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翌日。
赤地区へとやってきた凰乃は、表通りから外れた路地を歩いていた。
薄暗くはあるものの、表通りから流れ込む喧騒のおかげか、危なげな空気はない。ただ通りと通りを繋ぐ道として使われているだけで、灰地区の路地とはまるで違っていた。
治安の悪い場所──例えば灰地区なら、一本通りを外れただけで空気が変わる。人目が薄れ、途端に街の裏側が顔を覗かせる。
もちろん赤地区も例にもれず犯罪都市の一部であり、猩々緋を筆頭に様々な集団が街を跋扈している。それでも路地から路地へと歩みを進める凰乃は、先ほどからすれ違う一般住民の多さに意外そうな顔を浮かべていた。
数人の子供たちがはしゃぎながら横を駆け抜けていく。
その小さな背を見送りながら、
「昼間とはいえ、子供が路地裏を歩けるのはすごいね」
と凰乃は微笑んだ。
「一般住民に手を出したらどうなるか、悪党ほどよく理解してるからな」
「それだけ猩々緋の名が機能してるってわけだね」
路地を抜けると人通りの少ない通りへ出た。
どこを見ても賑やかだった赤地区では初めて見る光景に、凰乃は興味深そうに辺りを見回す。
「こういう場所もあるんだね」
「猩々緋の目が光ってるとはいえ、隅々まで治安がいいわけじゃない。まぁ、こういった場所には屋台も少ねぇし、わざわざ来る用もない──お前みたいな変わり者以外はな」
モルの皮肉に、凰乃は愉快そうに肩をすくめた。
赤地区の中心である屋台街ではなくわざわざ街外れまで足を運んだのは、猩々緋以外の集団を見るためだった。
猩々緋が赤地区において最も強大な暴力を有しているというだけで、彼らの支配の陰にはいくつもの勢力が存在する。
正義による制圧ではなく、同じ穴の狢による純粋な力比べに敗れたことで日陰に追いやられた、いくつもの暴力。
彼らは、赤地区の顔として名を馳せる猩々緋をどう見ているのか。従っているのか。恐れているのか。それとも──ただ、機会を待っているのか。
興味をもった凰乃は、好奇心の赴くままに足を運んだのだった。
中心地に比べれば人の数はぐっと減るが、人通りが途絶えているわけではない。
まばらに屋台も並んでいて落ち着いた賑わいをみせていた。
「人の流れが穏やかな分、こっちの方が私好みだな」
人とすれ違うときも避ける必要はなく、歩くのもスペースに余裕がある。
中心から外れているからか子供は少なく、代わりに多少荒っぽい風貌の者たちが目立った。
屋台街で目にした猩々緋の構成員と比較すると、些か粗野な印象を受ける。
凰乃がそんな者たちを中心に観察していると、すれ違った女性から、香辛料に混じって甘い香水の香りが漂ってきた。
赤地区を満たす匂いとは別種の強い香りに、凰乃は思わす振り返った。
派手な化粧に身体の線を強調する服装。夜の街なら馴染むであろう装いは、昼間の赤地区ではひどく目立っていた。
「黄地区の人間だな」
凰乃の視線を追い、モルが言った。
「足止めてまで見るほど珍しくもねぇよ。昨日だって屋台街にはいただろ」
「あんなセクシーなお姉さんが一人で歩いてたら、声をかけられたりするんじゃないのかい? それとも、猩々緋の目があるからそういったことからも守られているとか?」
「いや、ナンパは普通にあるぞ。むしろ黄地区の奴が、他所の地区へ遊びに行くついでに営業することだってあるからな」
「ほう、詳しいね」
凰乃は意味ありげに口端を持ち上げる。
モルは鬱陶しそうに顔を顰めた。
「ガキが変な勘繰りするな──まぁ心配することもねぇよ。声をかける奴はいるだろうが、乱暴なことにはならねぇ。お前の言うように猩々緋の目がある。その辺の線引きは弁えてるさ」
従わせるわけではない。気に入らなければ反抗することも許される。ただし、その時に交わされるのは言葉ではなく暴力であり、我を通すのならより強い力を示せばいい。
