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強烈な熱波と爆風。
倉庫の床を炎が舐め、砕けた木箱の破片が四方へ飛び散る。壁際の鉄骨が軋み、天井から細かな瓦礫が降り注いだ。
その爆心地に男は立っていた。
爆風に押され、上体を僅かに反らしている。全身の皮膚は焼け爛れ、ところどころ傷口が熱で焼き塞がっていた。決して無傷ではない。むしろ、立っていることさえ不思議なほどの重傷だった。
それでも男は笑っていた。
ゆっくりと上体を戻し、前を見据える。
その視界に、拳が飛び込んできた。
「──ッ!?」
赤嶺だった。
爆風に耐えるだけで精一杯だった男とは違い、赤嶺は爆風の中を突き進んでいた。踏み込んだ足が床板を砕く。拳が風を切り、遅れて倉庫の空気が震えた。
技術も駆け引きもない、ただ圧倒的な暴力。
真正面から振り抜かれた拳が、男の顔面を捉えようとする。
躱せる速度ではなかった。
普通の人間なら反応する暇もなく頭蓋ごと砕かれていただろう。
しかし、拳は空を切った。
「──あぁ?」
男の身体が崩れるように沈んだ──いや違う、影だった。男の輪郭が黒い泥のように溶け、床へと沈み込んでいく。赤嶺の拳はその残像を貫いただけだった。
直後、赤嶺の背後から黒い杭が突き出した。
赤嶺は振り向きざまに肘を振るい、迫る杭を叩き折る。砕けた影が煙のように散った。
「面倒くせぇ異能だな」
倉庫の隅に積まれた木箱の影から、男が滲むように姿を現した。息は荒く、肩も激しく上下している。顔色は悪く、焼け爛れた肌が痛々しい。
それでも、口元には笑みが浮かんでいた。
「だから言ったろ……アンタは最後だって」
「テメェ如きが相手を選んでんじゃねぇよ」
赤嶺が再び歩き出す。
紅牙、黒杭、ミリアもそれぞれ男へ向き直った。
そのときだった。
赤嶺の足が不意に止まった。
「……?」
視線が倉庫の入口付近へ向く。
そこには誰もいない。
少なくとも、紅牙たちの目にはそう映っていた。
「ちょっと、何を見てるの?」
ミリアが怪訝そうに尋ねる。
赤嶺は答えないまま同じ場所を見ていて、その視線を追うように男も振り返った。
その瞬間、男の顔色が変わった。
「……来た」
そこには一人の女が立っていた。
白を基調としたスーツには一切の汚れがない。しかし、清潔な印象はなかった。生地の至るところに大小さまざまな〈影〉の文字が刺繍されていた。縦に並ぶもの、斜めに走るもの、重なり合うもの。文字はまるで生き物のように、見る角度によって位置を変えているように見える。白いはずのスーツが、奇妙なほど黒く感じられた。
赤嶺は、その装いに見覚えがあった。
猿真似財団──異能書を管理し、異能者の人生を物語として楽しむ者たち。
赤嶺は紅牙たちを一瞥した。
三人とも怪訝そうにこちらを見ている。
やはり、見えていない。
財団職員の姿を認識できるのは、この場では赤嶺と影の異能者だけだった。
「……なんだ?」
「誰かいるの?」
黒杭が低く問い、ミリアの声にも僅かな不気味さが混じっていた。
だが、男には二人の声など届いていなかった。
「見てただろ!? 俺の物語を! 俺がどれだけやれたか!」
女へ向かって叫ぶその声は興奮に震えていた。
「見ていましたよ」
財団職員は男を見つめ、にっこりと微笑んだ。
「三勢力を煽り、街を掻き回し、舞台を整えた。なかなか健気でしたね」
柔らかな声。
男の顔に安堵が広がる。
「なら……!」
「ですが」
たった一言。
それだけで、男の表情が強張った。
女の笑みは変わらない。変わらないまま、声だけが冷たくなった。
「最後まで足掻くその姿勢は、私としては悪くなかったと、これならもう少し期待できるかと、そう思ったのですが──どうやらハネ様には刺さらなかったようです」
男の顔色から血の気が引いた。
「……え?」
職員の女は小さく咳払いをした。
「これは猿真似ハネ様からのお言葉です──『混乱はあった。死体もようけ出た。じゃが、そこに驚きはない。痛みはあっても美しさがない。其方は舞台を整えることばかりに必死で、肝心の己を一度も曝け出さなんだ』」
