リーリエの直感
カインが隠している。何かを。重いものを。夜の書庫は静まり返り、蝋燭の炎だけが壁に踊る影を投げている。紙とインクの匂いに混じって、冬の冷気が窓の隙間から忍び込んでいた。暖炉の薪が崩れ落ちる音がして、火花が一つ飛んだ。
リーリエにはわかっていた。直感的に感じ取っていた。いつからかは定かでない。けれど最近のカインには、明らかに以前と違う「重さ」がある。
朝のいつもの花茶を淹れるとき。施術で結界の状態を確認するとき。廊下ですれ違うとき。カインの目が——一瞬だけ、何かを言いかけて止まる。唇が微かに動いて、しかし音にならない。そして視線が逸れる。以前はなかった間。言葉の手前で踏みとどまる、あの一瞬の逡巡。
リーリエは観察していた。感情が凍結していても——いや、凍結しているからこそ、他者の変化には敏感だった。自分の内側が静かな分、外側の揺らぎがよく見える。水面が凪いでいるほうが、波紋に気づきやすいのと同じだ。
昨日の朝も——「もう一つ、話すことがある」と切り出して、止まった。リーリエの顔を見て、言葉を呑み込んだ。あの一瞬の逡巡に、カインの全てが表れていた。言いたい。しかし言えば、何かが壊れる。その恐れ。リーリエを傷つけまいとする、不器用な優しさ。
何を——隠しているのか。
夕暮れ。リーリエは自室の椅子に座り、窓の外を見ていた。空が淡い橙に染まり、城の塔が長い影を落としている。庭のエーデルフラウは——日が落ちると花弁を閉じる。眠るように。けれど朝になれば、また開く。
聖女=人柱であること。命が結界の燃料として消費されていること。それは既に知っていた。カインが教えてくれた。あの真実だけでも十分に重かった。自分の命が——道具として使われていた。教会はそれを「崇高な犠牲」と呼んで美化した。
しかし——それが全てではない。
蝋燭の光がカインの横顔を照らしている。カインの目には、あの真実を告げたときとは別の種類の重さがある。もっと深い。もっと根源的な。リーリエに直接関わる——何か。
私について、まだ知らないことがある。
リーリエは目を閉じた。冬の夕暮れの冷気が窓辺から漂ってくる。
推測はできる。断片的な情報を並べれば、輪郭は見える。カインが最初に言った言葉——「お前が死ぬと世界が終わる」。あのとき、比喩だと思った。聖女が死ねば結界が弱まり、世界に影響がある。その程度の意味だと。
しかし——もし、文字通りの意味だったら。
目を開けた。
もし私が死ねば、世界が《《終わる》》のだとしたら。
次の聖女が——いないのだとしたら。
胸の奥で、仮説が形を取っていく。教会は歴代、聖女が死ぬと次の適性者を見つけ出してきた。けれどもし、次の適性者が存在しないなら——私が最後なら——死は解放ではなく、世界の終わりを意味する。
その仮説が正しいなら、カインが隠している理由もわかる。この真実を告げることは、リーリエの「死ねば楽になれる」という最後の逃げ場を奪うことになる。カインはそれを——残酷すぎると思っているのだ。
だから言えない。だから止まる。だから——あんな顔をする。
リーリエは膝の上で手を組んだ。
怖い、とは思わなかった。恐怖はもう、二年前に使い果たした。教会の祭壇で聖女の紋章が光り始めたあの日に。終わらない苦痛が始まったあの瞬間に。それ以来、リーリエにとって「怖い」は色褪せた言葉だった。
しかし——不安はあった。
知ることが怖いのではない。知った後の自分が怖い。胸の奥で紋章が疼き、結界との繋がりが引っ張られるような感覚がある。窓の外で風が唸り、枯葉が渦を巻いて舞い上がった。冬の夜は長い。
死ねば解放される——その希望がなくなったとき、自分はどうなるのか。希望の最後の砦が崩れたとき、何が残るのか。今の自分は、あの希望に辛うじて支えられている。苦痛に耐えられるのは、「いつか終わる」と思えるから。それがなくなったら——立っていられるのか。
リーリエは椅子から立ち上がり、窓辺に歩いた。ガラスに手を触れる。冷たい。指先から冷気が伝わり、掌に広がる。夕暮れの空が、橙から薄紫に変わりつつある。一番星が見え始めた。
けれど。
カインが隠しているのなら——それは私を守ろうとしてのこと。
あの人は、いつもそうだ。不器用で、素直に言えなくて、黙って背負おうとする。「別に心配してるわけじゃない」と言いながら、花茶を淹れて、体調を気にして、夜も眠らず見張りをして。寝不足の目を隠して、何事もないような顔をして。
全部——私のために。
だからこそ。
もう、隠さなくていい。
リーリエは心の中で、カインに語りかけた。声にはしない。言葉にはしない。ただ、思った。
あなたが背負っているものを、私にも分けてください。私は——あなたが思っているよりも、たぶん壊れにくいです。既に壊れているから。これ以上壊れる場所がないから。だから——大丈夫です。
窓の外で、最後の夕日が塔の向こうに沈んだ。空が暗くなり、星が一つ、また一つと瞬き始めた。
フェアシュテルン——冬の女王座の、五つの星の一つ。カインが教えてくれた星。あの夜のことを、よく覚えている。カインの声。星を指す長い指の影。「一人じゃない」という言葉。
リーリエは星を見つめた。
覚悟は——できている。何を告げられても。どんな真実であっても。
ただ一つだけ。
知った後も——ここにいられるだろうか。この城に。この日々に。カインの隣に。あの花茶の時間に。
それだけが、わからなかった。
夜が更けていく。リーリエは窓辺に立ったまま、長い時間、星を見ていた。明日の朝が来る。いつもの花茶が淹れられる。いつもの「ああ」が返ってくる。
そしていつか——カインが口を開く日が来る。
その日を、リーリエは待っていた。恐れながら。けれど——逃げずに。
以前のリーリエなら、気づいても何も思わなかっただろう。他者が何を隠していようと、自分には関係ない。自分の命がどうなろうと、どうでもいい。そう思っていた。
今は違う。カインが苦しんでいることが、気になる。カインが何かを抱え込んでいることが、痛い。他者の痛みを自分のことのように感じる——それは、感情が凍結していた頃にはなかった感覚だ。
枕に顔を埋め、深い息をついた。シーツが冷たい。リーリエは窓を閉めた。星の光が遮断され、部屋に暗闇が満ちる。けれど——暗闇の中でも、胸の奥に小さな灯火がある。カインへの信頼という名の灯火が。
何が来ても——逃げない。カインがくれたものを——受け止める。それがリーリエの、今の覚悟だった。