それができないからこそ、街の影に巣食う者たちは不平不満を抱えながらも諦めるしかない。
暴力によって、暴力を抑え込む秩序。
「さすが赤地区の支配者だね」
感心しながら、凰乃は赤い布を身につけた者を探す。
しかし、
「……?」
通りの角や屋台の裏、路地の入口。どこを見ても姿が見当たらない。
中心街から外れているから監視の目が緩いのか、と凰乃が一人首を傾げていると、先ほどの女性へ声をかける者たちがいた。
男が三人。赤い布を身につけていない。猩々緋ではないことは一目でわかった。
「おっ! 早速声掛けられてるぞ」
モルが愉快そうに顎をしゃくった。
何事もないように言うその姿に、黄地区の女性が声を掛けられることは珍しくないのだと知る。周囲の客も一瞥するだけで、すぐに興味を失せたように視線を戻した。
女一人にガラの悪い男三人が距離を詰める光景も、ここではよくある日常の一幕らしい。
しかしそれは、猩々緋がいるから。
凰乃は辺りを見回し、猩々緋の構成員を探す──が、やはりどこにも見当たらないことに眉根を寄せた。
「モル。ここら一帯は猩々緋の管轄ではないのかい?」
「ああ? そんなことねぇよ。連中は赤地区全体を巡回してる。街外れだろうが猩々緋の目は届いてるさ」
「……そうか」
返事をしながらも、凰乃の視線は周囲をめぐり続ける。
その様子を見たモルも、なぞるように辺りを見回した。
そして、凰乃の質問の意味を察する。
「……一人もいねぇな」
ぽつりと漏れた呟き。
その声音に滲んだ意外さだけで、凰乃には十分だった──これは、いつもの赤地区ではない。
そうこうしてる間にも、女を囲む男たちの距離は縮まっていく。最初は正面に立っていただけなのに、いつの間にか逃げ道を塞ぐような立ち位置になっている。
女の表情が一瞬だけ曇ったが、それでもすぐに愛想笑いを貼り付けた。
「お仕事前に遊びに来たの。よければお兄さんたちも店に遊びに来てね」
「仕事、ねぇ」
男の視線が、品定めするように女の身体をなぞる。
言葉は軽い。だが距離が近い。逃げるには、近すぎる。
女が一歩下がった──が、その腕を男の一人が掴んだ。
「待てよ。せっかく来たんだ、もう少し遊んでいけよ」
その瞬間、空気が変わった。笑い声が止み、話し声が消える。鉄板の上で肉が焼ける音と、油の爆ぜる音だけが妙に鮮明に響いた。
周囲の視線が一点に集まり、危うさが場を包む。
「おいおい、それはやり過ぎだろ」
モルが低く呟き、辺りを見回した。
それは他の客も同様で、誰もが赤い布を探している──が、どれだけ周りを見ても、トラブルへ介入するはずの秩序は現れなかった。
静寂は長く続かなかった。すぐに客のざわつく声が大きくなる。
だが、先ほどまでとは違う。困惑、不安、戸惑い。いつもなら現れるはずのものが現れない。その事実だけが、通りの空気をじわじわと濁らせていく。
自分たちが注目を浴びていることを自覚したのか、それとも猩々緋が来るのを恐れてか、男の指が女の指に食い込み、路地へと引っ張る。
女は声を上げなかった。ただ息を呑んで視線を泳がせる。
助けを求める視線が彷徨い、凰乃と目が合った──だが、凰乃は動かなかった。
異能を使えば一瞬で黙らせることができる。
男たちを止めることも、女を逃がすことも、凰乃には容易い。
それでも、冷めた表情のまま、その光景を眺めていた。
目の前の出来事は、凰乃の胸の奥にある設計図と酷く食い違っていた──故に、凰乃個人の力でねじ伏せて終わらせるべき光景ではない。
酒場での一件を振り返り、自身に言い聞かせた。
(醜い。けど──私は、彼らを裁く側でもない)
助けられないことへの申し訳なさはなかった。自分が動けないことへの歯痒さもない。自分の目指すもののために、どこまでも冷静に立ち回りを考える。
正義でもなければ悪でもない、ただ欲望を弱者へ向けるだけの下種を、自分ならどう扱うべきなのか。
赤地区では猩々緋が裁く。
なら、凰乃の目指す『悪の秩序』では?