「ち、違う! それはこれから──」
「『主人公になりたかったのであろう? ならば他人を動かす前に、己が燃えねばならぬ』」
「待て……!」
男が後退る。
「待て……待ってくれ! まだこれからだ! 赤嶺を殺して、他の三人も潰して、そしたら──」
女は男の訴えに耳を貸さなかった。
「『締め切りじゃ』」
その一言に、男の身体が凍りつく。
「『ここまでよう頑張った。悔やむ必要はないぞ。妾の興味はここまでじゃが、其方は別の主人公たちの糧となるのじゃ』」
「……やめろ」
「『打ち切り後も、大団円を迎えた後でも、読者はおらずとも物語は続く──これからは好きに生きよ』」
職員の女は短く息を吐き出し、呼吸を整えた。
男を見据え、微笑んだ。
「以上が、ハネ様から預かったお言葉です。ハネ様はちゃんと読まれていましたよ。アナタの最後の足掻きを」
「……やめろ」
男の声は、ほとんど息のようだった。
職員の女の手に一冊の白い本が現れた。表紙には題名も装飾もない、白い革で装丁された何の変哲もない本。ただ、背表紙にだけ文字が刻まれていた。
【影を操る異能──■■】
「やめろ……!」
「アナタの異能書はここで破棄します」
職員の女は丁寧に頭を下げた。
「お疲れさまでした」
「やめろォォォッ!!」
男が飛びかかった。影が腕となり、職員の女へ襲い掛かる──しかし、伸びた影は女の身体をすり抜けた。まるで、そこに何も存在していないかのように。
女は本を開いた。
最後の頁へ指をかける。
そして。
──ビリッ。
紙の裂ける小さな音。
それを聞いたのは、この場では赤嶺と男だけだった。
「────ッ!!」
男の絶叫が倉庫全体を震わせる。
同時に、影が爆発するように広がった。床一面を黒が覆い、壁を這い、天井へ伸びる。倉庫の明かりが一瞬にして呑み込まれ、昼間だというのに夜よりも深い闇が満ちていく
「ぐ、ぁ……ぁぁぁあぁあぁあ!!」
男は胸元を押さえ、全身から影を噴き出す。
「うわっ!?」
「今度はなんだ!」
「……異能が暴走しているのか」
ミリアと黒杭が即座に飛び退き、距離を取った。
紅牙は一瞬だけ目を見開き、低く呟いた。だがその声には、僅かな違和感が滲んでいた。
ただの暴走ではない。
目の前で起きている現象は、明らかに異質だった。
「ああああああああああああッ!!」
男の身体が影に吞み込まれていく。黒い筋が皮膚の下を這うように全身へ広がり、幾重にも絡みつく。人の輪郭を残したまま、中身だけが塗り替わっていくようだった。
赤嶺はその光景から視線を外さず、歯を食いしばる。
(あの女が異能書を破った瞬間に……)
何が起きているのか、すべてを理解できたわけではない。
だが、一つだけ確信していた──あれが引き金だ、と。
赤嶺は財団職員を睨みつける。
女は視線に気づくと、にこりと笑った。そして、軽く会釈をする。
次の瞬間には、霧のように姿を消していた。
「クソがッ! 面倒なモン置いていきやがって!」
「赤嶺!」と紅牙の声。「説明しろ!」
「後だ!」
赤嶺は即座に切り捨てた。
「今は退くぞ! このままじゃ街の連中がやべぇ!」
「はぁ!?」
ミリアが叫ぶ。
「意味わかんないんだけど!」
「見りゃわかんだろッ! 異界化が始まってる! すぐに街の連中を避難させろ!」
「異界化……!」
黒杭が周囲を見回す。
太陽の光は確かに倉庫へ差し込んでいる。にもかかわらず、酷く薄暗い。影の長さも、向きも、大きさも、まるで統一されていなかった。自分の足元から伸びる影さえ異様に長い。しかもそれらが微かに蠢いていた。
「異能の暴走──異能災害か」
紅牙が低く呟いた。
「まさか、その発生に立ち会うとはな」
「悠長に言ってる場合じゃないでしょ!」
ミリアの指摘に、紅牙は鼻を鳴らした。
「わかっている」
そして、瞬時に判断を下した。
「ここら一帯の住民を遠ざけるぞ」
「妥当だな」と黒杭が頷く。「異界に呑まれれば、異界民が生まれる危険性もある」
「ねぇ、アイツは放っておいていいの?」
