2
2
先日から赤地区は荒れていた。
初めのうちは普段と変わらぬ裏側での小競り合いだったが、今では表通りにまで火種が溢れている。猩々緋として揉め事を収めに回れば、住民たちは感謝の言葉を口にする。
けれど、その目には別の感情が混じっていた。
怯え、疑念、そして警戒。
そりゃそうだろうな、と猩々緋の構成員は内心で吐き捨てる。
連日、赤地区の裏側では死人が出続けている。
殺られているのは黒狗、薔薇悪鬼、紅狼鬼──猩々緋以外の連中ばかりだ。
そのせいで、街ではもう噂が噂では済まなくなっていた。
──猩々緋が街の掃除を始めた。
そんな馬鹿げた話を、誰もが半ば本気で信じ始めている。
「チッ……」
舌打ちと同時に、目の前で男が吹き飛んだ。
「がっ……!」
路地の壁に叩きつけられた黒狗の構成員が、背中から崩れ落ちる。骨が何本かいったのだろう、落ちた拍子に短い悲鳴が漏れたが、それもすぐに呻き声へと変わった。
「だから、落ち着けって言ってんだろうが」
猩々緋の構成員は頬を掻きながら吐き捨てるように言った。
その背後には、割れた酒瓶を握ったまま怯える屋台の店主と、腰を抜かした女がいる。
「テメェらが……、テメェらがやったんだろうが!」
地面に這いつくばった黒狗の構成員が、血の混じった唾を吐きながら叫ぶ。
「仲間を何人殺したと思ってやがる……!」
「知らねぇって言ってんだろ」
低く返しながら、猩々緋の男は視線だけで周囲を確認した。
路地の入口には、同じく猩々緋の構成員が二人。別の黒狗の連中をそれぞれ地面へ押さえつけている。さらに遠くの表通りからは怒鳴り声。ガラスの割れる音や何かが倒れる音が聞こえ、朝からこれで三件目だと内心で毒づいた。
多い。
明らかに多すぎる。
昨日の時点で嫌な空気はあった。
だが、今日は朝から街のあちこちで火種が上がっている──まるで、誰かが赤地区全体に油を撒き、片っ端から火をつけて回っているみたいに。
「……おい」
別の黒狗を押さえつけていた仲間が声を掛けてきた。
「西通りで薔薇悪鬼が暴れてるらしい。一般人も多い、誰か回せるか?」
「こっちも手一杯だ。……お前らのどっちか行ってこい」
「わかった」
一人がすぐさま駆け出した。
その背を見送り、男はまた舌打ちする。
昨日まではまだ回っていた。赤地区で揉め事が起こるなど日常茶飯事だ。猩々緋には、それを捌くための頭数がいて、腕っぷしもある。
だから、組織のトップが一つひとつの揉め事に出てくる必要などなかった。
それこそが、猩々緋の強さだった。
赤嶺が前線に立つから強いんじゃない。赤嶺が動かなくても街が回るから強い──だが、今日は違った。
黒狗、薔薇悪鬼。
普段なら互いに睨み合い、下手をすればこちらより先に殴り合うような連中が、まるで示し合わせたみたいに猩々緋へ牙を剥いている。
──共闘して猩々緋を潰しにきている。
そんな考えが過った。
そのとき、
「うわっ!」
背後で悲鳴が上がった。
「ッ!?」
振り返ると、さっきまで地面に転がっていた黒狗の男が屋台の店主へ飛びかかっていた。
考えるより先に身体が動く。腕を掴み、捻り上げ、そのまま膝を腹へ叩き込んだ。
「ぐっ……!」
「関係ねぇ奴に手を出すんじゃねぇよ!」
息を詰まらせる黒狗の男を蹴り飛ばす。
街のルールすら顧みない行動に苛立ちが募る。
「……っ」
小さな泣き声が聞こえた。
恐怖に震える涙声を耳にし、猩々緋の男は僅かに目を見開く。
店主の背後。そこに、小さな子供がいた。恐怖で顔を歪ませ、母親らしき女の服を両手で強く握っている。
それを見た瞬間、男の表情から苛立ちが消えた。
代わりに、冷たい何かが胸の底へと沈んでいく。
──線を越えた。
赤地区の人間が、赤地区の人間を殴ることはある。奪うこともある。騙すことも、売ることも、裏切ることだってある。
だが、それでも。
この街には、この街なりの一線があった。
一般人には手を出すな──少なくとも、猩々緋はそうやってこの街を保ってきた。
その線を、今、目の前の男は越えた。
「……はぁ」
小さな溜息。
だが、それに込められた感情を察したのか、蹴り飛ばされた黒狗が僅かに息を吞んだ。
「その線だけは越えんなって、何回言わせる気だ」
「ぐあっ……!」
鈍い音が鳴り、骨が軋む音とともに短い悲鳴が上がる。
だが、それでも猩々緋の男の表情は晴れなかった。
──違う。
これはただの抗争じゃない。
ここまで街全体が浮き足立つのは、おかしい。
黒狗も薔薇悪鬼も、もっと冷静に暴れられる連中だ。
少なくとも、一般人を巻き込むような下手は普段ならしない。
なのに今日は違う。
