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それは、ただ床を這うだけの影ではなかった。
液体のようにうねりながら倉庫の床を駆け、砕けた壁材の隙間を縫い、赤嶺の足元へと一直線に伸びてくる。
──速い。
赤嶺は即座に後方へ飛んだ。
直前まで立っていた床を黒い影が覆い、その一部が鋭く跳ね上がる。槍のように伸びた先端が空気を切り裂いた。
「……ッ」
赤嶺が着地と同時に舌打ちする。
最初から迷いなく自分だけを狙ってきた。その事実が何よりも気に食わない。
「ハハッ」
男が嬉しそうに笑う。
「アンタは最後に殺ろうと思ってたけど、ここで潰すのも物語としては成立しそうだ」
「とんだ主人公だな。バカやって目立とうとする、なんの個性もない奴の考えだ」
「……は?」
顔を顰める男に、赤嶺はあざ笑うように言った。
「やめちまえ。主人公の器じゃねぇよ」
言い終えるより早く赤嶺が踏み込んだ。一歩で間合いを詰める。床が軋み、拳が男の顔面へと迫る──その直前、男の足元から影が立ち上がった。
黒い壁。
赤嶺の拳がそれを打ち抜く。鈍い衝撃音とともに影が砕け散った。
「やっぱりな」
後方へ飛び退いていた男が呆れたように言った。
「アンタじゃわからないよな。必死に生きようとうする主人公の気持ちなんて」
「必死に生きようとした結果、他人の命を奪うことしか思いつかねぇ主人公の話を、誰が見たいんだよ」
呆れを滲ませる赤嶺に、男の眉尻が吊り上がった。
次の瞬間、床から無数の影が跳ね上がる。槍。刃。杭。形を変えた黒が何本も何本も赤嶺へと襲い掛かる。
赤嶺は身を捻り、二本を避ける。三本目を拳で叩き折り、四本目を蹴り飛ばした──だが、避けたはずの一本が途中で軌道を変え、頬を掠めた。
赤い線が走る。
滲み出した血を見て、男の目が嬉しそうに細まった。
「暴力で成り上がったアンタが偉そうに説教するなよ。他人から奪った枠に収まっただけだろう? それが今日、俺に入れ替わるってだけじゃないか」
「赤地区の支配者の座はテメェには勿体ねぇよ。無個性な殺人鬼くらいがお似合いだ!」
赤嶺が吠える。
そのまま一気に距離を詰めようとした、そのときだった。
横から飛び込んできた影の刃が、別の衝撃によって弾き飛ばされた。乾いた破裂音。赤嶺の目の前で黒い刃が弾け、霧のように散っていく。
赤嶺が視線を向ける。
少し離れた位置で紅牙が拳を突き出したまま男を睨んでいた。
「話の途中で勝手に始めるな」
その直後、別方向から銀色の閃光が走った。
ミリアが投げたナイフだった。
刃が男の頬を掠め、一筋の血が飛ぶ。
「盛り上がってるところ悪いけど、アナタ一人で主役ぶらないでくれる?」
軽い口調。だが、その目は少しも笑っていなかった。
さらに、男の視覚から黒杭が踏み込む。地を這うような低い姿勢。影の刃が立ち上がるよりも早く懐へ潜りこみ、拳を叩き込もうとした──が、
「ッ!?」
黒杭が咄嗟に身を捻った。
男の影がまるで生き物みたいに足元から牙を剥いていた。あと一瞬遅れていれば、足を貫かれていただろう
黒杭は舌打ちしながら距離を取った。
「面倒な能力だ」
「だろう?」
男はどこか誇らしげに言った。
「主人公にふさわしい異能だ。絵になると思わないか?」
「思わねぇよ」
赤嶺が吐き捨てた。
男の視線が再び赤嶺へ戻る──その瞬間だけ、空気が変わった。
紅牙でもない。
ミリアでもない。
黒杭でもない。
やはりこの男の中で『本命』は最初から赤嶺一人だった。
「ムカつくけどさ、華のあるアンタだからいいんだ」
男は少しだけ息を弾ませながら笑った。
床を這う影が男の足元へと集まっていく。
「どれだけモブを殺したって意味がない。名のある奴を殺るからこそ、自分の存在に価値が生まれるんだ」
「テメェ……」
「だからさ」
男は壊れたような笑みを浮かべた。
「死んでくれない?」
次の瞬間、黒い影が爆発したように広がった。
床一面を覆った黒が、倉庫全体へと勢いよく伸びていく。瓦礫の隙間から、壁際から、天井を支える鉄骨の陰からも黒が滲みだし、倉庫内のあらゆる暗がりが男の手足となって蠢き始めた。
「散れッ!」
赤嶺の怒号が飛ぶ。
直後、床から無数の黒い杭が突き上がった。
赤嶺は横へ飛んだ。ミリアはソファの背を蹴って宙へ逃れ、黒杭は最小限の動きで身を捻る。紅牙だけはその場で一歩踏み込み、迫る杭の一本を拳で叩き折った。
だが、それだけでは終わらない。避けた先に影が待ち構えていた。床に落ちた影がそのまま刃となり、壁に伸びた影が鞭のようにしなる。男の異能によって、倉庫そのものが敵に回ったかのようだった。
「ああもう! 数が多い!」
ミリアが舌打ちしながら着地する──その瞬間、彼女の足元から黒い手が伸びた。掴まれる寸前、ミリアは身体を捻り、逆手に持ち替えたナイフを真下へ突き立てる。
黒い手が弾け、霧のように散った。
「気色悪っ……!」
「ミリア! 上だ!」
黒杭の声が響いた。
反射的に見上げたミリアの視界に、天井から落ちてくる影の槍が映る。
避けられない。そう思った瞬間だった。
──ドンッ!
