朝の茶、最後の嘘
朝が来た。窓の外が白み、冬の朝の鋭い光が部屋に差し込んでいる。石壁が冷たく、暖炉の残り火が微かに赤い。
いつもの時間に、いつもの場所で。城の東側にある小さな居間。窓から差し込む朝日が、テーブルの上に淡い光の四角を落としている。壁際に置かれた花瓶には、庭から摘んできたエーデルフラウが一輪。白い花弁が朝の光を受けて、透けるように輝いていた。
カインがいつものように花茶を淹れていた。
陶器の急須に湯を注ぐ。白い蒸気が立ち上り、花の香りが部屋に広がった。甘く、仄かに苦い。カインの手つきは慣れたものだった。湯の温度、蒸らす時間、茶葉の量——全て、リーリエの好みに合わせて調整している。少し甘めが好きだとわかってから、花弁を一枚多く入れるようにした。本人にその自覚がないのは、いつものことだ。
リーリエが入ってきた。
「おはようございます」
「ああ」
銀灰色の髪が肩で揺れた。薄い青紫の瞳が、カインを見て——カップを見た。いつもの朝の手順。
「今日も淹れてくださったのですね」
「座れ」
リーリエが椅子に座った。カインがカップを差し出す。リーリエが両手で受け取り、包み込むように持った。指先が白い。いつも白い。血の気が薄い、儚い白さ。聖女の力に命を削られ続けた手だ。
一口。
「……今日のは、少し花の香りが強いですね」
「乾燥が足りなかったかもしれん。嫌か」
「いいえ。好きです」
短い言葉の交換。いつもの朝。いつもの時間。何一つ変わらない、魔王城の穏やかな朝——のはずだった。
カインの目が、リーリエの顔に留まった。
穏やかだった。花茶を飲むリーリエの横顔は、この城に来たばかりの頃と比べれば格段に穏やかだった。あの頃は茶を出しても受け取らなかった。「意味がありません」と言って。今は——両手で包んで、一口一口味わっている。
この顔を——壊すのか。
カインの胸の奥で、昨夜の決意が揺らいだ。ヴェルナーの言葉が正しいことはわかっている。告げなければならない。わかっている。しかし——今、この穏やかな朝の中で、この人の前で。
「リーリエ」
「はい」
「もう一つ——話すことがある」
リーリエが茶碗を置いた。静かに。音を立てずに。そしてカインを真っ直ぐに見た。薄い青紫の瞳。凍結した感情の底に、微かな光がある。最近ようやく灯り始めた、小さな光。
カインは口を開いた。言葉が喉元まで来ている。「お前は最後の聖女だ」。その一言を発すれば、全てが変わる。リーリエの最後の逃げ場が消える。「死ねば楽になれる」という唯一の——
リーリエの瞳と目が合った。
穏やかな目だった。けれど——待っている目だった。何を言われても受け止めるという、静かな強さがそこにあった。同時に、目の奥に、ほんの僅かな不安が揺れている。「何かを隠されている」と察している目。それでも——追い詰めない目。待っている目。
カインの言葉が——止まった。
「……何でもない」
視線を逸らした。窓の外を見た。朝の光が眩しい。目が——痛い。光が痛いのではなく、嘘が痛い。
「何でもないのですか」
「ああ。茶のおかわりはいるか」
花茶の蒸気が顔を温め、花弁の甘い匂いが鼻腔を満たした。
「いただきます」
カインが急須に手を伸ばした。二杯目を注ぐ手が、微かに震えていないか確認する。震えていない。五百年の歳月が鍛えた手は——嘘をつくときも震えない。それが余計に、苦しかった。
リーリエが二杯目の茶を受け取った。一口飲んで、カップを両手で包む。沈黙が流れた。窓の外で小鳥が鳴いている。冬の小鳥の、細い声。
やがてリーリエが口を開いた。
「カインさん」
「何だ」
「何でもなくは——ないでしょう」
カインが振り向いた。リーリエの目が、静かにカインを見ていた。問い詰める目ではない。責める目でもない。ただ——見ている。カインという人間を、真っ直ぐに見ている。
「最近、あなたの目に重いものがあります。茶を淹れるとき。私を見るとき。何かを言いかけて、止まるとき。——隠していらっしゃるでしょう」
カインは答えなかった。答えられなかった。
リーリエは追及しなかった。
「……無理に聞きません。言いたくなったら、聞きます」
カップを口に運んだ。そしてもう、その話題には触れなかった。
カインは背を向けた。窓辺に立ち、外を見た。中庭の花壇が見える。エーデルフラウの白い花が朝日に揺れている。背中に——リーリエの視線を感じた。見られている。気づかれている。隠していることが、もう隠しきれなくなっている。
「……ああ。そうだな。言いたくなったら——言う」
振り返らなかった。
リーリエが小さく「はい」と答えた。その声には——信頼があった。待ちます、と。あなたを信じて待ちます、と。その信頼が——カインの良心を、蝋燭の炎のように灼いた。
朝の花茶の時間が終わった。
カインが部屋を出て、廊下を歩く。足取りが重い。嘘をついた。最後の嘘。「何でもない」——あれは嘘だ。何でもないはずがない。
廊下の角でリュカとすれ違った。
「旦那様、顔色悪いっすよ。寝てます?」
「……うるさい」
「あー、寝てないっすね。お嬢に怒られますよ。最近お嬢、旦那様のこと結構見てますからね。ばれますよ」
「何がだ」
「無理してること。——まあ、俺が言うことじゃないっすけど」
リュカが肩をすくめて去っていった。カインは足を止めた。廊下の窓から差し込む光の中で、しばらく立ち尽くしていた。
明日。明日こそ——告げる。
しかし——その決意が鈍る。リーリエの穏やかな横顔を見るたびに。「不味くはないですね」と言う声を聞くたびに。施術で手を握るたびに。この人の日常を壊すことへの恐怖が、決意を侵食する。
教会にいた頃のリーリエは、何も感じない人形のようだったと聞く。今は違う。茶を「不味くはない」と評し、焼き菓子を「悪くない」と食べ、マリカのスープを「温かい」と感じる。小さな変化だ。けれどその小さな変化を積み上げて、リーリエはここまで来た。
「最後の聖女」の真実を告げれば——その全てが崩れるかもしれない。「死ねば楽になれる」という最後の希望が消えたとき、リーリエは何に縋ればいい。カインにはまだ代替案がない。「第三の道」は壁画の中の絵でしかない。希望を奪って、代わりに差し出すものがない。
それでも——告げなければならない。
この嘘を、もう一日だけ。
一日だけ——この穏やかな朝を、続けさせてくれ。
カインは花茶の杯を一人で傾け、苦い液体を飲み干した。甘くしていない。今日は——甘さが要らなかった。




