嘘のない日々
翌日の午後。冬の日差しが窓から差し込み、執務室の床に光の四角を描いている。光の中を埃が漂い、金色の粒子のように見えた。窓の外では裸の枝が風に揺れ、乾いた音を立てている。空は青く、雲は高い。穏やかな冬の午後——けれどその穏やかさの裏に、嵐が控えている。
重い執務室の扉が閉まり、カインとヴェルナーが二人きりになった。ヴェルナーは向かいの椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばしたまま主人を見ていた。長年の付き合いだ。カインが重い話を切り出そうとしていることは、表情を見るまでもなくわかっている。主人の深紅の瞳が、いつもより暗い。昨夜から眠っていないのだろう。
「リーリエに——もうこれ以上一つの真実を告げようと思う」
ヴェルナーの眼鏡の奥の琥珀の目が、静かにカインを見つめた。驚いた様子はなかった。
「最後の聖女であることを、ですか」
「知っていたのか」
カインの声が低くなった。
「私は旦那様の従者を五十年務めております。旦那様が何を抱えておいでか、察しがつかぬほど鈍くはございませんよ。あの方が城にいらしてから、旦那様の目がいっそう重くなりましたからな」
カインは苦い笑みを浮かべた。五十年。その歳月は、この従者に主人の全てを読む力を与えたらしい。隠し事をするなら、ヴェルナーの前ではしないほうがいい。
「隠し続けるのは、もう限界だ」
「全く同感です」
簡潔な返答だった。カインが言葉を続ける前に、ヴェルナーが口を開いた。背筋を正したまま、しかし声は穏やかだった。冷静な正論を述べるときの、いつもの調子。
「リーリエ様には知る権利がございます。ご自身の命のことです。ご自身の命が世界とどう繋がっているか——それを本人が知らないまま、周囲だけが知っているというのは、いかに善意に基づいていようとも不誠実です」
「……わかっている」
「それに」
ヴェルナーが一拍置いた。蝋燭の炎が揺れ、二人の影が壁で重なった。
「隠し続けて、もし彼女が別の形で知ったら——あなたへの信頼が壊れます。教会に捕まったとき。あるいは結界の異変から自力で悟ったとき。そのとき彼女が思うのは『なぜ隠していたのか』ではありません。『この人も教会と同じだ』と——そう思うでしょう」
カインの顔が強張った。その言葉は——深く、痛かった。
「教会と、同じ」
「教会はリーリエ様に真実を告げず、聖女として祭り上げ、道具にしました。あなたが真実を隠すのは動機が違います。守るためでしょう。しかし——結果として行っていることは同じです。本人の知る権利を奪い、判断の機会を取り上げている」
カインは椅子の背に身体を預けた。天井を仰ぐ。石造りの天井に、蝋燭の影が揺れている。ヴェルナーの正論は、いつも容赦がなかった。だからこそ信頼している。耳に心地よい言葉だけを並べる従者なら、五十年も傍には置かない。
「……わかっている。告げなければならない。だが——」
言葉が詰まった。喉の奥で、何かが引っかかっている。
「あいつの顔を見ると——止まる。あの穏やかな目を見ると。壊したくないと思う。ようやく——ようやく、あの子の目に光が戻り始めたんだ。それを——」
カインの声が——珍しく、揺れた。
ヴェルナーは沈黙した。眼鏡を外し、レンズを拭いた。何度目かの動作。長い沈黙だった。蝋燭の炎が二人の間で揺れている。窓の外では風の音が聞こえる。冬の風。冷たく乾いた風。
やがて、ヴェルナーが静かに言った。
「主」
いつもの「旦那様」ではなかった。五十年の中で数えるほどしか使わない呼び方。
「あなたが辛いのは——リーリエ様が大切だからです」
カインが目を見開いた。
「大切だから壊したくない。大切だから傷つけたくない。それは当然のことです。しかし——大切だからこそ、嘘はつけないのではありませんか。あなたは、嘘をつくたびに苦しんでおいでだ。毎朝、花茶を淹れるたびに。あの方の笑顔を見るたびに。嘘が——重くなっている」
書斎に沈黙が戻った。
カインは何も言わなかった。ヴェルナーの言葉が胸の奥に沈んでいく。「大切だから」。その言葉を、カインは「贖罪の対象として」と翻訳しようとした。しかし翻訳がうまくいかない。何かが引っかかる。歯車が噛み合わない。贖罪という言葉では——収まりきらない何かがある。
ヴェルナーが立ち上がった。
「私からは以上です。判断は旦那様にお任せします」
扉に手をかけたまま、振り返った。琥珀の目に、穏やかな光がある。
「ただ——一つだけ。リーリエ様は、あなたが思っているよりも強い方ですよ」
それだけ言って、ヴェルナーは去った。足音が廊下を遠ざかり、やがて消えた。
一人になった執務室で、カインは窓の外を見た。
中庭が見える。リーリエが庭を歩いていた。銀灰色の髪が冬の風に揺れている。傍にフィルがいて、何かを指さして話しかけている。リーリエがフィルの頭に手を置いた。小さな角が嬉しそうに揺れる。
穏やかな光景だった。
この日常は——嘘の上に成り立っている。カインが知っている真実を隠すことで、辛うじて保たれている平穏だ。リーリエの穏やかな笑みも、フィルと過ごす時間も、朝の花茶も——全て、嘘という土台の上にある。
その嘘が、日に日に重くなっていた。リーリエが「ありがとうございます」と言うたびに。リュカの冗談に目を細めるたびに。「もう少しだけ、ここにいたい」と思い始めるたびに。——嘘が、重くなる。
ヴェルナーの言葉が脳裏に残っている。「大切だからです」。
大切。五百年間、その言葉を使ったことがなかった。初代聖女を失ってから、何かを「大切」と呼ぶことを自分に禁じていた。大切なものは失う。失えば壊れる。壊れれば立ち上がれない。だから何も大切にしない。何にも執着しない。それがカインの五百年間の処世術だった。
リュカには「大切」という言葉を使ったことがない。ヴェルナーにも。五十年仕えてくれた従者たちに対しても、「大切だ」とは言わなかった。感謝はしている。信頼もしている。しかし「大切」とは——言えなかった。
リーリエに対して。
「大切」という言葉が——なぜか、喉元まで上がってくる。言葉にはしない。まだできない。しかし胸の奥に、その言葉が——居座り始めている。
蝋燭の蝋が溶けて、燭台に白い涙を垂らしている。その言葉の奥にあるものを、カインはまだ正確に見つめられなかった。贖罪の延長だと言い聞かせている。初代聖女を救えなかった後悔の延長。それ以上でも以下でもない。そうでなければ——困る。
しかし胸の奥で、何かが——静かに、確かに、動き始めていた。贖罪の枠に収まりきらない何かが。名前をつけるのが怖い何かが。