爆ぜる音とともに槍が横から吹き飛んだ。
赤嶺の拳だった。皮膚が裂け、鮮血が飛ぶ。その血が拳の周囲で一瞬だけ赤く弾け、影の槍を無理やり吹き飛ばした。
「アナタ……!」
「礼はいらねぇぞ」
赤嶺は短く言い捨てる。
「邪魔だ」
言い終えたときには、赤嶺はもう前へ出ていた。
真正面。
この倉庫の中心で笑う男へ向かって。
「ハハッ! そう。それだよ!」
男の顔が明るくなり、槍、刃、杭、鞭と様々な形に変わる影が一斉に赤嶺へ襲い掛かった。
それらを赤嶺は正面から叩き潰す。一本目を殴り砕き、日本目をを蹴り飛ばす。三本目を腕で受け流し、四本目を肩で強引にぶち抜いた。
その度に血が飛ぶ。皮膚が裂ける。だが赤嶺は止まらない。むしろ前へ出るほどに勢いを増していた。
「いい!」
男の声が上ずる。
「それだ、そうじゃないと! やっぱりアンタが一番──」
「黙れッ!!」
赤嶺の怒号が響いた。同時に踏み込みが一段と深くなる。床が砕けるほどの勢いで距離を詰め、拳を振り抜く。
ついに男の顔面を捉えようとした、その瞬間──男の笑みが消えた。
赤嶺の足元で、影が不自然に沈む。
「……ッ!?」
ゾッとする寒気が背筋を這った。
直後、赤嶺の影そのものが跳ね上がった。真下から突き出た黒い杭が赤嶺の脇腹を掠める。鮮血が散り、赤嶺の身体が僅かに傾いた。
その一瞬の隙を男は見逃さなかった。
影に覆われた手が、赤嶺の顔面へと迫った。
だが、その手が届くより早く、横合いから飛び込んだ紅牙の蹴りが男の腕を弾き飛ばした。
「チッ──」
男の身体が半歩ずれる。
そのまま紅牙は距離を詰めた。踏み込みに迷いはなく、拳にも蹴りにも無駄がない。影が足元から牙を剥くより早く、男の懐へ潜り込む。
「異能にばかり頼っていると、痛い目を見るぞ」
冷ややかな声で言い捨て、紅牙は拳を振り抜いた。男の顔面を捉えた一撃が、骨の軋む鈍い音を響かせる。
衝撃によろめく男。
だが、紅牙に追撃の猶予はなかった。背後から影の刃が襲い掛かる──それを止めたのは黒杭だった。紅牙の肩を肘で押し、首筋を狙った軌道から身体を外させる。同時に自らが前へ出て、最小限の動きで男の腹へと拳を叩き込んだ
鈍い衝撃。
男の身体が地面から浮く。
「ぐっ……!」
初めて男の口から苦しげな声がもれた。
「ほう。本体はちゃんと人間らしいな」
「当たり前だろ……!」
黒杭の言葉に、男は苦笑するように息を吐いた。
「俺はアンタらと変わらない人間だ。ただ、アンタらと違って選ばれた側のな!」
その目がぎらつく。
次の瞬間、男の周囲の影が一気に収束した。
「下がれッ!」
黒杭の声と同時に、ミリアがナイフを投げた。
一本。二本。三本。
しかし、その全てが男の周囲に立ち上がった影に弾かれた。
ミリアが舌打ちする。
「ほんっと、性格悪い能力してるわね!」
「褒めてる?」
「死ねって言ってんのよ!」
吐き捨てると同時にミリアは腰から小瓶を取り出した。そのまま床へ叩きつける。瓶が砕け、透明な液体が飛び散った。倉庫内に強いアルコール臭が広がる。
赤嶺の目が僅かに細まった。
「ミリア、離れろ」
「言われなくても!」
ミリアが飛び退く。
その瞬間、赤嶺は拳を強く握り込んだ。裂けた皮膚からさらに血が滲む。踏み込むと同時に腕を薙ぎ、鮮血を飛ばした。赤い雫が床に散ったアルコールへと降り注ぐ。
そして。
──轟ッ!!
倉庫全体が揺れるほどの凄まじい爆発が起きた。
炎と衝撃波が、男のいる一帯を呑み込む。
赤嶺が持つ異能書──『血液を爆発物に変える異能』。
飛び散った血液が一斉に炸裂し、男の影を吹き飛ばした。積み上がった木箱が砕け、壁際の鉄骨がひしゃげる。
爆風に煽られ、紅牙と黒杭は腕で顔を庇った。ミリアは倒れたソファの陰へと滑り込む。
そして、赤嶺だけが爆発の中へと踏み込んでいた。




