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赤嶺が外へ出たとき、赤地区の空気はさらに悪くなっていた。
昼間だというのに、通りを歩く人々の顔に余裕はない。普段なら笑い声も怒鳴り声も入り混じるこの街が、今日はどこか息を潜めているようだった。
屋台の店主たちは客を呼び込みながらも、視線だけは常に通りの先を気にしている。
道端に座り込んだ娼婦たちは煙草を咥えたまま、通り過ぎる猩々緋の面々を無言で目で追っている。
路地の奥では、黒狗の構成員らしき男が壁にもたれていた。鼻血を拭うその頬は腫れ、片腕を庇っている。つい先ほどまで、何かしらの揉め事があったのだろう。
赤嶺は一瞥しただけで、足を止めなかった。
必要なのは、目の前の揉め事を一つずつ踏み潰すことじゃない。
すでにその段階は過ぎている。
火種は街中に撒かれた。今や赤地区は、誰の目にも明らかなほど内側から軋み始めていた。
視線だけが静かに街を撫でていく。
割れた酒瓶、倒れた屋台、乾ききらない血痕、怯えた視線と張り詰めた空気──どれも決定的な異変ではない。けれど、放っておけば確実に街を蝕むものばかりだった。
「……ったく」
赤嶺は小さく舌打ちした。
赤地区は綺麗な街ではない。むしろ汚い。どうしようもなく、救いようもなく、腐った場所だ。
だが、それでいい。
悪人が笑っていようと構わない。奪い合い、殴り合い、騙し合い、欲に塗れて生きていようと隙にすればいい──が、街そのものを壊すのは、別の話だ。
そこには、誰は何と言おうと譲れない一線があった。
赤地区の現状を眺めながら、赤嶺は連日届いていた部下からの報告を思い返す。
旧来勢力の構成員ばかりが殺され、猩々緋だけが無傷。
その状況だけを見れば、猩々緋が邪魔な勢力を始末しているように映る。
しかし、殺害の手口に一貫性はなく、殴打、切創、貫通と死体の損傷は多種多様で、猩々緋のやり方に似せようとした形跡すらない。
人を殺すことは容易いが、赤嶺が手を下せば死体の状態は別方向で無残なものになる。
それを知らない連中ではない。
紅狼鬼も、薔薇悪鬼も、黒狗も、青地区の蒼月会も、黄地区の黄金楼も。
赤地区の裏側を知る者なら、死体の損傷を見ただけで、少なくとも赤嶺の仕業ではないと疑うはずだった。
(一般人にウチへの不信感を植え付けるためか? 青の連中ならやりそうだな。一般人の不安を煽りながら赤地区の勢力同士を争わせ、疲弊したところを攻めりゃあこちらの戦力を削る手間も省ける。……まぁ悪くねぇ考えだが、それで赤地区を落とせるとは思ってねぇだろう)
最初に死体が出たという報告を受けたときから、ずっと考え続けていた。
『誰が』ではなく、『何が目的』なのかを。
猩々緋を陥れるにはやり方が杜撰であり、旧来勢力を潰そうとしているのなら三組を同時に敵に回す必要はない。赤地区そのものを壊そうとしているのなら、手段も考えも足りていない。この程度の騒動なら面倒事の範疇であり、脅威とは呼べない。
どれも中途半端だった。
これほど手間をかけておきながら、肝心の目的が見えてこない。
赤嶺は立ち止まり、小さく息を吐きながら頭を掻いた。
「……面倒くせぇな」
思いつく限りの可能性を検討しても、結局、行きつく先は一つだった。
犯人が誰なのかはわからないが、
「これは俺と同じ異能者の仕業」
何が目的なのかわからないが、
「主人公として紡ぐ物語の一環」
この二つが、赤嶺の中で確定していることだった。
同じ異能者として理解できる。
異能書を手にした人物は、主人公として読める人生を歩むことを強制される。
同じ異能者としてわかるものがある。
異能書を手にした者は、どこかで『話になる動き』をする。舞台を整え、役者を並べ、わざわざ面倒な順序を踏む。合理的な目的のためというより、何かを演出しているかのような手際。
今回のこれも、そんな匂いがした。
(旧来勢力の連中を殺し回ってるのも、その筋書きの一部ってわけか)
犯人が旧来勢力を襲うことを物語として決めたのなら、描く結末は三人のボスを倒すこと?