誰も彼もが、何かに煽られている──そんな嫌な感覚があった。
「兄貴!」
通りの向こうから、別の猩々緋の構成員が駆け込んできた。
息を切らし、口の端から血を流しながら、
「また死体が出た!」
と言った。
「……どこのだ」
「紅狼鬼です! 場所は東外れの倉庫街!」
「……」
その報告を聞き、男の顔にうんざりとした色が浮かぶ。
「死体の損傷は?」
「これまでと同じです。全身を殴られた痕と、脇腹に穴が──」
「チッ」
最後まで聞く必要はなかった。
これ以上は許されない。
このままでは、裏も表も関係なく、赤地区全体が猩々緋を敵として見るようになる。
そして何より──この街の秩序そのものが壊れる。
地面に転がした黒狗を部下に任せ、男は短く言った。
「……上に伝えてくる」
「兄貴、それって……」
「決まってんだろ」
男は低く吐き捨てた。
「もう俺たちだけじゃ回らねぇ──赤嶺さんに話す」
その一言で、場の空気が変わった。
誰もが口を閉ざす。
猩々緋の中で、その名は軽々しく持ち出すものじゃない。
赤地区内の揉め事程度で、あの男を引っ張り出す。
それが何を意味するのか、ここにいる全員が理解していた。
つまりそれは、もう『いつもの範囲』では済まない。
※※※
猩々緋の拠点は、赤地区の中心から少し外れた広場にあった。
派手な看板も、必要以上の見張りもない。
ただそこに建っているというだけで、周囲の空気を変えてしまうような場所だった。
赤地区に長くいる者ほど、この場所に余計な気安さを持ち込まない。
「……っ」
構成員が慌ただしく廊下を駆け抜ける。
最奥の扉の前で足を止めた。
──ドンッ。
重い音が扉の向こうから響く。
──ドンッ。
鈍い打撃音。
それなのに、壁を伝った振動が空間そのものを震わせる。
まるで、自分の身体まで殴られているような錯覚を覚えた。
構成員は一度だけ呼吸を整え、握った拳で強く扉を叩いた。
音が届いたのか、打撃音が止むと、
「……入れ」
と低く短い声が返ってきた。
「失礼します」
許可を得て扉を開く。
まず目に入ったのは、天井から吊るされた巨大なサンドバッグだった。百キロを優に超えるだろう。元は赤い革で覆われていたのに、今ではその革のほとんどが剥がれ、内側の麻布がむき出しになっている。
こんなものを素手で殴れば、手の皮などすぐに裂ける。拳も痛めるだろう。
それでも、長い間、構わず使い続けてきたことがその有様だけでわかった。
室内も、拍子抜けするほど簡素だった。
部屋はそこまで広さがあるわけでも、豪奢な装飾や調度品があるわけでもない。必要最低限の机と椅子、壁際の棚、灰皿、古びたソファ。打ちっぱなしのコンクリート。部屋というより、倉庫の一室をそのまま使っているような空間だった。
「騒がしいな」
構成員の肩が僅かに強張る。
コンクリートの床には大きな汗染みができていた。室内は暑い。汗だくの身体から立ち上る熱気が肌にまとわりつく。
それなのに、空気だけはひどく張り詰めていた。
「す、すみません」
「謝罪はいい。話はなんだ」
そこでようやく男が顔を上げた。
赤い短髪。獣を思わせる鋭い眼光。ただ立っているだけだというのに、見る者を無意識に強張らせる圧があった。
赤嶺。
猩々緋を率いる男。
赤地区の頂点に立つ悪党。
赤嶺は拳に巻いていた包帯を解いていく。一体どれだけ拳を打ち込んでいたのか、すでに端がぼろぼろに破れていた。
「街の西通りと南路地、それから東外れで同時に揉め事が起きてます。黒狗と薔薇悪鬼が中心です。ウチの連中が抑えに回ってますが、数が多くて……」
「それだけか」
「いえ、それと……」
構成員は一瞬、言葉を選んだ」
「一人、どの勢力かわからない奴がいたみたいで。もしかしたら、そいつが今回の件の首謀者かと」
「どんな奴だ」
「全身をコートで隠してるみたいで、顔は見てないみたいです」
「……」
赤嶺は一瞬考える素振りを見せた。
「そいつを見た奴は、どうなった?」
「向こうがいきなり襲ってきたそうですが……全員、怪我だけで済んでます」
「怪我だけ?」
「はい。死人はいません」
赤嶺の視線が虚空を見つめた。眉間には僅かに皴が寄っていて、今の話について思考を巡らせているようだった。
しかし、それも一瞬のことだった。
「そいつに関しては、俺が預かる」
「え?」
その言葉に構成員は驚いた顔を浮かべるが、
「死人は」
と赤嶺は構わず先を促した。
「あ……はい」
構成員は表情を戻すが、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……今のところ、ウチからの報告はありません」