ミリアが男へ目を向けた。
しかし、赤嶺はすでに駆け出していた。
「アレの対処は後だ! まずはこの場から一人残らず遠ざけろ!」
赤嶺が駆け出した、その瞬間だった。
背後で、ずるり、と嫌な音がした。
「──ッ!」
赤嶺が反射的に身体を捻る。直前まで足があった場所から、黒い槍が突き上がった。もう半歩遅れていれば、膝から上を貫かれていただろう。
「チッ!」
舌打ちと同時に踵を振り抜く。
影の槍が砕け、黒い粒となって床へ散った。
だが、その粒はすぐに蠢き、再び一つの影へ戻っていく。
倉庫の中央。
男だったものがゆっくりと顔を上げた。
顔はある。腕も足もある。人の形も保っている──だが、それだけだった。
目、鼻、口の境界は曖昧に溶け、胸の中央に穿たれた黒い穴から絶え間なく影が溢れていた。身体の輪郭も揺らぎ続け、もはや人間が立っているという確信さえ持てない。
「赤嶺!」
紅牙の声が飛ぶ。
赤嶺は踵を返し、止めていた足を動かした。
「うるせぇ、わかってる!」
再び床が波打つ。木箱の影が牙のように伸び、天井の梁からは黒い縄が垂れ下がる。倉庫そのものが、男を守る獣へと変わり始めていた。
赤嶺は肩越しに一瞥し、拳を握り締めた。
「……待ってろ」
影の異能者だった男を睨みつけ、吐き捨てた。
「街を片付けたら、次はテメェだ。悪趣味なこの舞台ごと叩き潰してやる」
返事の代わりに、影の隙間から覗く口元が醜く歪んだ。
「行くぞ!」
赤嶺の怒声に、四人は一斉に倉庫を飛び出した。
※※※
外へ出た瞬間、全員が言葉を失った。
赤地区が、別の街へ変わり始めていた。
昼間のはずなのに薄暗い。太陽は確かに頭上にある。にもかかわらず、路地という路地に夜が溜まっているかのようだった。建物の影はあり得ない方向へ伸び、隣の建物の影と繋がっている。一本だったはずの通り道が、いつの間にか三本にも四本にも枝分かれしていた。
遠くで聞こえる悲鳴。
別の場所から届く怒号。
誰かが「出口がない!」と叫んでいた。
「……これが異界か」黒杭が呟く。「まさに、異能災害だな」
「街外れでよかったわね。中心街だったら、混乱はこんなものじゃ済まなかったでしょうし」
「だが、ここら一帯にも人はいる」紅牙が周囲を見回す。「手当たり次第、異界の外へ連れ出すぞ」
その言葉を合図に、四人は散った。
目についた住民の腕を掴み、背中を押し、強引にでもこの場から離れさせる。
赤地区の支配者といえば、今や赤嶺だ。
だが、紅牙、ミリア、黒杭の三人もまた、この街では名の知れた存在だった。
彼らが声を掛ければ、住民たちは素直に従う。
その姿を認めただけで、安堵の表情を浮かべる者さえいた。
赤嶺もまた、住民を中心街の方へ誘導していた。
「立ち止まるな! 走れ!」
怒鳴りながら逃げ遅れた人々を追い立てる。
そんなときだった。
目の前の屋台で、一人の男が膝をついていた。店主らしい中年の男。傍らでは、家族と思しき女と幼い子供が泣きながらしがみついている。
「おい、立て!」
赤嶺が男の腕を掴んだ。
そのとき──男の足元の影が、ぬるりと立ち上がった。
「──は?」
黒い影が男の身体に絡みつく。足首から膝へ、膝から胸へ、そして首筋へ。耳元まで這い上がった影が、何かを囁くように揺れた。
その瞬間、男の震えが止まった。ゆっくりと顔を上げる。その目には、先ほどまでの怯えが消えていた。
「……そうか。俺だったんだ」
男が笑った。影が腕の先に集まり、黒い棍棒のような形を作る。
「選ばれるのは……俺だったんだ!」
「──ッ、下がれ!」
赤嶺は女と子供を背後へ押しやり、地面を強く踏み込んだ。棍棒が振り下ろされるより早く、拳が男の腹にめり込む。
「がっ……!」
男は白目を剥いて吹き飛び、地面を転がった。
しかし、影だけは身体に絡みついたまま、なおも激しく蠢いている。
「……クソ。もう生まれやがったか」
赤嶺は顔を顰めた。
倒れた男を見下ろし、低く吐き捨てる。
「異界民……!」
ただ怯えていただけの一般住民が、早くも異界に呑まれ始めていた。




