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猿真似ハネ曰く、
「人は真実で争うのではない。信じたい理由で争うのじゃ」
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紅狼鬼のボスである紅牙は何も言わず、地面に転がる死体を見下ろしていた。
赤地区の外れ。
草木がまばらに生えるその場所には、むせ返るような血の臭いが満ちている。周囲に立つ部下たちは誰一人としても口を開かない。
紅牙がこの惨状を見て何を思っているのか、何を言うのか、ただそれだけを待っていた。
「……何人目だ」
視線は死体に向けたまま、低い声が落ちる。
「これで七人目です」
短い返答に、紅牙は二、三度頷くと膝を折り、部下だった男の亡骸のそばへしゃがみ込んだ。
傷を見る。顔は原形が崩れるほど腫れあがっている。腕の骨は折れ、片足はあり得ない方向へ曲がっていた。何か鈍器のようなもので何度も殴打された痕。執拗すぎるほどの暴力の痕跡を、紅牙は一つずつ確かめていく。
その中で、胸に開いた穴を見たところで、僅かに眉を寄せた。
刺し傷ではない。ナイフや包丁ではこんな傷にはならない。皮膚を破り、骨を砕き、内臓ごと貫通した、まるで機械でくり抜いたかのような丸い穴。拳大の弾丸でも撃ち込めば似た傷は作れるかもしれない。
だが、周囲は部下たちに隈なく調査させた。
凶器の類は何一つ見つかっていない。
紅牙は指先で傷の縁をなぞった。
焼けた痕はない。
焦げた臭いもない。
「……違うな」
誰に聞かせるでもなく呟き、紅牙は立ち上がる。
「黒狗と薔薇悪鬼は何て言っている」
「……猩々緋の仕業だと」
「……」
部下の言葉に、紅牙はすぐには答えなかった。
辺りに僅かな静寂が落ちる。
その中でもう一度死体を見た。
──違う。
そう思った。
猩々緋ではない。
少なくとも、自分の知っている猩々緋のやり方ではない。
だが、同時に別の疑問が浮かぶ。
──じゃあ、誰だ?
赤地区でこれだけのことができる奴がいるか?
猩々緋以外に。
「……呼べ」
紅牙が言った。
「黒狗と薔薇悪鬼だ」
その声に迷いはなかった。
「この街で何が起きているのか、はっきりさせる」
指示を受け、部下たちが動き出す。
紅牙も踵を返したが、一歩踏み出す直前、僅かに足を止める。
振り返らず、視線だけを死体へ向けた。
「……妙だな」
その呟きを聞いた者はいなかった。
※※※
薔薇悪鬼のボスであるミリアは、ソファに深く身を沈めながら酒を煽っていた。
食器が打ち鳴らす甲高い音に笑い声。グラス同士がぶつかる澄んだ音色。雑多な話し声に満たされた空間を、いくつもの音が好き勝手に飛び交っている。どれもこれもが雑音に等しい乱暴な波長だが、ミリアにとってはそのすべてが音楽の一部だった。
バカ騒ぎを絵にかいたような光景。
薔薇悪鬼の拠点は、今日も変わらず騒がしかった。
「で?」
ソファに沈んだまま、ミリアはゆったりと足を組み替えた。
「また死んだの?」
傍に立つ部下が、掲げられたグラスへ酒を注ぎながら頷く。
「黒狗と同じ……いえ、それ以上に」
「ふぅん」
その報告に、ミリアは軽く目を細めた。
連日届く死傷者の情報。最初は黒狗の構成員だったが、次はウチの構成員がやられ、調べれば紅狼鬼からも死者が出ているようだった。
赤地区を代表する四つの勢力のうち、三つから死者が出た──現在の支配者である猩々緋を除いた、赤嶺が現れる前からこの街に根を張っていた、旧来の三勢力から。
「猩々緋かしら?」
誰に訊ねるでもなく口にしてみる。
そして、すぐに首を横に振った。
「……違うわね」
薄く笑うミリアが正面を見据える。しかし、その視線はどこにも焦点を合わせていない。
脳裏に浮かぶのは、一人の男だった。
──赤嶺のやり方は知っている。
顔面をボコボコにされようと、腕を折られようと、足をへし折られようと、もし赤嶺が本気で命を奪うつもりならそんな壊し方にはならない。
派手で乱暴で、やり方は単純明快。
しかし今起きている被害は、もっと陰湿で、もっと静かで、何より趣味が悪い。
──赤嶺以外の奴がいる。
報告に上がるのはどれも無残な被害だった。
鈍器のようなもので全身を殴り潰された死体。鋭利な何かで切り裂かれた死体。めった刺しにあった死体。槍か杭のようなもので身体を貫かれた死体──一つの殺し方に統一されてすらいない。
