団職員を睨みつける。

 女は視線に気づくと、にこりと笑った。そして、軽く会釈をする。

 次の瞬間には、霧のように姿を消していた。


「クソがッ! 面倒なモン置いていきやがって!」

「赤嶺!」と紅牙の声。「説明しろ!」

「後だ!」


 赤嶺は即座に切り捨てた。


「今は退くぞ! このままじゃ街の連中がやべぇ!」

「はぁ!?」


 ミリアが叫ぶ。


「意味わかんないんだけど!」

「見りゃわかんだろッ! 異界化が始まってる! すぐに街の連中を避難させろ!」

「異界化……!」


 黒杭が周囲を見回す。

 太陽の光は確かに倉庫へ差し込んでいる。にもかかわらず、酷く薄暗い。影の長さも、向きも、大きさも、まるで統一されていなかった。自分の足元から伸びる影さえ異様に長い。しかもそれらが微かに蠢いていた。


「異能の暴走──異能災害か」


 紅牙が低く呟いた。


「まさか、その発生に立ち会うとはな」

「悠長に言ってる場合じゃないでしょ!」


 ミリアの指摘に、紅牙は鼻を鳴らした。


「わかっている」


 そして、瞬時に判断を下した。


「ここら一帯の住民を遠ざけるぞ」

「妥当だな」と黒杭が頷く。「異界に呑まれれば、異界民が生まれる危険性もある」

「ねぇ、アイツは放っておいていいの?」


 ミリアが男へ目を向けた。

 しかし、赤嶺はすでに駆け出していた。


「アレの対処は後だ! まずはこの場から一人残らず遠ざけろ!」


 赤嶺が駆け出した、その瞬間だった。

 背後で、ずるり、と嫌な音がした。


「──ッ!」


 赤嶺が反射的に身体を捻る。直前まで足があった場所から、黒い槍が突き上がった。もう半歩遅れていれば、膝から上を貫かれていただろう。


「チッ!」


 舌打ちと同時に踵を振り抜く。

 影の槍が砕け、黒い粒となって床へ散った。

 だが、その粒はすぐに蠢き、再び一つの影へ戻っていく。

 倉庫の中央。

 男だったものがゆっくりと顔を上げた。

 顔はある。腕も足もある。人の形も保っている──だが、それだけだった。

 目、鼻、口の境界は曖昧に溶け、胸の中央に穿たれた黒い穴から絶え間なく影が溢れていた。身体の輪郭も揺らぎ続け、もはや人間が立っているという確信さえ持てない。


「赤嶺!」


 紅牙の声が飛ぶ。

 赤嶺は踵を返し、止めていた足を動かした。


「うるせぇ、わかってる!」


 再び床が波打つ。木箱の影が牙のように伸び、天井の梁からは黒い縄が垂れ下がる。倉庫そのものが、男を守る獣へと変わり始めていた。

 赤嶺は肩越しに一瞥し、拳を握り締めた。


「……待ってろ」


 影の異能者だった男を睨みつけ、吐き捨てた。


「街を片付けたら、次はテメェだ。悪趣味なこの舞台ごと叩き潰してやる」


 返事の代わりに、影の隙間から覗く口元が醜く歪んだ。


「行くぞ!」


 赤嶺の怒声に、四人は一斉に倉庫を飛び出した。


          ※※※


 外へ出た瞬間、全員が言葉を失った。

 赤地区が、別の街へ変わり始めていた。

 昼間のはずなのに薄暗い。太陽は確かに頭上にある。にもかかわらず、路地という路地に夜が溜まっているかのようだった。建物の影はあり得ない方向へ伸び、隣の建物の影と繋がっている。一本だったはずの通り道が、いつの間にか三本にも四本にも枝分かれしていた。

 遠くで聞こえる悲鳴。

 別の場所から届く怒号。

 誰かが「出口がない!」と叫んでいた。


「……これが異界か」黒杭が呟く。「まさに、異能災害だな」

「街外れでよかったわね。中心街だったら、混乱はこんなものじゃ済まなかったでしょうし」

「だが、ここら一帯にも人はいる」紅牙が周囲を見回す。「手当たり次第、異界の外へ連れ出すぞ」


 その言葉を合図に、四人は散った。

 目についた住民の腕を掴み、背中を押し、強引にでもこの場から離れさせる。

 赤地区の支配者といえば、今や赤嶺だ。

 だが、紅牙、ミリア、黒杭の三人もまた、この街では名の知れた存在だった。

 彼らが声を掛ければ、住民たちは素直に従う。

 その姿を認めただけで、安堵の表情を浮かべる者さえいた。

 赤嶺もまた、住民を中心街の方へ誘導していた。


「立ち止まるな! 走れ!」


 怒鳴りながら逃げ遅れた人々を追い立てる。

 そんなときだった。

 目の前の屋台で、一人の男が膝をついていた。店主らしい中年の男。傍らでは、家族と思しき女と幼い子供が泣きながらしがみついている。


「おい、立て!」


 赤嶺が男の腕を掴んだ。

 そのとき──男の足元の影が、ぬるりと立ち上がった。


「──は?」


 黒い影が男の身体に絡みつく。足首から膝へ、膝から胸へ、そして首筋へ。耳元まで這い上がった影が、何かを囁くように揺れた。

 その瞬間、男の震えが止まった。ゆっくりと顔を上げる。その目には、先ほどまでの怯えが消えていた。


「……そうか。俺だったんだ」


 男が笑った。影が腕の先に集まり、黒い棍棒のような形を作る。


「選ばれるのは……俺だったんだ!」

「──ッ、下がれ!」


 赤嶺は女と子供を背後へ押しやり、地面を強く踏み込んだ。棍棒が振り下ろされるより早く、拳が男の腹にめり込む。


「がっ……!」


 男は白目を剥いて吹き飛び、地面を転がった。

 しかし、影だけは身体に絡みついたまま、なおも激しく蠢いている。


「……クソ。もう生まれやがったか」


 赤嶺は顔を顰めた。

 倒れた男を見下ろし、低く吐き捨てる。


「異界民……!」


 ただ怯えていただけの一般住民が、早くも異界に呑まれ始めていた。

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