そのために赤地区を混乱に陥れ、戦力を削っているのか。
そこまで考えたとき、赤嶺の表情に笑みが浮かんだ。
獰猛な獣を思わせる、好戦的な笑みだった。
(いや、非異能者のアイツらを殺ったところで面白味はねぇ。コイツがどんな物語を望んでんのかしらねぇが、わざわざウチを避けて殺し回ってる奴だ。俺が異能者であることも知ってんだろう──つまり、)
赤嶺は肩を揺らしながら呟いた。
「狙いは俺か」
旧来勢力を襲い、猩々緋に疑いを向けさせる。
街を混乱させ、赤嶺を表舞台へ引きずり出す。
そして最後に、異能者同士の対決を用意する。
そういう筋書きなら、今までの不可解な行動にも説明がつく。
もっとも、この推理が正しいのはわからない。
もしかしたら全くの見当違いをしている可能性もある。
しかし、真実など二の次であり、やるべきことは変わらない。
赤地区の騒動を止める。
元凶を引きずり出す。
そのために、まず頭を叩く。
紅牙、ミリア、黒杭──どのみち三人のところには行くつもりだ。話し合いで済むならそれでよかったが、ここまで街をかき回されて、いつまでも温い顔をしてやる義理はない。
「猩々緋が街の掃除を始めた、か」
赤嶺は口の端を吊りあげた。
「その噂、真実に変えてやるのも悪くねぇな」
※※※
目的の場所を前に、赤嶺は鷲掴みにしていた頭から手を放した。
ドサッ、と紅狼鬼の構成員が地面に転がる。
ここに至るまでの道には、まるで目印みたいに紅狼鬼の構成員たちが倒れ伏していた。
誰も彼も意識はあるが、立ち上がれる者はいない。
「テメェらに用はねぇ。道を開けろ」
赤嶺は倉庫を見据えたまま言った。
「大人しくしてりゃ、見逃してやる」
「……ふざけんなよ」
呻くような声が返ってきた。
地面に膝をついた男が、血の混じった唾を吐き捨てながら顔を上げる。
「どんだけ恨み買ってるか、わかってんだろうが……!」
「逆恨みだ」
赤嶺がようやく視線を落とした。
「いいからどけ」
興味の欠片もないような目が、男の怒りに油を注いだ。
「舐めんじゃ──ッ!」
男が踏み込む。拳を突き出す──だが、それが届くより早く赤嶺の膝が腹にめり込んだ。
「ごっ……!」
肺から空気が押し出される。胃液を吐き散らしながら、男の身体がくの字に折れた。
赤嶺はその髪を乱暴に掴み上げる。男の足が地面から浮いた。
「気は済んだか?」
「……っ」
男は答えない。いや、答えられない。
それでもなお、目だけは赤嶺を睨んでいた。
その様子に赤嶺は小さく息を吐いた。
「……だりぃな。派手に行くか」
掴んだ頭を引き寄せるように一歩踏み込み──拳を叩き込んだ。
鈍い衝撃音が響く。吹き飛んだ男の身体が倉庫の壁に激突した。
次の瞬間、老朽化した壁が轟音とともに内側へひしゃげた。木材と金属片が弾け飛び、男の身体が壁を突き破ると土埃が舞い上がった。
「……ふん」
赤嶺は拳を下ろす。
そして、何事もなかったかのように、開いた穴へ向かって歩き出した。
※※※
最初の会合は夜明け前に終わっていた。
紅牙、ミリア、黒杭。
三人はそれぞれの酒瓶を置き、誰からともなく席を立った。
共闘する気はなく、互いのやり方に口を出すつもりもない。
猩々緋を叩く──こお一点だけを共有し、あとは各々の流儀で動けばいい。
それだけの話だった。