これまでの赤地区では、見たことのない傷ばかり
だからミリアは、初めから猩々緋の仕業だとは思っていなかった。
「でも」
ミリアは立ち上がった。
グラスを満たしていた一息に喉へ流し込み、空になったそれを緩慢な動作でテーブルに置く。
「だからって、疑わない理由にはならないでしょ?」
ミリアは部下たちに振り返る。
その顔は楽しげだった。
「猩々緋のせいにしてしまえばいいのよ」
疑問や困惑を浮かべる部下たちに、ミリアは肩をすくめた。
「だって、そのほうが話が早いじゃない」
猩々緋ではないかもしれない。
むしろ、違う可能性の方が高い。
そんなことはわかっている──が、誰がやったかわからないまま怯えているより、殴る相手が決まっている方が、ずっと楽しい。
ミリアは小さく笑った。
「せっかく面白くなってきたんだから」
※※※
黒狗のボスである黒杭は、床に並べられた死体を順に見ていた。
一つ。二つ。三つ。
「……雑だな」
死体を検分しながら、無感情に呟く。
今朝、新たに見つかった三つの死体。全身の至るところに穴が開いていて、どの傷口も綺麗な円を描いていた。足だろうが腰だろうが胸だろうがお構いなく、骨すらも貫いた傷口。一体に至っては、右目ごと頭部の一部を失っていた。
人間の身体をここまで容易く壊せるのなら、わざわざ末端の腕や足などを狙わず急所を一撃で仕留められるだろうに、そうはせず痛めつけるように振るわれた暴力には、この犯人の自己主張や顕示欲のようなものを感じられた。
赤地区の裏側で流れている『猩々緋が街の掃除を始めた』という噂。
しかし、
──赤嶺ではない。
黒杭の知る赤嶺という人間と、目の前に並ぶ死体。
この両者が一致しない。
赤地区のトップに君臨するほど赤嶺の実力は凄まじいが、今目の前にある傷を作るれるとは思えない。
それに、昨日殺された部下は全身の骨を粉々に砕かれていた。
境の三人は身体に穴を開けられている──殺害の手段が違う。
「猩々緋の被害は?」
「ありません」
部下は即答した。
黒杭は目を細め、虚空を眺める。
黒狗。
薔薇悪鬼。
紅狼鬼。
どのグループもやられている。部下の調べさせた限り、他二つから出た死者もこちらと似たような殺され方をしていた。
犯人は同じ。
猩々緋だけが無傷。
──偶然か?
いや、と黒杭は首を横に振った。
偶然で片付けられる数ではない。
「猩々緋がやった可能性は?」
黒杭が訊ねる。
部下は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……低い、かと」
「だろうな」
黒狗から最初の死者が出たとき、真っ先に疑ったのは紅狼鬼と薔薇悪鬼だった。
すぐに部下を送り、二つのグループを監視させた。
だが、間もなくその両者からも同じような死者が出た。
三つの勢力が襲われ、赤地区を支配する猩々緋だけが無傷。
状況から自然と猩々緋を疑う流れは生まれるが、殺害の手口が赤嶺の手段と一致しないことに疑問が生まれた。それに猩々緋が自分たち以外の勢力を潰そうと考えたとして、なぜ三つを同時に襲うだろうか。
確かに猩々緋は強く、それを率いる赤嶺は赤地区一の実力者だろう。
しかし、こちらも黙って殺されるほど従順ではない。
本気で潰しに来るのなら、こちらも死ぬ気でやり返す。
三勢力すべてを同時に敵に回せば、猩々緋側にも相応の被害が出る。
それがわからない赤嶺ではない。
敵だからこそ、その程度の評価はしている。
だから、黒杭の頭には別の可能性も浮かんでいた。
赤地区の勢力同士を争わせる。互いに削らせ、疲弊したところを狙う──他所の手。
だが、考えたところで答えは出ない。
黒杭は絡まり始めた思考を切り捨てた。
わからないものはわからない──なら、今ある真実だけを見る。
「猩々緋が関与している可能性は消えない」
死体から一歩離れ、黒杭は続ける。
「どんな手を使っているのか知らん。だが、このまま放置すればこちらが一方的に削られる」
問題はそれだけだった。
真犯人が誰かではなく、自分たちが死んでいる。
その結果だけで、動く理由には十分だった。
「動くぞ」
淡々とした短い一言。
それだけで黒狗は動き出す。
黒杭は振り返らない。
死体は、もう見ない。
必要な情報は、すでに取った。
※※※