「他所は」
「紅狼鬼から一人。今朝見つかったそうです。やり方はこれまでと同じで、殴打と……身体に穴が」
その報告にも赤嶺の表情はほとんど動かなかった。
だが、包帯を外していた指先だけが、僅かに止まる。
「一般人は」
「……巻き込まれかけました」
その瞬間だった。
部屋の空気が、ほんの僅かに変わった。
目に見える変化じゃない。赤嶺が動いたわけでも、怒鳴ったわけでもない。表情すらほとんど変わっていない──それなのに、目の前に立つ男が、さっきまでとは別の何かに見えた。
構成員の背筋に、遅れて冷たいものが走った。
「誰だ」
「黒狗の下っ端です。屋台の店主に絡んで、その……子供まで巻き込みかけて」
最後まで言い切る前に、赤嶺が短く息を吐いた。
深いため息ではない。怒気とも違う。
呆れにも似た、短い吐息。
「線を越えたか」
その一言は、誰に向けたものでもなかった。
しかし、構成員には十分すぎるほど意味が伝わった。
赤地区には赤地区なりのルールがある。綺麗事でも、正義でもない。善人面した理念でもない。ただこの街を街として保つために必要な線引き。
一般人に手を出すな。
悪をやるなら責任を負え。
猩々緋の名を言い訳に使うな。
猩々緋が赤地区の頂点に立ってから、赤嶺が徹底して叩き込んだのがそれだった。
「黒狗と薔薇悪鬼だけか?」
「……紅狼鬼も、表立ってはまだ動いてませんが、裏では確実に何かしてます」
「当然だな」
赤嶺は机に置いた水を手にし、一気に喉へ流し込む。
「死人が出てるのに黙ってるほど、アイツらは出来た連中じゃねぇ」
その言い方には、旧来勢力への軽蔑も侮りもなかった。
ただ、長く同じ街にいた者だけがもつ確信があった。
黒狗も、薔薇悪鬼も、紅狼鬼も。猩々緋が生まれる以前から赤地区に根を張ってきた連中だ──だからこそおかしい。
赤嶺は机の上に置かれた煙草の箱を手に取り、一本咥えた。火をつけると、薄く煙が立ち上る。
「青と黄の動きは?」
「今のところ確認できてません」
「そうか」
煙を吐きながら、赤嶺は短く呟いた。
青地区や黄地区がこの騒ぎに便乗してくる可能性はある。
そもそも他所の地区による裏工作が、今回の騒動を引き起こしている可能性もあった。
だが、赤嶺にはそうではないような感覚があった。
今、赤地区の内側で膨れ上がっている熱は、外から流し込まれたものというより、内側からじわじわと煮たてられている。
死人の出方が不自然なことも、猩々緋だけが直接削られていないことも、旧来勢力が揃ってこちらを疑うように仕向けられていることも、すべてが意図的なようであり、嚙み合いすぎている。
誰かが、この街の均衡を崩そうとしている。
それだけははっきりしていた。
「赤嶺さん」
構成員が慎重に口を開いた。
「どうしますか」
「……」
赤嶺はすぐには答えなかった。
煙草の灰を灰皿へと落とし、数秒黙る。
考えているというより、線を引いているような沈黙だった。
どこまでなら部下に任せられるか。
どこから先が自分の仕事になるか。
その境目を、赤嶺は見誤らない。
やがて、
「……本来なら」
と、赤嶺が口を開いた。
「赤地区内の揉め事に、俺が出る必要はねぇ。お前らが回して、お前らが潰して、お前らが納める。それで街は回る」
その言葉に嘘はなかった。
それができるからこそ、猩々緋は赤地区の頂点にいる。
「だが」
赤嶺の目がまっすぐ構成員を射抜いた。
「街そのものが壊れ始めてるなら、話は別だ」
その瞬間、構成員はようやく理解した。
赤嶺が見ているのは目先の喧嘩じゃない。黒狗の暴れ方でも、薔薇悪鬼の出方でも、紅狼鬼の動向でもない。
もっと大きなもの──赤地区という街そのものを見ている。
「頭を抑える」
赤嶺は灰皿に煙草を押し付けた。
椅子の背に掛けてあった上着を掴み、扉へ向かって歩き出す。
「一人で、ですか」
思わず漏れた問いに、赤嶺は一瞬だけ目を向けた。
「お前は街へ戻れ。お互いやるべきことをやろうぜ」
「は、はい!」
ぶっきらぼうに言い捨て、赤嶺は部屋を出ていった。
残された構成員はその背中を見送る。
「……ふぅ」
そこで初めて、自分でも気づかないうちに詰めていた息を吐いた。
──動いた。
その事実だけで、胸の奥に重く沈んでいたものが、ほんの少しだけ軽くなる。
赤嶺が出たからすべて解決する、なんて甘い期待じゃない。
むしろ、赤嶺が出なければならないほど、状況が悪化していることくらい嫌というほど理解している。
それでも、この街で『猩々緋の赤嶺』が動くというのは、それだけの意味があった。
赤地区を支配するが、ついに動き出した。