線を越えた者に、悪をはき違えた者に、何を与えるべきなのか。
「……」
腕を組み、顎へ指を添える。
目の前で一人の人間が連れ去られようとしている状況には、あまりにも場違いな姿だった。
そのとき、通りを満たしていた不穏な空気がふっと緩んだ。安堵が人から人へと伝播していく。
空気の変化に気づいた凰乃が顔を上げると、誰もが同じ方向を見ていた。
「やっと来たか。……別のトラブルでもあったのか?」
安心したように言ったモルだったが、すぐに眉根を寄せた。
凰乃も目を細める。
通りの奥から、遅れて猩々緋の構成員たちが現れた。
だが、その足取りは明らかに思い。
先頭を歩く男の額には血が滲み、もう一人は片方の肩を庇うよう歩いていた。二人とも息は荒く、ここへ来る前に何かあったことがわかる。
「た、助けて!」
恐怖で強張っていた女が、赤い布を見た瞬間に声をあげた。
すぐに状況を察した赤の構成員は、
「……チッ、面倒くせぇことしてんじゃねぇぞ」
と、苛立ち混じりの声で凄んだ。
それは秩序の象徴として悪を威圧する声というより、次から次へと問題を押し付けられる疲れ切った暴力の吐露に近かった。
三人の男が女の腕を放し、猩々緋へと注意を向ける。
その隙に女が駆け出した。
十分に距離が開いたのを確認すると、猩々緋の二人が地面を強く踏み、一気に距離を詰めた。
三対二。
しかも猩々緋側は手負いだ。
大丈夫か、と他人事めいたことを考えながら、凰乃はその赤をじっと見つめる。
だが結果だけを見れば心配する必要などなかった。
傷を負った状態だろうが、人数で劣っていようが、赤地区を支配する暴力には関係ないらしい。
踏み込み、殴り、崩す。
短い攻防だった。
三人の男たちはあっという間に地面へ転がった。
猩々緋の二人は彼らを一瞥しただけでその場を離れていく。
「一時はどうなるかと思ったが、……さすが猩々緋。現れてからはあっという間だったな」
「へぇ、あのお姉さんのこと心配してたんだ」
「そりゃするだろ。あのままだったら絶対ろくなことになってねぇよ」
「それはそうだね」
「……そういうお前はどうなんだよ。お前が作ろうとする『悪の秩序』は、ああいう連中を許さないんじゃないのか?」
モルに問われ、凰乃は地面に転がる三人へ視線を向けた。ふらふらと立ち上がり、痛む箇所を押さえながら顔を顰めている。そして自分たちを叩きのめした赤い背中を睨みつけていた。
「あれは悪ではないよ」
凰乃はあっさりと言った。
「たとえ邪な感情から生まれた行動でも、悪には知性も品性も必要だ。欲望の赴くままにやりたいことをやるにしても、手あたり次第は論外。向ける相手は選ばなければならない」
「……なら」とモルが僅かに眉を寄せた。「逃げた黄地区の女が悪人だったら、アイツらの行動は許されるってことか?」
「ああ」
即答だった。
一切の迷いもなく、当然のことを問われたとでもいうように、凰乃は微笑んだ。
「善人は守られるべき存在だが、悪人はすべてが自己責任だよ。何をされても文句はいえない。その権利すらない──その対価として、好き勝手やるんだから」
そして、付け加える。
「もちろん、『悪の秩序』の中でね」
「……」
発言の危うさに反して、浮かべる笑みは純真無垢そのものだった。
対して、モルの表情は浮かない。その理屈に抵抗があるように、理解に苦しむように、それでいてどこか納得できるかのように、いくつもの感情が混ざり合い、答えを出せずにいるようだった。
凰乃はそんなモルから視線を外し、遠ざかっていく赤い背中へ目を向ける。
赤地区の秩序は今日も機能した。
暴力は暴力によって抑え込まれた。
それは、凰乃の目指す『悪の秩序』にどこか似ている──だが同時に、その仕組みはあまりにも人の消耗に依存していた。
この街の秩序は、誰かが殴り続けることで保たれている。
ならば、殴る者の拳が折れたとき、この街はどうなるのか。
凰乃は先ほどの光景を思い返す──猩々緋は現れた。女は助かった。三人の男は叩きのめされた。秩序は守られた。
──違う。
守られた、というより。
「……間に合っただけ、か」
小さな呟きは、戻ってきた喧騒に呑まれた。
屋台の鉄板が鳴り、客の笑い声が重なり、先ほどまでの緊張などなかったかのように、日常がすべてを塗り潰していく。
いつも通りの赤地区──少なくとも、表向きは。
その光景を眺める凰乃には、この街全体がほんの少しだけ遅れて動いているように見えた。
何かが起きる。猩々緋が駆けつける。暴力で抑え込む。そして、また次へ向かう。
凰乃は遠ざかる、傷ついた背中を見つめた。
──秩序が、追いついていない。
そんな小さな違和感だけを胸に残し、凰乃は再び路地へと歩き出した。