倉庫の中は静かだった。
時折吹き込む風に、錆びたトタン板が軋んだ音を鳴らす。それ以外に耳に入るものはなく、静けさというよりは息苦しい沈黙がその場を支配していた。
電灯はない。穴の開いた天井から差し込む青白い月光だけが、広い倉庫の一角をぼんやりと照らしている。
その中心に三つのソファが置かれていた。
寂れた倉庫内には不釣り合いな豪奢なソファ。
そこに座る、三つの影。
紅狼鬼のボス、紅牙。
薔薇悪鬼のボス、ミリア。
黒狗のボス、黒杭。
赤嶺が赤地区に現れるより前、この街にはすでに三つの勢力が根を張っていた。
今でこそ猩々緋が赤地区の顔となっているが、かつて街の裏側を食い合っていたのはこの三組だ。
もっとも、三者とも頂点そのものへの執着は薄かった。
ミリアは赤地区が他所の色に染まらなければそれでよく、黒杭は自分たちが不自由なく生きられるのなら支配者が誰であろうと気にしない。紅牙が頂点に立ってことさえ、半ば成り行きに近かった。
思想も、流儀も、美学も違う。
それでも、三人には一つだけ、暗黙の了解があった。
──赤地区が赤地区であり続けること。
それさえ守られるなら、赤嶺が代表になろうと、猩々緋が支配する街と呼ばれようと構わない。
だからこそ、構成員同士の小競り合いはあっても、ボスである彼らが前に出ることはなかった。
少なくとも、今日までは。
「で?」
最初に口を開いたのはミリアだった。
ソファに深く腰掛け、頬杖をついたまま、退屈そうに紅牙を見る。
「呼びつけておいて、いつまで黙ってるの?」
低いテーブルに置かれた酒瓶を手に取り、紅牙と黒杭を順に見た。
「せっかく気を利かせて酒を持ってきてあげたのに誰も飲まないし。禁酒中なの?」
「飲みに来た覚えはない」
と、黒杭が即座に切った。
「この面子で飲む酒ほど不味いものもないだろう」
「アハッ、確かに」
ミリアは愉快そうに笑い、そのまま瓶へ口をつけた。
喉を鳴らして酒を流し込み、一息で半分ほど減らす。
「で?」
同じ言葉を投げる。
「私はいつまでアナタたちと一緒にいなきゃいけないのかしら?」
「同感だ」
黒杭は足を組み替え、無感情に言った。
「こういう場に意味があるのならまだしも、今のところ無駄な時間にしか思えん」
二人の視線が一点に集まった。
この場に来てからずっと、紅牙は腕を組んだまま黙っている。
もっとも、自分たちを呼び出した理由など言われるまでもなくわかりきっていた。
薔薇悪鬼も黒狗も似たような被害を被っているのだ。
わざわざ呼び出しに応じる義理などない。
他所の考えを聞いたところで、自分たちの取るべき行動が変わるわけでもない。
それでも二人がここに来たのは、これから起こることがもはや決定事項だとわかっていたからだ。
三人ともが同じ結論に辿り着いている。
ただ、その口火を切る面倒を誰も引き受けたくなかった。
だから結局、その役目は紅牙に回ってくる。赤地区の頂点にいた頃と何も変わらない。
紅牙は小さく息を吐き、ゆっくりと目を開けた。
「猩々緋を叩く」
ミリア、黒杭の順に目を向け、短く言い放った。
だが、それで十分だった。
「異論はない」
と黒杭は即答し、
「まぁ、考えは同じよね」
とミリアは肩をすくめた。
「手を組む気はない。好きにやれ──だが、今回の抗争が終わるまでは、互いに余計な真似をするな」
「合理的だな」
頷く黒杭に、紅牙は続ける。
「抱える戦力がどれだけ消耗しようと、まずは猩々緋を潰す。その後は好きにやればいい」
「アハッ、最低」
言葉とは裏腹にミリアは楽しそうだった。
話は終わった。
妥当な提案に文句はなく、ミリアはテーブルに置かれた酒瓶を手に取ると、紅牙と黒杭にそれぞれ放った。
「口約束じゃ味気ないわ。こういうのには、しきたりってものがあるのよ」
そう言って自分の酒瓶を掲げる。
求めていることは一目瞭然だった。
紅牙と黒杭もここは素直に倣い、三本の瓶が中央でぶつかった。
──キン。
短くも小気味のいい音が響く。
それはまるで、今ここで交わされた取り決めを、確かなものにする合図のようだった。
その夜、赤地区の古い悪たちは、ようやく同じ方向を向いた。
真実を知ったからではなく、犯人を突き止めたからでもなく、ただ殴るべき相手を決めただけだった。
誰も知らないところで、もう一つの影が、今も赤地区を歩いていることも知らずに。