だから本来なら、三人が再びこの倉庫に集まることなどなかった。
夜が明け、赤地区に朝が訪れる。
火が高くなるにつれ、街の空気は熱を帯びていった。各所で小競り合いが起こり、黒狗と薔薇悪鬼の構成員が猩々緋に噛みつく。紅狼鬼もまた独自に動き始めた。
睨み合いは衝突へ、衝突は流血へと変化し、赤地区は久方ぶりに大規模な抗争の気配に包まれつつあった。
そのはずだった。
昼前──新たな死体が見つかるまでは。
発見場所は、紅狼鬼、黒狗、薔薇悪鬼の縄張りが交わる境目だった。
どの組織の縄張りとも言い切れず、誰の庭先とも断言できない曖昧な場所。
だからこそ、そこに転がされた死体は、あまりにも露骨だった。
まるで見せつけるように、誰かの目に触れることを前提としていたかのように、三つの死体が道の真ん中に捨てられていた。
しかもそれは、どの勢力の構成員でもなかった──猩々緋の構成員だった。
一つは顔面が原形を留めないほど潰され、両腕はあらぬ方向へ折れ曲がっていた。
一つは全身を鋭利な何かで切り刻まれ、肩口から脇腹にかけて深い傷を負っていた。
そして最後の一つは、肩、胸、腹、太ももと、全身の至るところに風穴が開いていた。
殴打。切創。貫通。
これまで各勢力から出ていた死体の特徴が、まるで一か所に集められたような惨状だった。
──これは、抗争の延長ではない。
三人は、ほぼ同時にそう考えた。
猩々緋以外の勢力だけが狙われている。
これまでの事件を考えるうえで前提となっていた事実が崩れたのだ。
猩々緋を陥れようとしているのか、それとも赤地区そのものを壊そうとしているのか。
犯人の狙いは、ますます見えなくなった。
ただ、一つだけはっきりしたことがある──もはや、各々が好きに暴れて済む状況ではない。
だから三人は、再び同じ倉庫へと戻ってきた。
夜明け前とは違う意味で空気は重い。互いに腹の内を見せるつもりはない──だが、今この状況を作っている何者かを放置するのは、それ以上に気に食わない。
そうして、二度目の会合が始まった。
「猩々緋の死体が出たことで、話がややこしくなったわね」
最初に口を開いたのはミリアだった。
豪奢なソファへ深く腰掛け、頬杖をついたまま気怠そうに足を組み替える。
「これじゃあ『猩々緋だけが狙われてない』っていう前提が崩れちゃったじゃない」
「前提など、最初から当てにならん」
と黒杭が短く切り捨てた。
「こちらが見せられていた情報が偏っていただけかもしれん」
「あるいは」
と紅牙が低く続ける。
「最初からそう見せるために、猩々緋だけを外していた可能性もある」
ミリアが薄く笑った。
「つまり、今更猩々緋の死体を混ぜてきたのは『調整』ってこと?」
「その可能性はある」
紅牙は腕を組んだまま視線を伏せた。
「誰かが意図的に、この街の疑いの向きを変えようとしている」
「面倒ねぇ。ただの抗争なら、もっとわかりやすくて楽しかったのに」
「楽しむな」
肩をすくめるミリアに、黒杭が即座に切った。
「事態をかき回しているのが外の連中だとしたら、赤地区全体の問題になる」
「青地区か黄地区ってこと?」
「可能性の話だ」
「でもさぁ、それならそれで妙じゃない?」
ミリアは顎に指を添え、考えるように天井を見上げた。
「青や黄の連中が仕掛けるにしても、こんな意味のないことするかしら。猩々緋を避けて殺し回ってたのに、今度は猩々緋を殺した。これじゃあ、せっかく向けさせた疑いが薄まっちゃうでしょ」
「そうとも限らん」
と紅牙が口を挟んだ。
「死体が見つかった場所を考えろ」
「私たちの縄張りの境目ね」
「そうだ」
紅牙は二人を順に見た。
「紅狼鬼は手を下していない。お前たちはどうだ?」
「どうかしら?」
「ふん」
ミリアは微笑み、黒杭は鼻を鳴らしただけ。
だが、紅牙は理解していた──目の前にいる二人が今回の死体に関与していないことを。
「赤嶺も、同じことを考えるだろう。これだけ騒ぎが大きくなったところで、今までなかった猩々緋の死体が出た。しかも発見場所が俺たち三組の縄張りの境目だ」
ここで紅牙は小さくほくそ笑んだ。
「散々あらぬ疑いをかけられていたんだ。癪だろうが、理解せずにはおれんはずだ──今度は、疑いの矛先を俺たちに向けようとしているとな」
猩々緋の構成員を殺したのも、これまで旧来勢力を襲ってきた人物と同じだろう。
最初は猩々緋に疑いの目を向けさせ、次は旧来勢力へ疑いを向けさせる。
互いに相手を犯人だと思い込ませ、争わせる。
「疑心暗鬼を煽り、赤地区を内側から食い合わせる──狙いがそれなら、青や黄が犯人でも筋は通る」
「じゃあ、アナタはそいつらを疑ってるわけ?」
「いいや」
ミリアの言葉を紅牙は即座に否定した。
「青でも黄でもない。赤嶺でもない。当然、俺たちでもない」
「随分と断言するのね」
「どの勢力が得をするのか、という考え方では説明しきれんからな」
紅牙は視線を落とした。
犯人は旧来勢力を襲い、猩々緋に疑いを向けさせた。
その猩々緋まで殺し、今度は旧来勢力が疑われるよう仕向けている。
赤地区の勢力図を変えたいだけなら、もっと簡単な方法があるはず。
にもかかわらず、犯人はわざわざ複雑な状況を作り出していた。
まるで、争う相手を次々に入れ替えながら、街全体を一つの舞台へ引きずりだそうとしているかのように。
「……だとすれば、一番面倒などは」
紅牙は顔を上げた。
「どこにも属していない──異能者だ」
ミリアの笑みが僅かに変わった。
一方で、黒杭は無言のまま目を細める。
「異能者、ねぇ。それなら、これまでの妙な殺し方にも説明がつくかしら」
「まだ断定はできん。だが、考慮する必要はあるな」
ミリアと黒杭の言葉を聞いているのかいないのか、紅牙の視線はすでに二人から外れていた。
倉庫の入口。
その向こうを、じっと見据えてる。
「……紅牙?」
ミリアが怪訝そうに首を傾げた。
紅牙は目を細める。
遠くから、何かが聞こえた──
「……来るな」
「え?」
ミリアが瞬きをした直後だった。
倉庫の外から鈍い衝撃音が響いた。続いて、断続的な衝撃音。怒鳴り声。何かが倒れる音。短い悲鳴。
それらが、こちらへ近づいてくる──いや、近づいてくるというより、立ちはだかるものが片っ端から排除されているようだった。
黒杭が静かに立ち上がる。ミリアもソファから腰を浮かた。紅牙は腕を組んだまま、音のする方向を見据えている。
「来客ね」とミリアが楽しへに言った。
「そうだな」と黒杭が答える。
外でまた一つ、何かが激しく叩きつけられる音がした。
紅牙が小さく息を吐いた。
「暴力のお出ましだ」
次の瞬間、倉庫の壁が内側へとぶち抜かれた。




